ある女の一生
ローズ・オルティスは、裕福な家庭に生まれた。
ローズが生まれて間もなく、祖父が他界し、父は会社を引き継いだ。
ローズは優しい父と母の元で何不自由なく育てられた。
ローズは、幼い頃から才能に溢れていた。美術と音楽が得意だった。ローズの絵や彫刻は、毎回コンクールで賞をもらい、合唱祭ではピアノ伴奏者になった。母は、ローズをピアニストにしたかった。
15才になったローズは相変わらず才能豊かで、将来は、画家になりたいと思っていた。
1度目の引っ越しをしたのはその頃だった。両親は引っ越しの理由を語らなかったが、父親のカフスボタンが安っぽいプラスチックになっているのを見て、なんとなく察しがついた。
一家は田舎の狭い家に住み、家政婦もいなくなった。だが、ローズは何も不自由を感じなかった。パーティーに行く回数は減ったが、元々パーティー嫌いのローズにはむしろ好都合だった。
ローズは18才になり、地元の大学に進学した。優秀な成績で奨学金を獲得し、両親を安心させた。
その年、2度目の引っ越しをした。さらに小さな家に住むことになり、父親はワイシャツよりもTシャツを着ることが多くなった。インターネットで父親の会社を検索すると、3、4年前から更新されていないホームページが出て来た。ローズは調べるのをやめ、画家になるのを諦めた。
年頃のローズは美しく、何人の男に言い寄られたか知れない。友達と行ったビーチで出会った3つ年上の男と付き合った。アレックスという鼻筋が通った筋肉質の男だった。初体験もした。だが、想像したほどロマンティックではなく、呆気なかった。アレックスはローズに夢中だったが、ローズはすぐに別れを告げた。
その後、何人もの男と寝たが交際はいつも長続きしなかった。セックスが終わると男に飽きてしまうのだった。ローズのことをセックスが目的のビッチ呼ばわりをした男もいたが、ローズは気にしなかった。それが本当のことかも知れないと、なんとなく思うことすらあった。
「ごめん、私、こういう性格なの」
別れの理由を尋ねる男たちに、ローズはいつもこう答えるしかなかった。
20才を迎えたローズは、他の若い人たちと違って、恋愛よりも、良い仕事に就くための勉強や仕事探しに時間を費やしていた。
ローズは、幼い頃に住んでいた家のほんの些細な気配を思い出すことが増えていた。庭に咲く花や、門が開くときのミシミシという重厚感のある音、噴水の水が太陽の光に反射し虹色に輝いていたこと。そういう細かい日常の風景が、それが現実だったあの頃をより強く思い出させるのだった。
早く仕事を見つけて、あの頃の自分たちの居場所に戻りたい。ローズにとって今の家は、本来の自分の家ではなかった。ローズはますます就職活動に邁進した。
ローズは大学を卒業し、大手銀行に就職した。初任給で両親に旅行をプレゼントした。毎月決まった額を家に入れ、生活にも余裕が出るだろうと思っていた。父親にも、早くゴールドのカフスの付いたワイシャツを着て欲しかった。早く昇進できるよう、激務でも抜かりなく仕事をした。
この仕事で家計を助け、きっと豊かな生活を取り戻してみせる。理由もなく、何かを成し遂げられるような気がした。
ローズ24才。若さと仕事への情熱に溢れていた。
28才の冬、ローズは恋をした。初めてはっきりと恋心というものを自覚した。
雪の降る寒い日が続いていた。相変わらず父親はTシャツを着て、大きなトラックを運転しており、運んでいるダンボールの中は水が入ったペットボトルでいっぱいだった。何の水なのかは分からなかったが、値段は高かった。
ニューイヤーズ・イブの日、父親が会社の若者を家に連れてきた。ラヒムという東南アジア系の技術者で、瞳が綺麗な明るい青年だった。
ローズ一家とラヒムは、ディナーを共にした後、トラックで海岸へ向かった。トラックは父が運転した。ラヒムは持ち前の明るさで笑い話を語って聞かせ、ローズたち3人を退屈させなかった。
ラヒムの家族は遠い異国の地で貧しく暮らしていると言う。働けない父の代わりにラヒムが稼いだお金は、食費になり、家賃になり、兄弟の学費になる。決して楽な暮らしではないが、ラヒムはそれを誇らしいと言った。
他人事とは思えなかった。ローズが稼いできた金は行方知れずに消えて行き、一家の生活はまだ苦しかった。
屈託のない笑顔で家族について話すラヒムを見ると、胸が詰まる思いがした。
その日、新しい年の朝日が海岸から登るのを4人で見届けた。
ローズは両親と共に家に帰って一眠りし、翌日はシャンパンを開け、いつもより少し贅沢な食事をした。ラヒムは1人で小さなアパートへと帰ると仮眠をとり、程なく仕事に出た。
翌年の春、ラヒムは国へ帰っていった。あの日以来、ラヒムは時々父に連れられて来たが、いつもディナーを食べるとすぐに帰った。最後までくだらないジョークを飛ばし、太陽のように明るい青年だった。
ローズは静かに恋心の灯を消した。ローズはそれが何度のセックスよりも幸福な気持ちであることを知り、それと同時に、別れの辛さも感じた。何度も抱かれた相手との別れよりも、数回会っただけのラヒムとの別れの方が辛かった。
ローズは、実際は誰よりも純粋な女だった。
ローズはいつの間にか30才を超えていた。もう溢れる若さはなかった。父ももうすぐ仕事が出来なくなる年齢だ。相変わらず、重くて高い水を運んでいた。
銀行の仕事はうまくいったが、ある地点まで登ると、それ以上は男性しか上がれないことに気づいた。
あの頃の暮らしを夢みていたローズは、それがもう叶いそうもないことを悟った。ローズが生まれた代わりに祖父が死んだ時から、運命は決まっていたのかも知れない。
ラヒムからは便りが送られて来た。母国で元気に暮らしている、父をはじめローズたち一家には感謝している、そして、今は現地の女性と結婚し幸せな日々を送っている、と。
ローズは淡々と仕事をこなした。
ある時、背の高い痩せた男がニューヨークから赴任してきた。浅黒い肌と理知的な眼差しが少しラヒムに似ていた。
ローズはその男とセックスした夜、去っていったラヒムのことを思い出した。ローズは初めてしまい込んでいたその記憶に涙を流し、男はローズの肩を抱いて慰めた。
程なくして、ローズと男は結婚し、息子が生まれた。ローズは35才だった。
父は重い水を運ぶ仕事を辞めたが、代わりにその水を、孫に飲ませるように、と念を押すようになった。ローズは、それを息子に飲ませることはなかった。
息子は、すくすくと元気に育った。ローズは、休みなく銀行での仕事を続けた。忙しいけれど充実した日々だった。あの頃を思い出すことはほとんどなく、それについて誰かに語ることもなかった。
やがて息子が結婚し、孫が生まれた。
ローズが銀行での約40年間で確認した金額はとうに億単位を超え、老眼のせいで0の数がだぶって見えるので、眼鏡が欠かせなくなっていた。
ローズは定年まできっちりと働き、仕事を退職した。大きな花束がたくさん用意され、ローズの退職を職場の皆が祝ってくれた。
「本当にやめちゃうんですか?」と悲しそうにする人もいた。ローズは職場で一番の古株になっていた。
「もう、40年になるのよ」と言うと、皆驚いた顔をした。
孫のステファニーは、しきりにローズの昔話を聞きたがった。60才を過ぎたローズは、今まで誰にも語らなかった10代の頃の日々を語り、その時ばかりは娘のような気持ちになった。
そのうち、ステファニーは、ローズが昔暮らしたあの屋敷へ行きたがるようになった。
ローズは、ステファニーと共に、50年以上足を踏み入れていないその地区へ、あれ以来初めて向かった。
ミシミシと音がしていた扉は静かに開く薄い扉になり、噴水があった場所には木が植えられ、見たことのない小さなオレンジ色の実がなっていた。やがて、3人の子供が学校から帰って来るなり、木に登り、オレンジ色の実を次々にもぎ取った。その木は、子供たちのお気に入りのようだった。
誰かに買われたあの頃の屋敷は、まるで別のものになっていた。
「おばあちゃん、このお家なの?」
ステファニーが尋ねた。
「そうよ。でも、昔とは随分変わっちゃったわね」
住む人が変われば、家も変わってしまう。ローズは、そこがもう自分の居場所ではないのだと理解した。
「おばあちゃん、かなしいの?」
ステファニーが心配そうな顔でローズを見上げる。
「いいえ、ちっとも」
不思議と悲しくはなかった。
ローズは、ステファニーの小さく柔らかな手を優しく握り、微笑んだ。ステファニーが笑った。
過去の柵に捕らえられていた自分が馬鹿らしくなった。
家に帰ると、香ばしいチキンスープの匂いがした。夫と息子夫婦が夕飯の準備をして待っている。あちこち痛んで重かった体が、心なしか少し軽くなった気がした。
「おかえり、ローズ」
夫が温かい笑顔を向けた。
「ただいま」
65才のローズは、愛する家族に囲まれていた。 そこは、紛れもなくローズが帰る場所だった。