〈エッセイ〉〜アンネフランクはいつ殺されたのか 「アンネの日記」最大の功績〜
1、第二次世界大戦時とアンネフランク
1939年からヴェルサイユ体制が原因となって第二次世界大戦(以下WW2)が始まる。その中心となったドイツはイタリア、日本とともに枢軸国陣営としてイギリス、アメリカ、ソ連をはじめとした連合国陣営と戦争をすることになる。この戦争は1945年までの6年間続き、人類史上最大の戦争となった。当時のドイツはアドルフ・ヒトラーが牽引する国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチス)による独裁指導体制下にあった。ヒトラーの政権下の中でも目を引くのは、アーリア人至上主義の下、ドイツ国内、ドイツ占領下のユダヤ人を大量虐殺、迫害を行なった「ホロコースト」である。ホロコーストによって犠牲になったユダヤ人の数は6000万人を超えるとも言われている。そのユダヤ人の中に15歳という若さで命をなくした、アンネ・フランクという少女がいた。
アンネは、オットー・フランクとエーディト・フランクとの次女として生まれた。両親は二人ともユダヤ系ドイツ人である。アンネには3歳年上のマルゴット・フランク(以下マルゴー)という姉がいた。フランク家は当時の家庭の中では裕福な方で、一家は満足な生活ができたという。しかしドイツが反ユダヤ主義を掲げるナチスが台頭したことによって、身の危険を感じた一家はドイツからオランダのアムステルダムへ亡命する。だがオランダがドイツに占領され、オランダでも反ユダヤの取り締まりが始まり、フランク一家はマルゴーに対しての出頭命令を受け、同じくユダヤ人のファンペルス一家とフリッツ・プフェファーとともにオットーの職場近くの隠れ家で潜伏生活を始める。
その生活の中で書かれたのが「アンネの日記」なるもので、日記は1942年6月12日から密告を受けたゲハイメ・シュターツポリツァイ(以下ゲシュタボ)と呼ばれる秘密警察に捕まる1944年8月1日まで書かれている。その日記の中には縛られた潜伏生活の中で起こった住人同士の対立や不和、アンネが持つ住人に対しての思いから、希望を捨てない人々の生活の様子がアンネの手によって書かれている。
2、隠れ家の住人たち
ここではアンネと共に潜伏生活を送った住人とその生活を支えた人々をアンネの関係から述べていく。
<隠れ家の住人たち>
○オットー・フランク
アンネの父。第一次世界大戦時には徴兵され中尉まで昇進。収容所へ送られたが生き延びた。その後「アンネの日記」を出版した一人。住人の中でもアンネがもっとも信頼をおける人物である。アンネの13歳の誕生日に赤と白の日記帳を送る。
○エーディト・フランク
アンネの母。逮捕後、収容所へ送られ死亡。アンネとは度々衝突していることが日記の中でも窺えるが、彼女はアンネの事を常に心配していたと、オットーが述べている。
○マルゴット・フランク
アンネの姉。逮捕後、収容所へ送られ死亡。マルゴーは成績優秀で、母のマルゴーに対する扱いが贔屓目に見えたアンネは悪態をつくが、隠れ家の中では姉妹としても親友としてもアンネと生活していたという。
○ペーター・ファン・ペルス
ファン・ペルス夫妻の一人息子。逮捕後、収容所へ送られ死亡。アンネは最初は彼に不信感を抱いていたが、潜伏生活の中で恋愛関係になる。
○ヘルマン・ファン・ペルス
ペーターの父。逮捕後、収容所へ送られ死亡。潜伏生活の中ではしばしばフランク家と衝突したが、持ち前の明るさで住人たちを笑顔にしていた。
○アウグステ・ファン・ペルス
ペーターの母。逮捕後、収容所へ送られ死亡。ヘルマンと共にフランク家と衝突したが、根は陽気だったという。
○フリッツ・プフェファー
歯科医師。逮捕後、収容所へ送られ死亡。非ユダヤ人の愛人がいたが一人隠れ家の住人となる。アンネとは同室になり、アンネの年頃もあって、衝突したことが日記の中で度々書かれている。
<隠れ家の住人を支えた人たち>
○ミープ・ヒース
オットーが経営する会社で勤務。食料雑貨や手紙の配達様々な場面で隠れ家の住人たちを支えた。住人たちの良き相談相手であり、外とのパイプ役でもあった。住人たちが逮捕された後、隠れ家の床に散乱していた日記を見つけ保管。戦後オットーと共に「アンネの日記」を出版。2010年1月11日、「アンネの日記」最後の関係者として100歳で死亡。
○ヤン・ヒース
ミープの夫。ミープと共に住人たちを支える。
○ベップ・フォスキュイル
オットーが経営する会社に入社。ヒース夫妻とともに住人地を支える。ミープと共にアンネの日記を保管。オットー曰くアンネはベップと一番仲が良かったという。
3.「アンネの日記」と「親愛なるキティーへ」
アンネは隠れ家での生活の中で刻々と日記を書き続けた。アンネは作家志望なこともあって、日記を出版したいと考えていた。ゆえに日記に登場する人物の多くは仮名で書かれている。
日記の内容としては、潜伏生活の中で細部に至るまでも起こった事件や住人たちたちとの不和、衝突、アンネが抱く住人たちへの文句から、戦時中であることの苦しみ、迫害への疑問など、アンネは一つの虚偽もなく2年間の事柄を日記に書き連ねている。
日記の文体として特徴的なのは、手紙形式で書かれていることだ。アンネはほぼ全ての日記の最後に「親愛なるキティーへ」と書いている。キティーは架空の人物である。アンネはこの文体について「この日記帳自体はわたしの心の友として、今後はわが友キティーと呼ぶことにしましょう」
アンネがこの文体を取ったことにより、日記を読む人に対してメッセージ性の強いものになり、より生々しさが現れたのではないかと考える。同時にこのキティーの存在はアンネにとって外の世界の拠り所としていたのではないかとも考える。急遽ドイツからオランダへ、オランダから隠れ家へ、友人たちと別れたアンネが抱く寂しさや元の平穏な生活への希望がこの「キティー」を生み出したのだ。
もう一つ、アンネが日記を手紙形式で書いたことの意味が言える。「アンネの日記」を題材とした日本小説、赤染晶子の「乙女の密告」の文中に、日記の中でアンネが毎回最後に「アンネより」と署名したことには、アンネの「私はここに生きているのだ」と確認し、自身を見失わないために書いている。ということから、アンネの「アンネフランク」はここにいるのだ。という希望の意味も含んでいる。
日本という国から見て「アンネの日記」は当初日本で1994年に出版される際、オランダからの抵抗が強かったという。その原因としてWW2時に日本が枢軸国陣営としてドイツと同盟状態にあったことが考えられる。その批判はあながち間違いではないのかもしれない。
4.アンネフランクはいつ殺されたのか
アンネフランクを始めとした隠れ家の住人8人たちは謎の密告者により逮捕され強制収容所へ送られオットー・フランク以外の7人が命を落とす。当時、潜伏したユダヤ人を密告すると一人につきソーセージ一本、酒三分の一本と25ギルダーをだったり、7.5ギルダーだったりを支払われたりした、と言われている。その金額は本当に少量でミープがアンネに送った素朴なスカートの値段が7.5ギルダーだったという。その少量の金額でアンネたちは命を落としたのだ。
アンネフランクは1945年3月5日にベルゲン・ベルゼン収容所でチフスを患い命を落としたと言われている。つまり少なくとも隠れ家での生活中は無事であったと考えられている。
果たしてそうなのだろうか。私はそうでないと考える。アンネフランクは隠れ家の中で殺されたのだ。
1944年2月16日の日記の中で「戦争が終わったらキリスト教徒になるのもいい、僕がユダヤ人なのかもキリスト教徒なのかも僕の名前もわからないだろう」という文がある。これはペーターの言ったことではあるが、この頃からアンネフランクの命は脅かされ始める。アンネは同じ日の日記の中で「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです」その言葉は理不尽に平穏を奪われた単なる少女のぼやきだったかもしれない。星に託すような見当違いな願いだったかもしれない。しかしこの言葉はアンネフランクを二つに引き裂いた。ここからアンネフランクはユダヤ人ではなくなったのだ。アンネはオランダを愛したかもしれない。心の底からオランダ人になりたかったかもしれない。しかしアンネはその言葉で自身を否定した。ユダヤ人である自己を拒絶したのだ。この時アンネフランクはたった一人の少女になったのだ。
彼女と対照的に、彼女が最も尊敬した彼女の父、オットー・フランクが挙げられる。密告者からの通報を受けたゲシュタボが隠れ家に突入し逮捕する時、ゲシュタボの一人シルバーバウアーはオットーがWW1時の中尉であったことを知る。その時彼は敬礼をしてしまいそうになるほどの風格だったという。軍務経験のあるユダヤ人は事前に申告すれば、特別待遇を受けることができるのに、とシルバーバウアーはオットーに聞いた。するとオットーは「家族と離れるのは耐えきれない、何より私はユダヤ人だ」と言った。オットーは家族を愛し、ユダヤ人であることに誇りを持った。ダビデの星の着用の義務を受け入れ、度重なる迫害の中でも最後の最後までユダヤ人であることの自覚を持った。
しかし彼女もユダヤ人としての誇りを持っていた。日記の中で「わたしたちユダヤ人はオランダ人だけになることも、イギリス人だけになることも、決してできません。他の国の人間にも決してなれません。ユダヤ人は他の国の人間になれたとしても、いつだってそれに加えてユダヤ人でもあり続けなければならないのです。そのことを望んでいるのです」
続けて彼女は自己として、ユダヤ人としての自覚を持つ、「勇敢でありましょう。ユダヤ人としての使命を自覚しましょう。」
彼女の日記は時として住人たちの生活を写し取り、彼女の拠り所となり、彼女の希望の記録となった。ユダヤ人としての彼女の宣言となった。しかしその言葉が彼女を殺したのである。その言葉が彼女の誇りを切り裂き、彼女をアンネフランクでなくした。ユダヤ人であろうとする言葉が、ユダヤ人でありたくないという言葉が、彼女の自己を密告したのだ。
5.最後に。
「アンネの日記」は今の我々に当時の残酷さを知らせる他にも、決して希望を捨てずに生活する人たちの力強さを教えてくれた。潜伏生活中にアンネはアンネフランクから一人の少女になった。ナチスから迫害を受け、虐げられる一人のまま死んでいった。アンネだけではない。老若男女と問わずユダヤ人というだけで命を、誇りを、そして名前を奪われた人々が多くいる。しかしアンネは取り戻したのだ。アンネの言葉で、「アンネの日記」で、「アンネ・フランク」という名前を。アンネ自身を殺した言葉が彼女自身を生き返らせた。同時に私たちに、名前を奪われて死んでいった人たちがいたことを教えてくれた。それこそが「アンネの日記」の最大の功績であると私は考える。
最後に、2017年9月18日に急性肺炎のため惜しくも逝去された「乙女の密告」の著者、赤染晶子氏と氏の作品に対して、心からの敬意と感謝を。
参考文献
アンネ・フランク(1994)「アンネの日記 完全版」(深町眞理子訳) 文春文庫
イレーヌ・コーエン=ジェンカ(2010)「アンネの木」 (石津ちひろ訳) くもん出版
赤染晶子(2010) 「乙女の密告」 新潮社
ロバート・ドーンヘルム(2006)「アンネフランク」ブエナビスタホームエンターテイメント