シー・ユー・アゲイン【chapter54】*
宛名のない手紙も崩れるほど重なった
僕は元気でいるよ
心配ごとも少ないよ
リョウは過ぎたこの数ヶ月を思う。元気でいるだろうかとソノコを思った。
タカシが消え、葬式から数日後、最後にソノコと会った日。部屋を出ていくソノコを見送らず、ベッドの上でぼんやりと腕時計を見つめていた。
「リョウくんごめんね。今までの全部ごめんなさい」
背中を向けたままソノコは呟き出ていった。「お前はなにも悪くない、お前もタカシも。悪いのは全部俺だ」と伝えることが出来なかった。ただ、腕時計をしばらく、長い間、見つめていた。ベッドの脇、床の上、水色に色褪せたエプロンがあった。「忘れてった」と声にしてみたが、それは白々しく淋しく耳に響いた。忘れたのではなく置いていったのだと思った。「二度と見たくない」と。床から拾い上げ、リョウは置いていかれたエプロンに自分を重ねた。
この数ヶ月、忘れるもなにもない、ソノコを忘れようがなかった。常に心の中に存在があったのだし、忘れる術がなかった。けれどどうしてもそれと同時にタカシを思った。ソノコの声や顔を思い浮かべてもすぐ消え、タカシを思う時間は減るどころか増えていく。
タカシに会いたい。
喉が痛くなる。リョウはハンドルから左手を離し首を押さえる。腕時計が微かに優しい金属音を奏でた。首を押さえても喉は痛い。どうしても会いたいと思う。どうしても伝えたいことがあるのだと思う。
ポタポタと。あごから滴が落ちる。目から頬を伝いあごから落ちていく。止まらない涙がリョウの色あせたチノパンを黒く染めていく。景色を滲ませる。
「むしずが走る」と吐き捨てたタカシとの最後の日。
リョウはクジラになりたいと言ったタカシを思い出す。
(やせたな。)元々シャープだったあごの線が濃くなった。ソノコがセクシーだと、大好きだと愛しそうに見上げる白髪も増えたように見えた。タカシと二人きりの時間、常より会話が減り息の詰まる瞬間が増えたことに、リョウは気づいていた、きっとタカシも。それでも、タカシのリョウを見つめる目は温かく「リョウくん」と呼ぶ声は、愛の音がした。
「俺はクジラになりたい。
クジラになって、食べることも眠ることも忘れて、全てを注いでソノコと泳ぎたい」
今、あの時のタカシの気持ちが、すぐそこにあるものを手に取るように、分かってしまう。夏の中ですいかを抱え目を閉じ、ソノコを思っていたであろうタカシの気持ちを、ラーメンを啜りながらソノコ以上に誰かを好きになることはないと呟いた気持ちを、分かってしまう。それがとても苦しくて悲しい。
「リョウくんも本当はクジラになりたいんじゃない?」
と問うた、タカシの瞳。
震えるため息をつきリョウは、過去を手繰る。
小学生のリョウ。【じぶんについて】という授業で【たからもの】を問われた。周りの子供たちはゲームだ自転車だと言っている。リョウにとっての宝物はたったひとつ。
タカシ。
小学生のリョウはプリントに書いた、その名前を見つめほくそ笑む。「タカシにはぜったいに、ひみつだ」
タカシの「宝物」だったソノコ。そしてそれを自分の「宝物」にしてしまった。
タカシはクジラになれたのだろうか。
子供を産み、寝食を忘れ、愛だけで育て北の海へ帰っていく、寄り添う二頭のクジラ。クジラは俺を許しはしないし、リョウくん、と笑ってくれた弟思いの兄はもういない。リョウは涙をぬぐう。
タカシごめん。俺、毎日自分を責めてる。宝物だって伝えなかったこと、後悔してる。でもな、もし生まれ変わったとしたら俺は、またタカシの弟になりたい。絶対になりたい。俺まだ、タカシにまたねは言えない。またねって言える日までは、まだもう少しかかると思う。タカシに会いたい。タカシ、大好きだよ。
マンションにつくと、玄関の前 にソノコが立っていた。タカシの誕生日ケーキをぶらさげて。
「リョウくんやせたね」
心配そうにリョウを見つめる。
「お前に言われたくないよ」
仏頂面を見上げ、ふふっとソノコはかすかに笑う。
懐かしい泣き笑いの顔を見つめ、自分の中にあふれる気持ちがあることにリョウは気づく。伝えたい気持ちがある。バーンワンズブリッジ。
「やせた。何食べても旨くないから。豆腐もまた食べられなくなった、せっかく食べられるようになったのに」
「ごめんね。リョウくん」
ソノコがリョウの顔をのぞきこむ。二人の頬を静かな涙がこぼれあごから落ちる。
リョウは以前より一層細くなったソノコの肩に手を置く。温かく大きな手の感触が、肩に誠実に伝わる、思い遣りが伝わる。ソノコを胸に引き寄せ腕の中に包む「エプロン、」
「エプロン、洗濯した。またごはん作りにきてください。許されようとは思わない、でも、ソノコごめん。今までの全部、ごめん」
「似合うね。チャラい髪型」
ソノコが笑う。
「だからお前に言われたくないよ、あくびちゃんみたいな顔しやがって」
仏頂面の消えた顔でソノコを強く抱きしめる。頬を涙が落ちる。濃紺色の空が二人を包む。