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北の海の航跡をたどる~『稚泊航路』~#9 関釜航路からの連絡船「高麗(こま)丸」
1931年(昭和6)5月14日、壱岐丸が稚泊航路を退き、亜庭丸の1隻体制となったので高麗丸が関釜航路より稚泊航路へ転属となった。
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運航期間は、1931年(昭和6)6月2日から1932年(昭和7)1月14日までと1932年(昭和7)4月から10月30日まで。高麗丸は砕氷設備が無く、ほぼ夏期限定(流氷がない時期)の運航でした。
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『高麗丸』Koma-maru
・総トン数 3054㌧
・全長 97.5m
・全幅 13.1m
・速力 13.0ノット
・乗客定員 587名(1等3名/2等83名/501名)
・乗組定員 87名
・貨物積載量 930㌧
・建造 1913年(大正2)1月
・沈没 1944年(昭和19)フィリピン沖で沈没
※機関が故障しても帆走できるようにマストが設置されていた
壱岐丸の代船として稚泊航路に就航した高麗丸は、宗谷丸の就航をひかえて1932年(昭和7)10月30日で運航を打ち切り、函館港に係船されます。
1933年(昭和8)3月、北日本汽船へ売却されます。
大改造後、船名を「満州丸」に改名し、1933年(昭和8)5月21日から敦賀~清津直行線に就航させ、1937年(昭和12)まで同船を使用しました。
この直行線は、かつて稚泊航路で用船された「伏木丸」を第1船として同社が1928年(昭和3)1月に開設した航路でした。
その後、太平洋戦争時、軍に徴用され輸送船として使用されます。しかし、1944年(昭和19)9月9日フィリピン・サブタン島付近で潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。
Episode #1
高麗丸は、稚泊航路へ転属になる前の1925年(大正14)8月、北方の海を航海している。
鉄道省が摂政殿下(のちの昭和天皇)の樺太巡遊と樺太庁開庁20周年を機会に「樺太観光団(樺太巡遊団)」を組織したとき、その巡遊船としての大役を果たしている。旅行団は横浜を出港、樺太各地を巡り稚内で解散している。
樺太観光団には、全国から約300人が参加した。その中に、詩人北原白秋や歌人吉植庄亮の文化人もいた。
樺太から戻った白秋は、紀行記「フレップ・トリップ」、短歌は「海阪」に、詩は「海豹と雲」、童謡は「月と胡桃」など多くの樺太取材作を残している。吉植庄亮は随筆集「コメの貌」の中に「樺太まで」がおさめられています。
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2人は、船内の様子を次のように書き残している。
吉植庄亮は「~僕と白秋君の占領している部屋は、本船(高麗丸)唯一の特別室で、この船の最上等のものであり、御馳走はうまし、酒はあり~」
北原白秋は、「~船は特等室である。談話室と寝室と便器付きの広い浴室と、三室続きの豪奢なもの。先ごろまで関釜連絡船として朝鮮総督の使用室だったという。~」
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参考・引用文献
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史の変遷」 大橋幸男 著
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光調査 調査報告書」
・「樺太文学の旅」 ㈱共同文化社 発行