優柔不断な女
小さい頃、いじめられていた。
どうしていじめられたのかといえば、私の性格が問題だったからだと思う。私は、誰かに褒められたい、認められたいと思うと同時に、人に嫌われるのが病的に怖かった。調子の良いことをよく言って、周りの友達にちょっと受け入れられたと感じると、調子に乗り過ぎておかしな事をした。私と仲良くしたい子なんて、いなかった。出しゃばれば、恥をかかされ、陰口も叩かれる。
いつも日陰のタイプだったけれど、本当は日向の子達に憧れていた。そっち側に行きたかった。それが、皆んなに認められ、好かれているということだったからだ。
ある時、運良く日向の友達と仲良くなり、その子のご機嫌取りをするようになった。まるで、主従関係のような間柄で、でもそれが嫌ではなかった。ひとりぼっちになるよりは良かったし、何よりもに日向の人間になれたことが嬉しく、心地よかった。
しかし、それは長くは続かなかった。突然、その子とその取り巻き達から一斉に無視されるようになり、私はひとり、孤立した。まるで教室の晒し者になったようだった。
私は、もう学校に行かなくなった。調子に乗って身分不相応な場所に身を投じたせいで、教室の全員に嫌われた。それは、私が一番怖がっていたはずのことだった。嫌われたくなかった。明るく楽しく満足のいく学校生活を送りたかった。
あれから10年以上が経ち、私は、今では嫌な女だ。
あっちの男とこっちの男を行ったり来たり。先週はあの人の家に泊まって、今週はこの人の家に泊まる。私の歯ブラシ、こっちは何色だったっけ。
あなたってやっぱり大きいね。
誰と比べて?
と聞かれ、冷や汗。
何も決められない。付き合う男もひとりに絞れない。
何も貫き通せない。一人の人を愛し抜けない。
あっちに会うと、こっちに会いたくなって、こっちに会うと、あっちに会いたくなる。
無駄な時間。大事な人生の時間を、浅はかな二股で浪費していく。もう何年になるだろう。二年だろうか、三年だろうか。人の時間を奪い、何事も成さぬまま、いつの間にかおばさんになっていく。
好きの意味がわからない。会って話してセックスしたら、甘言のひとつやふたつ簡単に出る。そういう相手がひとりだけなら、自分はこの人が好きなんだと思う。けれど、ひとりじゃなかったらなら、他の人とも同じような関係を築けてしまうのなら、好きという感情は一体どれほど軽いものなのだろうかと考えずにはいられない。セックスして、好き。会って話して、好き。一緒に飲んで、好き。手を繋いで、好き。キスして、好き。恋人みたいなことをしたら、いとも簡単にこの、好き、という言葉を使うことが出来る。
昔は、ドキドキするのが、好き、だと思っていた。でも、そうじゃない。ドキドキなんて、数年で消えてしまう。
今はもう分からない。安心感が、好き、ということなら、どうでもいい相手ほど好きだということになる。もしくは、年数が長ければ長いほど、好きだということになってしまう。
助けたい。幸せになってほしい。それが、好き、なら友達だって同じだ。
どれもこれも違う。
確かに前から優柔不断なところはあった。小さな事から大きな事まで、自分で何かを決めることができなかった。
あの服とこの服、どっちにしよう。あっちのが色は好きだけど、こっちのタイプの襟のが好き。やっぱりこっちにしようかな、でもやっぱりあっちのが安いし。
まぁ、いっか、今すぐ決めなくても。家に帰って、もう少し考えてから買おう。
そうやって、決断を先延ばしにし、気づいた頃にはもうその服は売っていない。
大学の時、留学をしようかと思いながら、日本で四年間が過ぎた。海外に関わる仕事をしようと思いながらも、平凡な中小企業の内定をもらい、就職活動の期間が終わった。
少し勇気を出せば、自信を持てれば、その一歩を踏み出す事は不可能ではなかったかもしれない。それが出来なかったのは、何も成功したことのない人生経験が、お前が調子に乗ればまた痛い目に合う、どうせ今度も大それた事など出来やしないだろうと、耳元で囁くからだったと思う。私は、自信を持つことが、不幸を招くということを知っていた。だって、それ自体が、私には身分不相応だから。
そういえば、誰にも愛していると言われたことがない。そういう付き合い方してるとそういう相手しか寄ってこないよ、と誰かに言われたのを思い出す。優柔不断は、優しくて柔らかい。けれど、それだけ他人に甘くて自分にも甘い。どんなに酷いことをしても、結局、私は、私を許してしまう。嫌われるのが怖い、ひとりになるのが怖い。許してくれない他人には見つからないように、私はそれを繰り返す。
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