いつも、全部おいしかった。【chapter83】
素麺ばかり食べていた三人の夏だった。
聞かずもがなの答えをソノコが心に浮かべながら、
「夜ごはんなにが食べたい?」
たずねると、
「素麺。緑とピンクが入ったやつ」
家主のように態度の大きい弟と、
「好きだよねえ」
その弟の、清濁を包み込む兄のやりとりを見守るのは幸福だった。
子供の頃、二人で緑とピンクを奪い合ったのだと、タカシはいつだったか昔話をした。リョウは子供の頃から手先が器用で箸使いが上手く、華麗に緑とピンクを奪うのだと、やれやれと、笑って話す兄弟の思い出話はいつも温かく、二人の宝物を分けてもらうような、心を温める幸福があった。
「甘えた」
沢山の幸福の、なかでも、きっとあれは至福の会話。至福の夜。素麺と天ぷらの夜。
いつかの三人での夕食。食後のお茶を飲む前、隣に座るタカシが大きなため息をひとつ吐き出し、ソノコの首筋に顔を埋めた時。ソノコが首をひねりタカシのこめかみに唇を当てた時。
「疲れた?眠い?」
沈黙でタカシが小さくひとつ頷いた時。ソノコの正面の席で、忌々しげに呆れた音で、甘えた。と、リョウがタカシをにらみつけた。
夜がきたばかり、網戸にした南側の窓から外の音が聞こえた。走る車の音。エアコン要らずの爽やかな夜だった。白いシースルーのカーテンが時々風を含んでウェディングドレスのように膨らんだ。夜の匂いから夏が近いことを知った。もうすぐ始まる恋人との夏を、恋人を好きな気持ちと大差なく好きだと思う恋人の弟との夏を想像すると、ソノコは、腹の底から沸き上がるワクワクに、身長が伸びそうなほど背筋が伸びた。「もうすぐ夏がくるわ」と感じた喜びは、結局、夏のど真ん中で「夏だわ」と実感するのに勝る喜びだった。
天ぷらを、これでもかと揚げた夜だった。
二人に先に素麺を準備し、ソノコは黙々と天ぷらを揚げては、湯気のたつそれをキッチンカウンター越しにタカシに手渡した。
「テラッテラ、天ぷら職人」
と、ソノコの顔を見て笑うリョウと、
「キッチンドランカー」
と、エンドレスの揚げ物に忙しいソノコの手元に、ビールを注いだグラスを置いてくれたタカシを、
「揚げながらソノコも食べてね。揚げたて最高」
と、笑うタカシを、その場面を切り取って額に入れて飾りたいと、ソノコは思った。
海鮮や肉を揚げ、野菜を揚げた。たぶん、自分用になるだろうと予想して揚げたアボカドの天ぷらを二人は、
「なんだこれ、うまい」
「クリーミー」
と、結局全部二人で食べ尽くした。そばに添えた、櫛ぎりのレモンと塩をかけ、「これやばい」と二人は食べ尽くした。
「この男はこんな甘ったれた男じゃなかった。骨抜きか」
一通りの天ぷらを揚げ尽くし、やっとテーブルについたソノコの首筋に
「おいしかった。おなかいっぱい」
と、目を閉じて顔を埋めたタカシ。口に運ぼうとしていた、冷めきったエビの天ぷらを皿に戻し、空の箸を握ったままソノコはタカシのこめかみに唇を当てた。
「疲れたときに彼女に甘えることの何がそんなにいけないの?リョウくん自分にも他人にも厳しすぎるのよ。自分だって女の子に甘えたくなるときあるでしょ?」
「ない。生まれてこのかた一度もない」
沈黙のまま、ソノコの首筋に顔を埋めたまま、会話に加わらないタカシが、辛うじて聞き取れる音量で、
「羨ましいくせに」
呟いた。
「今なんつった」
「なにも言ってないよ。リョウくんは立派だねって言っただけ」
「なに一つ羨ましいことはない」
「聞こえてるじゃん」
「なにひとつうらやましいことはない」
「滑舌いいね、リョウくん」
「ただ、俺はもう決めた。早く結婚して早く家をもて。そして、南向きの一番いい場所に俺の部屋をつくれ。子供は男だ。兄弟。俺がバスケを教えてやる」
「一緒に暮らすの?」
ソノコの、胡麻油と辛い香水と甘い体臭の混ざった匂いがする首筋から顔を上げたタカシの、珍しく裏返った高音の声と、
「リョウくんは結婚しないの?」
叫んだソノコの声が重なった。
「一緒に暮らす、三人で暮らす。家族だからな、当然だ」
「リョウくん、結婚するつもりないの?自分の家族をつくらないの?」
厳しく問い詰めたつもりが、きっと、厳しい音にはならなかっただろうと、二人に確認せずとも、ソノコは自分の声がこの上なく幸福な音で響いてしまっただろうことはわかった。三人で暮らす、そんな暮らしは幸せ以外のなんだろう。
「よく聞こえない。俺の人生だ。俺の幸せは俺が決める。三人でこの暮らしの延長をひとつ屋根の下で築く。それが俺の人生だ。お茶飲みたいんですけど、甘いものも食べたい」
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