樺太アイヌの物語 #2 信念と気骨の明治人~松本十郎
1.プロローグ
1869年(明治2)、北海道開拓民たちの心のよりどころとして
「北海道神宮」が造営されます。
ここは、鬼門といわれる北東の方角に本殿が向いている全国でも珍しい神社です。一説には、ロシアへ対抗するためとも言われています。
神宮内には、”北海道開拓功労者”を偲んで創建された「開拓神社」があります。現在、開拓に尽くした37柱が祀られています。
よく知られた人物では
この37人の中に入っていませんが北海道や樺太アイヌに関わった開拓使
判官「松本十郎」という人物がいます。
個人的に何故、彼が37人の中に入っていないのか不思議に思うくらいです。未確認情報ですが2018年、北海道に開拓使が置かれてから150年を迎える節目の年に松本十郎が祭祀された可能性があります(未確認)。
手持ちの資料を確認する限り、彼のアイヌの人々との接し方、開拓使内での意見対立の経緯とその後の生き方に、とても興味を持ちました。
人間的にも魅力的で、ダメな事はダメと筋を必ず通す。そして、誰にでも優しいという人間性。
特に自分の職を賭して樺太アイヌ問題に取り組んだ、まさに信念と気骨の
明治人たる松本十郎に心惹かれます。
2.鶴岡での松本十郎
松本十郎は、1839年(天保10)に庄内藩(現 山形県鶴岡市)で
物頭兼目付役の父「戸田文之助」、母「満」の二男二女の長男として生まれます。通称は、惣十郎。
十郎は、年少の頃、病弱であった為、最初、藩校「到道館」に入れず、
12歳の頃から田宮流居合の修行を行いました。武技は、十郎がもっとも
得意とするところで、剣で身を立てようと考えていました。
また、川釣りや網で鳥を捕まえるなど、盛んに山野を駆け巡り身体を鍛えていました。
1855年(安政2)15歳で藩校「到道館」に入学することを父親に許されます。
その後、1859年(安政6)19歳の時に黒谷直と結婚し25歳で「舎生」、藩の「近習」となります。
十郎は、他の子弟に比べて、かなり晩学でしたが、すぐに抜群の成績で頭角を現します。特に暗記力は群を抜き、これは母親ゆずりだった、と言われています。母親は子供たちに暗記した平家物語を聞かせていた程だったといいます。
3.初めての蝦夷地
1854年(安政元)に日露間で「日露和親条約」が締結された後の状況はどうだったのでしょうか。
前述したような状況下で江戸幕府は、蝦夷地警備を強化する為に庄内藩を含む奥羽各藩に北海道の分割支配「警備と開拓」を命令します。
庄内藩は、江戸幕府から蝦夷地・西部海岸警備の命を受け、石狩の浜益、
留萌、苫前、天売焼尻を支配します。厚田から積丹半島を更に南下した歌棄
までの海岸線の警備を担当します。蝦夷地総奉行以下数百人の藩士、農夫、職人らを派遣します。浜益に”本陣屋”(ハママシケ陣屋)、苫前に”脇陣屋”留萌と天塩に”仮の出張陣屋”を置いて、藩内より移民を募り連れてきます。
1863年(文久3)、十郎も病身の父親の健康を気遣って蝦夷地に同行します(この時 十郎23歳)。
最初の赴任地は苫前でした。ここでは、目付の金井右馬之助から柔術を学ぶなど比較的平穏な日々を過ごしていたといいます。
1年後、親子は浜益の「本陣屋」に移ります。
当時のハママシケにはアイヌの人々がたくさん住んでおり庄内藩と一緒に
仕事をしていました。厳しい環境下でありながら庄内藩の中では病人も発生しなかったのはアイヌの人々からの生活する上でのアドバイスがあったものと推察されます。
十郎は、この地において地元のアイヌの人々との交流の中から生活などを見る機会に恵まれます。例えば、鮭(秋アジ)の皮を干して、乾燥させて足に巻いて冬に歩くのは最高に良いなどアイヌの人々から聞いて生活していたという話が伝わっています。
1865年(慶応元)6月に3年の任期を終えて庄内に帰郷します。
4.江戸での松本十郎
庄内に戻った翌年1866年(慶応2)、庄内藩は軍制改革を行い
「殺手組」を設置。十郎は、到道館を辞め「殺手組」に入隊、伍長に
なります。1867年(慶応3)、江戸で市中警備に携わり、暇をみては
幕府の学問所「昌平校」(昌平坂学問所)に通い見識(鉄砲術と欧米情報)を深めると共に諸藩の藩士と交流をします。やがて力量を発揮し、江戸城に詰め、庄内藩を代表して意見を述べるなど活躍します。
■江戸薩摩藩邸焼討事件
1867年(慶応3)10月頃から薩摩藩士による強盗・火付けなどが頻発し江戸市中の取締を担っていた庄内藩屯所も襲撃された為、12月25日に
江戸の三田にあった薩摩藩江戸藩邸が庄内藩士や新徴組らによって襲撃
され、放火により焼失してしまいます。この事件が戊辰戦争(1868~
1869年)のきっかけとなりました。この襲撃に十郎も加わったとされています。
5.戊辰戦争
1868年(慶応4)から始まった戊辰戦争では、十郎は藩の会津・仙台・盛岡など奥羽諸藩への使者役を務めたり、各地で新政府軍と戦います。
1868年(明治元)9月、庄内藩は敗北(新庄攻撃には二番大隊幕僚として参戦)します。藩主酒井忠篤(1853~1915)は幽閉され庄内藩は突然、岩城国若松に転封するように命じられます。
これに憤慨した十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し、これが叶わなければ庄内攻撃の責任者であった黒田清隆と相討覚悟で京都に赴きます。
この際、朝敵出身である事を隠すために若狭国小浜藩酒井家の家臣と称し、姓名も先祖の松平氏の松と惣十郎の十郎をとって「松本十郎」と改名します(この時から松本十郎と名乗るようになります)。
しかし、京都で黒田が西郷隆盛(1828~1877)とともに恩赦に奔走していた事を知ると、松本は黒田にその非を詫びます。庄内藩への寛大な処置は、西郷隆盛、黒田清隆、特に西郷の配慮があったと伝えられ、その後、
西郷は庄内の地で尊敬される特別な存在となっていきます。旧藩士らは、
西郷から学んだ様々な教えを「南洲翁遺訓」という一冊の本にまとめて出版し、全国に配り歩き、その伝道者となりました。
松本は、この時、黒田と接触し、親しい関係を築きました。黒田も松本の
人物を認めて、自分が任じられる事になった開拓使入りを勧めます。
6.根室での松本十郎
1869年(明治2)7月、「開拓使」が設置(東京・芝の増上寺)されると開拓使次官黒田清隆に、その卓越した才能を認められて皇居で天皇に拝謁し東北唯一の天皇勅任による開拓判官に任命されます。
開拓使長官には、前佐賀藩主鍋島直正(閑叟)が就任します。
しかし、病弱だった鍋島は在任期間はわずか2カ月あまりで、一度も北海道の土を踏むことなく、「北海道の名称公布」後まもなく辞任します。2代目長官として東久世通禧が就任します。また、肥前の島義勇、土佐の岩村通俊、越後の竹田信順、蝦夷通として知られた松浦武四郎などが判官
として名を連ねています。
同年8月15日、開拓使は、松浦武四郎の原案を元に蝦夷地を「北海道」
と改称して11ヵ国86郡を置き、北蝦夷を書字「樺太」に統一します。
9月21日、「大国魂令」「大己貴命」「少彦名命」という「開拓三神」と
東久世開拓使一行は、イギリス船テールス号で島義勇主席判官以下官員、米、資材、さらに移民200名を乗せて品川を出港して箱館へ向かいます。
9月25日に箱館に入港し、30日箱館の「開拓使出張所」を開設します。
この日以降、”箱館”は「函館」に改められます。
函館には、東久世長官と岩村通俊が留まり、島義勇判官は、札幌建設のため
陸路、出発します。
しかし、広い北海道を統括するには函館の「開拓使出張所」では西南の端にかたより過ぎていることは明らかでした。1780年代の幕府調査隊山口鉄五郎は石狩平野を本府候補地にあげ、近藤重蔵や松浦武四郎も同様に指摘します。島判官の本府建設は、円山に登って東に向いて南北線をきめ、大友掘をはさむ区域を雄大な構想をもって始められました。
札幌の碁盤の目状の区画を構想し、都市整備の基盤を築きました。
しかし、予算を使い果たし、東久世長官と衝突、札幌在任わずか4カ月で辞任することになります。
最近の研究では島の辞任には陰謀があったともいわれています。
松本十郎らを乗せたテールス号は、9月29日に函館を出港して東へ向かいます。
10月2日、根室国(根室港)に着き、松本と医師、その他の官員、130人の移民(彼らは東京の無宿者や浮浪者で役に立たない者も多かったようです)、米や資材を降ろします。
この移民というのは開拓使が東京府にたのんで募ったもので、前述したように無宿者やなまけもの、乱暴者が多いので、松本はこのような者を移住させては、かえって開拓の妨げになるといって拒みましたが、既に募集した後だったので仕方なく連れて行くしかなかったようです。
竹田信順判官は、移民を乗せてオホーツク海を北上し宗谷に向かいます。
松本が着任した当時の根室は、ほとんどが手付かずの未開の地でしたが、
10月9日「開拓使根室出張所」を開設。松本は新しい郷土への愛着心を
芽生えさせようと、まず、漁場を独占していた「請負制」を廃し「漁場持」へ変更し誰でも自由に漁業活動が出来るようにします(全面的に請負制が
廃止されるのは、1876年(明治9)9月)。
更に税制を改め、税率の引き上げ、出納を厳正にし、学校、病院、牢獄
(刑務所)を建てるなど生活の改善に力を注ぎ行政の実績をあげます。
松本は当時、開拓の理念を次のように語っています。
「開拓とは田畑を開くだけを言うのではなく、また、漁業で金儲けをする
ことだけを言うものでもない。人の心を北海道に根付かせることこそ、その
基礎だというわけです。そのためには税金を軽くして規則などは、ことさら
設けず実情を詳しく調べもせずに、お上(開拓使)があれこれ言うことではない」
1870年(明治3)根室は東京府に移管ということになり、松本は憤慨して辞表を提出しますが黒田の尽力により移管中止となり、松本は根室に戻り
ます。
松本の仕事ぶり、人格は、同年、根室一帯の海岸線測量に強力していた
イギリス軍艦の海軍士官によって広く海外にも伝えられました。
■アツシ(厚司)判官
松本は当時、アイヌ民族の「アツシ(厚司)」と呼ばれる羽織を着用して
地元のアイヌの人々とも分け隔てなく接し、アイヌ語での会話もしていました(松本は明治4年頃には、ほとんどアイヌの人々と会話が出来たといいます)。また、「アイヌの人々といえども日本の国民なりと、その擁護に努め
巡視の際も土下座して迎える人々に”今は誰も彼も平等だ。仕事が分かれて
いるだけ”と言って土下座などはさせず、誰にでも「さん」を付けて呼び、
決して呼び捨てにすることは無かったといいます。
呼び捨てにした部下はすぐに免職にした程であったといいます。
松本がアイヌ民族の人々を差別なく、いかに愛護の気持ちをもって接していたかが分かるエピソードだと思います。
無私の性格で自己の蓄財を考えることもなく、私財を惜しみなく
地元の発展に寄付したといわれています。自費で各地に出張して民情を
探って施策に反映させていました。
根室ではアイヌの人々からも慕われていた松本十郎ですが、細かいところまで、あれこれ指示するので役人の評判は良くなかったようです。
それでも、彼は根室、花咲、野付、その後、標津、網走、釧路にも開拓の地を拡げていくことになります。
■納沙布岬灯台
現在の納沙布岬灯台は、1870(明治3)松本が難破船の帆柱を利用して
灯竿(標木)を立てたのが始まりとされています。
翌年1871年(明治4)工部省の役人とイギリス人設計士アール・H・
ブラントンが納沙布に出向き設計・指導のもと1872年(明治5)に木造
六角形の高さ13mの灯台を完成させました。
1930年(昭和5)には、現在の灯台に改築され、いまもなお、納沙布岬で点灯し続けています。
7.札幌での松本十郎
松本十郎は根室での実績が認められて1873年(明治6)2月、黒田
開拓使次官の命を受けて、7月大判官(開拓使No.3の地位)として札幌
本庁舎勤務となります(この時 十郎33歳)。
松本十郎が根室から札幌へ赴任する4年前の1869年(明治2)に松本と
同じく東京から移住民を率いて函館へ向かい、函館から”開拓三神”を背に
札幌へ向かったのが前述したように島義勇です。
彼の任務は北海道の本府となる都市を建設すること。
当時、東北地方は飢饉で食料確保が島の緊急課題でした。島は札幌の地で
食料となる作物を栽培すべきと部下を東北(酒田県:現 山形県酒田市)に派遣、移住民を募ります。しかし、島は、その移住民を出迎えることなく
判官の役職を追われて北海道を去ります。
その後、札幌に到着した移民たちが開拓したのが、その名前を冠した
「庚午(かのえうま)一の村(36戸)」「庚午二の村(30戸)」
「庚午三の村(30戸)」、現在は、それぞれ「苗穂」「丘珠」「円山」と呼ばれて大都市・札幌として発展する礎となりました。
1870年(明治3)1月、筆頭判官だった島義勇が罷免され、後任に
岩村通俊が就任し大判官となり全道のトップとなります。
1872年(明治5)札幌会議で黒田長官と激突します。当時、黒田は
長官代理で多忙もあり現地(北海道)には、なかなか来ることができませんでした。黒田は開発予算を巡る問題で怒り、岩村を罷免し、後任に松本十郎を据えようと説得します。松本は固く辞退しましたが黒田の切なる依頼に
引き受けることを決意し札幌に赴任します。
1873年(明治6)7月、黒田は松本を大判官に抜擢します。
岩村は、開拓使を辞める前に北海道全域を巡回します。
岩村を送る十郎の言葉が残っています、
「今日、君を見送る。いつ君のようになるかもしれない。人間万事塞翁が馬だ」。十郎のこの言葉は、2年あと、現実のものとなるのです。
北海道開拓の全権を任された松本は、まず、赤字体質となっていた事業全体
を見直します。
当時、札幌本庁は41万円以上の負債を抱えていました。米10キロの値段が32銭余り(現在で約4300円)の頃で膨大な額の負債であることが
想像できます。しかし、松本は人員削減(前任者 岩村通俊時代の役人
700人を300人まで削減)と綱紀引き締めを行い、帳簿を点検して
徹底的に無駄をはぶき、厳しい緊縮財政と新規事業凍結という改革を実施して、わずか1年半で巨額の負債を清算しました。
当時の札幌は経済も不況で貧困のため逃げ出す住民が続出し、一時916人いた人口が1873年(明治6)末には、396人までに激減しました。
要因は、財政難に加えて1874年(明治7)2月には樽前山が噴火するという天災も重なりました。このような状況で松本の評判は、いまひとつだったといいます。松本は「ケチ判官」という悪評も浴びていたようです。
そこで、松本は故郷の旧庄内藩士を桑園で従事させました。
1876年(明治9)からは、次第に札幌の人口も景気も回復していきます。
■「桑園」発祥の地
1870年(明治3)丘珠(札幌市東区)に移住してきた庄内藩出身者が”野桑”を生育している姿を見て、故郷での養蚕を参考に蚕室などを作っていました。このことを聞き、松本は”大桑園の造成”を考え、1875年
(明治8)黒田開拓使長官に進言します。
黒田長官は札幌の南1条から北側西8丁目以西の地域を開拓して、養蚕業を奨励することを決定します。
そこで松本は、この計画を実施するため、以前、広大な桑畑の開墾に成功していた山形の旧庄内藩士に桑畑の造成を要請します(庄内藩は維新後、養蚕による産業振興に取り組み、3000人の旧藩士を動員して200ヘクタールの桑畑の開墾をしました)。
要請により156名の旧庄内藩士が来道し、6月4日から9月15日までの間、10万坪の桑畑を開墾し桑苗4万株を植えています。
■松本、襲われる
この旧庄内藩士の指揮官松宮長貴(十郎が江戸在勤中の元上司)が6月に到着後、黒田長官と松本が出迎えます。開墾が開始されると松本の官邸に松宮を滞在させます。そこで、松宮が松本を殺そうとする重大事件が発生します。警察は松宮を罪人として処分しようとしますが、松本は精神を病んだだけである、罪人ではないといって庄内へ送り返します。
開墾地は、その後、「酒田桑園」「第一桑園」と呼ばれました。
現在、札幌市中央区のJR桑園駅とその周辺に名残りがありますが、駅の南側
から南1条通りにかけて桑園が広がっていたようです。
なお、北海道知事公館敷地には、かつて「桑畑の事務所」が設置されていた場所に1912年(明治45)に「桑園碑」が建てられました。現在の碑は
1966年(昭和41)に建て替えられたものです。
その後、藩士たちは山形へ帰り、新たに養蚕を志す人々が移り住みます。
また、琴似屯田兵村などでも兵村事業として進められなど札幌の産業開発に大きな足跡を残すことになります。
後に、この地域は、「桑園」とよばれ、現在も緑多き地区となっています。
その他に松本は民心をつかむため役所の周囲の土塁、豊平川の堤防、
白石移住小屋建設、製網業を興したり、農園を開くなどの公共事業を発注したり、また、農林漁業の保護政策の改善、農産物の流通対策、稲作の奨励
など殖産興業の基盤整備に注力しました。
■札幌開拓使本庁舎での松本十郎
開拓使での松本は毎朝6時に登庁してテキパキと書類を点検、決裁が終わると若い者の仕事の達成に手を貸し、ことに法律書には、よく目を通すように勧め、自分も法規をよく読んで勉強していたといわれています。
大判官という立場でありながら誰にでも道を譲り、また、役人の出張といえば役得と喜ばれた時代に出張旅費を節約して受け取らなかったといいます。
例えば、苫小牧出張は5日間の正当旅費を請求できる時代に松本は握り飯を
腰に付けて朝早く馬で出発し、夕刻には帰札するということがあったそうです。
■「大通公園」発祥地
松本は自宅では小使い1人、書生1人を置くだけの清廉潔白な生活でした。
時間がある時は官邸(現在の大通3,4丁目あたり)の周囲を耕作し、
開拓使顧問のケプロンも、その作物の出来栄えに感心したといわれています。また、草花を愛して庭に牡丹やアメリカ産の花々などを植えて、
咲き乱れる多くの美しい花を女性や子供たちに分け与えていました。
人々からは、「御花屋敷」とか「松本判官のお花畑」と呼ばれていたそうです。現在の大通公園の花壇の原点は、松本のお花畑にあるといわれています。いまは市民や観光客の憩いの場となっています。
■「稲作の父」との交流
根室より札幌へ赴任した松本十郎は”北海道の稲作の父”と呼ばれる
中山久蔵(1828~1919)と交流がありました。
松本は島牧駅逓所(中山久蔵の自宅)をしばしば訪れ、酒を酌み交わし
親交を深めました。松本30代、中山40代、年の差はあっても”開墾する
熱量”は、お互い同じだったのでしょう。
この島牧駅逓所は札幌農学校のクラーク博士がアメリカへ帰国する際、見送りの学生たちに「少年よ大志をいだけ」と言った場所としても知られています。また、現在の駅逓の建物内部には、1907年(明治40)松本が中山
久蔵80歳を祝して書き送った長文の手紙が陳列されています。
さらには1915年(大正4)に贈った「大黒の槌にもまさる鍬の先」の
掛け軸もあります。
8.樺太・千島交換条約
樺太における日露国境画定は幕末に何度か交渉を繰り返したが解決されず
日露共有のまま開拓使に引き継がれました。
1869年(明治2)北海道開拓使は樺太支庁を置き移民を送って開拓に当たりましたが、明治維新の草創期とあって充分に力を注ぐことはできませんでした。
一方、明治に入ってからもロシア人の進出は著しく強力で1849年
(嘉永3)以来、南樺太に部隊を入れアイヌ、オロッコ(ウィルタ)、ギリヤーク(ニヴフ)などの少数民族を支配しロシア本土より流刑人を送って石炭を採掘させるなど積極的な”南下政策”をとっていました。
開拓使次官となった黒田清隆は1870年(明治3)樺太視察を行いましたが
樺太への開拓投資には財源に乏しく日本が積極的に樺太へ進出したらロシアとの摩擦は避け難く、樺太開拓の困難性を痛感して東京に戻ります。
当時、政府は米英公使の樺太放棄説などから樺太に対し消極的になっていました、また、新しく設置した樺太開拓使も僅か1年半で廃止され北海道開拓使に編入されてしまいます。
樺太専任であった黒田次官も樺太経営に消極性を示し強硬論者の岡本監輔判官は失望して開拓使を去ります。
1873年(明治6)のロシア兵暴行に際して黒田は強力な樺太出兵論を唱えます。もっともこれは、西郷隆盛らの征韓論に対する牽制策とみられ、
したがって征韓論の崩壊とともに黒田の出兵論も消えます。
その後もロシア人と現地日本人との間にトラブルが絶えず、日本人は次第に
圧迫され安心して生活することができない状態になっていました。
日本政府にとっては大変やっかいな問題となります。
一時的には樺太売却論も政府部内で議論されたり、逆に副島外務卿は
ロシアのアラスカ売却の例にならって200万円で樺太を買い取ることを
提案しましたが1873年(明治6)1月ロシア政府は樺太が流刑地として
必要であるとして譲渡できないと回答してきました。
1874年(明治7)1月、ロシア臨時代理公使ウラロフスキーが外務卿 寺島宗則に対し、千島と樺太との交換の意志があると日本政府に伝えます。
同じ1月北海道開拓使中判官榎本武揚は海軍中将に転じ、駐露特命全権公使に任命されました。黒田清隆の推薦で条約交渉に当たるためでした。
そして、同年9月、開拓使は遂に日本人全員の引き揚げを行い、事実上、
樺太を放棄してしまいます。その時、在住日本人は約500人,出稼者約100人に及びました。
1875年(明治8)榎本武揚が全権公使になってロシアの首都ペテルブルクにおいてゴルチャコフ首相兼外相と領土交渉が行われ、紆余曲折はありましたが、同年5月7日「樺太千島交換条約」が締結され、8月には東京で
批准交換を終えました。
この条約によって樺太全島をロシアに渡す代わりにウルップ島以上
シュムシュ島に至る千島諸島18島を日本領としました。
交換条約の結果、現地に古来より居住する樺太アイヌと千島アイヌについて
どちらの国民に属するのか、それぞれ彼らの意志に任せることにしました。
樺太アイヌで日本に帰属したい者は樺太を去って日本領(北海道)に移ること、北千島のアイヌの人々もロシアに帰属したい者はカムチャッカに移り、
日本を希望する者は現地に残ることになりました。
この時、樺太アイヌは、ともかく、北千島アイヌはカムチャッカ方面へ
出稼ぎ中の者が数多いため意志確認が慎重、正確でなかった点もあったようです。
9.樺太アイヌ北海道移住
1875年(明治8)「樺太千島交換条約」が締結され、この条約により
樺太アイヌの人々は日本、ロシアのどちらに住むのか自由に選択できるようになりました。選択の期限は3年以内でした。
結局、樺太北部のアイヌの人々は残留し、1875年(明治8)秋(9月~10月)、南部の樺太アイヌの人々108戸841人が船(函館丸)で
宗谷(声問・メグマの浜)に移住しました。
アイヌの人々は故郷の樺太が遠望でき風土的にも鮭やニシンの漁獲も見込める宗谷への移住定住を希望します。
しかし、宗谷に移住する前から最終的に石狩(対雁/ついしかり))まで移住させる案が政府側にはあったといいます。
宗谷に移住して間もなく、樺太アイヌの人々に石狩まで更に移り住むように
働きかけが始まります。10月7日には、樺太アイヌを石狩に移住させることを決定したという通達が出ています。
そこで松本十郎ら役人が小樽から船で宗谷に向かい樺太アイヌの人々を説得することになりました。しかも、その前に既に移住に同意するという調書が
作られ、樺太アイヌの長たちは、拇印を押したという記録があります。
役人たちの度重なる”説得”に根負けしたと想像されます。
その後、樺太アイヌの代表者たちは対雁などを視察しましたが”不服”だったという記録が残っています。そして、11月下旬に宗谷に戻りました。
松本大判官も強く彼らの意見を取り入れることになります。
しかし、黒田は、それを許しませんでした。
彼は、宗谷であれば、眼の前の故郷・樺太にはすぐ戻れる。そこでロシアとトラブルが起きることを恐れたのです。
松本大判官は樺太アイヌの心情に同情。
樺太アイヌの長たちも、1876年(明治9)4月、松本十郎宛てに「全員が反対しているので移住を強行しないでほしい」旨の嘆願書を提出します。
松本は、1875年(明治8)から1876年(明治9)にかけて樺太アイヌと黒田長官との間に入って何とか事態を収拾しようと努めます。何度も
東京の黒田に意見書を提出しましたが許可を得ることは叶いませんでした。
松本は宗谷が難しければオホーツク沿岸の枝幸に移住することも検討したようです。
後に判明しましたが黒田にも意外な事情もあったようです。
それは地元の宗谷アイヌが樺太アイヌの宗谷定住に反対し開拓使に陳情したという事実も分かってきました(開拓使の正式な記録は残っていない)。
松本は、あくまで樺太アイヌの人々が納得しないままでの移住の強行には抵抗します。
ところが、翌春、1876年(明治9)黒田に指示された判官が巡査20人に銃を持たせ宗谷沖に現れます。船に据えられた大砲から空砲を発射して
アイヌの人々を威嚇して上、宗谷のメグマ浜に上陸。
6月24日脅迫して弘明丸に乗せ強制的に小樽経由で石狩国に向かいました。
小樽では樺太アイヌの人々が最初の約束と違うということで長を責め立て
長(アツャエターク)は遂に気がふれて血を吐いて死んでしまいます。
開拓使長官黒田清隆は松本大判官に相談することなく松本の出張中に
樺太アイヌの人々を現在の北海道江別市・対雁に宗谷から強制移住させ、
土地を与えることを決断したのです。
黒田と松本の亀裂は榎本武揚などの土地漁りや各地の土地払い下げに関連する役人の汚職まがいの許しがたい行為が頻発する事態と樺太アイヌの石狩強制移住問題により決定的となっていきます。
狩猟漁労を生業とする樺太アイヌの人々も、嘆願書でこの計画に同意できないと訴えます。同時に1カ所に集中して住んでしまうと、伝染病が流行した場合、全滅してしまうことを危惧していました。それが現実になってしまいます。
樺太アイヌの人々は環境の激変についていけず、嘆願書で危惧していたように1880年(明治13)にコレラが、1886年(明治19)には天然痘が流行し300人以上もの尊い命が失われました。
農耕も進みませんでした。
開拓使は移住費、家作料、米、塩などを支給したほか、移住地に宅地、耕地を与え、また、石狩川筋の鮭漁場や石狩厚田のニシン漁を認めました。
また、対雁学校を建てて子弟教育に尽力、婦人には製網所を設けて工芸指導も行い、農産授業所を設けて漁業と農業とによって生活を維持することを
図りました。
熱を入れた児童教育の中から師範学校に進学した者、のちに白瀬中尉の
南極探検隊に参加した山辺安之助(1867~1923)らが育ちました。
北海道へ移住させられた樺太アイヌの人々の樺太への帰還は、1905年
(明治38)の日露講和条約(ポーツマス条約)以前から活発でした。
北海道での生活に耐えられず墓参りなどの名目で樺太に一時、帰りたいと申し出をして、一時的に樺太に帰国(この時点は樺太はロシア領)して、その
まま帰らなかった人々が相当数いたといいます。
白瀬南極探検隊に参加した山辺安之助も、その一人でした。
彼らは、木造船に乗り宗谷を出発、なんとか樺太にたどり着きますが自分の
ふるさとである”ヤマベチ”に行ってみると、もうそこはロシア人居住地になっており、自分たちが住む場所はなかったのです。
そこで仕方なく、親類を頼って東海岸にあるトナイチャ(富内=トンナイ)に住むことになったのです。
樺太で生計をたてようにも日本国籍を持っているため漁業経営から制度的に排除される点で不利な立場に置かれる一方、北海道へ移住しなかった樺太
アイヌの人々は比較的有利な立場にありました。
しかし、日露戦後、南樺太が日本領になると、その立場は逆転します。
1875年(明治8)の「樺太千島交換条約」締結時に樺太アイヌの内に
生じさせられた分断は、日本領時代は、日本国籍の有無の差として存在し、
長く影響を与えることになります。
そして、1945年(昭和20)太平洋戦争で日本がポツダム宣言受諾後、ソ連が南樺太に侵攻、ほとんどの日本国民が樺太を退去し日本本土へ引き揚げます。その多くの人々の行き先は樺太に近い北海道でした。
10.松本十郎の開拓使辞職
松本十郎は、1875年(明治8)6月8日~7月12日の間、
「石狩十勝両河紀行」という石狩川、十勝川流域踏破の旅(出張)に出ます。この旅は自分自身の気持ちの整理と覚悟を固めるためのものだったともいわれています。
7月12日札幌に戻っても樺太アイヌ移住問題の返答はありませんでした。
樺太アイヌの人々の宗谷から対雁への強制移住は、6月23日の松本の旅
(出張)の間に実行されていたのです。
当初から樺太アイヌの宗谷への移住を主張していた松本は自分に相談もせず
出張中に対雁への強制移住を断行した黒田に対する憤りを抑えることができず開拓使大判官を辞する覚悟を固めます。
対雁へ強制移住させたことを知り、松本は「わが事、終われり。アイヌの
人々との約束を果たさずに何の面目あって人にまみゆるを得んや」と述べたと伝わっています。
また松本は長文の手紙を黒田宛に残しています。その概要は、
「今日(樺太)アイヌの人々の移住に関しては、閣下(黒田)の意見とは
違います。たとえ閣下の逆鱗に触れて、お怒りを受けることになろうとも、私は断固として閣下のご命令を受けることは出来ません。樺太アイヌの人々は宗谷に移りたいと願っております。ところが、どうでしょう。石狩川の
上流に移し、空知の夕張鉱(炭鉱)の仕事に従事させようとしています
(※実際は炭鉱で働くことは無かったようです)。石炭鉱は終身刑者を働かせるところではないですか。これを聞いた時、私は非常な驚きでした。
閣下は樺太アイヌの人々を蛮民だと言ったそうですが、閣下が移民を蛮民と
呼んだということは私が最も納得できないところです。」
そして、松本十郎は自分の無力さを嘆き、憤慨し、多年に亘り、恩恵を受けた黒田長官に感謝の意を添えて辞表を提出(送付)し開拓使を去ります。
黒田清隆は松本十郎の熱意と能力をかっていました。樺太アイヌに関し意見を違えたとはいえ開拓使における松本十郎は無くてはならない存在と考えていたのです。
辞職を思い止まらせようと説得したようですが松本はそれに応じることはなく1875年(明治8)7月13日早朝、馬夫と伴に官邸を出て、途中、
島松沢の心を許した友人の中山久蔵宅に立ち寄ります。
中山は突然の別れに驚き、馬上で語り合いながら苫小牧まで同行しました。
こうして心許した中山らに別れを告げて室蘭、噴火湾を渡って森から函館に向かいます。
この時、黒田が「玄武丸」で函館に来ていることを知り、会わないように手はずを整えて、16日「庚午丸」に乗り込み出発します。
この黒田が乗船していた「玄武丸」にはアメリカから札幌農学校に着任するクラーク博士が乗っていました。もし、松本とクラーク博士が札幌で出会うことができていたら、恐らく、お互い意気投合して北海道の将来について語り合ったことは間違いありません。その後の北海道の状況も変わっていた可能性もあります。
こうして津軽海峡を越えて、船川港(秋田)に上陸して秋田を経て、17日
松本は故郷鶴岡へ戻りました。(この時 松本38歳)
松本の清廉無私の為政は高い評価を受けた反面、薩摩閥で固められた開拓使において財政建て直しの仕事を終えた段階では、もはや松本の存在は許されない状況にあったという歴史的な見方もあるようです。
11.故郷へ戻った松本十郎
庄内(現 鶴岡市)へ戻った松本十郎は、1876年(明治9)11月、
私財を投じて戊辰戦争戦死者の招魂碑を鶴ヶ岡大督寺(現 常念寺)境内に建立し盛大な供養を行っています。
松本は、その後、官職に就くことはありませんでした。
勝海舟が台湾の民政長官に推薦しましたが受けることなく、また、地元の人々が国会議員に担ごうとしましたが固辞したといいます。
また、札幌に銅像を建てる話も爵位も固く断っています。
自らを「みの笠翁、松農夫、腕力農夫、酔翁、狂生」と号し、農地を耕す
日々を送りました。
その中で「空語集」「農業聞書」などを著しています。
その後、約40年間の生涯を1人の農夫として過ごしています。
松本十郎76歳の時、書に
「死生は天にあり、誹譽は、人生に任せ、ただ農を楽しむのみ」と書いています。どの土地、どの時代においても鍬をふるい、田畑を耕し農作物を作ることこそが人間社会を支える根本であるという信念だったのでしょうか。
松本の家族は、二男三女があり、長男小太郎は30歳で病死、次男小次郎は陸軍士官学校を卒業し、1900年(明治33)11月、札幌月寒の第25
連隊旗手として奉職しています。
松本が生涯を閉じたのは、1916年(大正5)でした。
同じ年の4月26日妻が逝去(73歳)、
そして11月27日、松本十郎逝去。尿毒症による病死。享年77歳
でした。現在は鶴ケ丘安国寺に眠っています。
12.エピローグ
令和のいま、松本十郎が、もし役所や企業にいたなら周囲から
”浮いた存在”であったであろう。当時も開拓使の中でも疎んじられていたのですから。
しかし、明治時代に人間平等をといた十郎は尊敬に値する人物であり、
個人的にも人間として魅力を感じる男です。
北海道白老町に「民族共生象徴空間ウポポイ」が建設されたり、
アニメ「ゴールデンカムイ」が幅広い層に愛読されている。いま「アイヌ」が注目されています。
松本十郎と樺太アイヌそして北海道開拓を結び付けたドラマ、NHKの大河ドラマは無理としてもドキュメンタリードラマなら製作できるのではないか。
また樺太アイヌや松本十郎に縁のある地域を周遊するツアー企画も面白い。
私は松本十郎という男がもっと世間に知られてもいいと思うのです。
それでも十郎は”やめてほしい”と言うのでしょうか。
最後に明治時代の歴史学者が松本十郎を評した言葉があります、
「松本十郎は、きわめて真面目で、きわめて剛毅で、きわめて正直で、
きわめて親切で、きわめて勤勉で、きわめて倹約であり、まったく
一身を忘れ、献身的につくされたところは、実に天下一品といえます」
■追記:エピソード
追記として松本十郎の北海道におけるエピソードをいくつかご紹介します。
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