樺太鉄道とロシアパン
日露戦争最中の1905年(明治38)7月、日本陸軍の樺太遠征軍第13師団は、樺太(現 サハリン)に上陸して占領します。
同年9月5日、ポーツマス条約(日露講和条約)が調印(11月発効)され、
北緯50度線より南側は、正式に日本領となります。
□残留ロシア人
日露戦争以前には、北・南樺太合わせて約1万3000人のロシア人流罪人がいたと言われています。
日露戦争後、北緯50度以南に住んでいたロシア人は、そのまま残留するか、北緯50度以北(ロシア領)に引き揚げるか二者択一を迫られます。
大半のロシア人は、ロシア本国への引き揚げを選びますが、200人弱のロシア人は、残留を選択したと言われています。
彼らは、『残留ロシア人』と呼ばれています。この残留ロシア人には、ポーランド人やウクライナ人も含まれています。
日本政府は、残留ロシア人に財産権を保証し、これまで通りの生活を送れることを確約します。
1917年(大正6)ロシア革命が起こり、ソビエト連邦(ソ連)が樹立されると白系ロシア人の中には、日本統治下の樺太に亡命、定住する人々が出てくるようになります。
太平洋戦争になると樺太のロシア人は、日本政府より“敵性外国人“として監視されたり、拘留の対象となっていきます。
戦後、ソ連が樺太を実効支配すると樺太のロシア人たちは、財産を没収され、中には、政治犯として処分される人もいたようです。
彼らは、やがて旧樺太に移住してきあロシア人社会の中で同化していくことになります。
□ロシアパン
ポーツマス条約で樺太北緯50度以南が日本領となり残留したロシア人は、日本政府から生活を保護されるようになると彼らは、日本人社会に溶け込んでいきます。
彼らの多くは、自家製のパンを焼き、それを『ロシアパン』と名付けて駅前やホームで販売していました。
特に中里駅(現 ミツレフカ駅)や小沼駅(現 ノヴォアレクサンドロフカ駅)のホームで販売されていました。
日本でも明治時代の末に「ロシアパン」ブームが起きて、函館や東京では、“黒パン“が身近になっていたようです。
その担い手は、ロシア革命後に日本へ来て定住した白系ロシア人でした。
また、現地の通学途中の女子学生にとっても列車の待ち時間に白系ロシア人のおじさんからアンコがぎっしり入った「あんぱん」を買うのが楽しみだったという話も伝わっています。
ロシアパンは、当時の樺太土産として知られておりロシアパンの売り子の声やその声につられて旅行者が列車の窓からパンを買い求める姿は、樺太の風物詩(名物)として知られていました。
参考・引用文献
・『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』(梯久美子 著)2020年
・『樺太文学の旅』(木原直彦 著)1994年
・『サハリンあんない』(北海道サハリン友好交流協会 編集)1995年
・『鉄道ピクトリアル』1996年8月号