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大好きなあなたへ…1/5

2019年7月。愛する娘との、あまりにも突然の別れ…
一周忌を間近に控え、この機会に自分を見つめ直してみました。 自己紹介を兼ねて人生を振り返り、こころの変遷を記します。

えっ・・・?今日は1学期の終業式だったよね?
ほんの数時間前に、あの子に可愛いコップ
買いましたってLINE来ていたよね? 
なんなの、これ・・。

こころが、魂が、吹き飛んだ…
真っ白で、真っ暗。涙がとまらない。
何だったのだろう、この子の人生は。


何だったのだろう、この私の人生は…

気管支炎喘息

 私は、幼少のころから気管支炎喘息を患い、体が弱かった。喘息の発作で眠れず、夜中に階段で座り込み、呼吸を整える。お風呂に入ったり、横になると特に呼吸が苦しくなる。

 学校は親の方針で休めない。苦しくても、集団登校の列に必死について行く。給食当番では瓶牛乳十数本が入ったケースを、階段を休みながら運ぶ。下校は、ひとりぼっち。次の電柱まであと何歩と数えながら・・。

 近所の方が、見かねて自転車にのせてくれた事があった。母に怒られた。「自分で帰って来い。」
 いつしか、発作が辛くても隠すようになった。
 
 心に刻まれたのは「人を頼ってはいけない」「自分のことは自分でする」「自分の本音を出してはいけない」ということ。
 
 以後、就職するまで、学校と自宅を往復する毎日。お金を使う場所も目的も無いので、10代をアルバイトもせず、ひっそりと過ごした。

父の失踪

 20代前半のある日、父が家を出た。買ったばかりの携帯電話への初めての着信は母からだった。「今、公衆電話からかけている。ここがどこかわからない。」私が結婚するまでの約五年間、母と弟との三人暮らし。

 この時期に父方母方両方の祖父が他界。母方へは、葬儀の打ち合わせに家代表として参加した。一方で父方では、席次を飛ばされそうになった。こういう事は覚えているものだ。

 家の外では、飲み仲間や親友と呼べる友達も何人か出来た。ただ、どちらかというと一人の時間が好きだった。友人と遠出しても、帰る時間が気になる。楽しくても、疲れてしまう。

 家には誰も入れたくない。
 
 自分の落ち着ける空間に、他人を入れる事など、あり得なかった。

生きる指針

 人との付き合いが苦手だった私が、世間で生きていく為に身に着けた術が「人の役に立つと感謝される、受け入れてくれる」という他人軸の生き方だった。
 
 相手が辛そうなら手を差し伸べ、感謝される行いを心掛けよう。これが生きていく指針となった。
 他人の辛さを敏感に感じる性質だったのだと思う。

 でも、それは自分を守る為に自分を犠牲にする、矛盾した行いだった。
 私は、両親に愛された記憶を忘れていたが故に、誰かに愛されたい、認められたいという思いが強くなってしまった。

 これでは人との付き合いにすぐに疲れてしまう。

家族

 こんな私でも、27歳の時に家族を持つことができた。
 3人の子宝に恵まれ、絵に描いたような幸せだな、あの俺が良くここまで来たな、と思えた。

 しかし、両家からの支援や働き掛けに対し、自分のことは自分でやりたい私としては、我慢を強いられる場面もあった。

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