日記:20241117「フリーチンチン活動家」
今日もつかれた。脳を酷使しすぎている。真面目なことばかりかんがえているとおかしくなりそうになる。生真面目に休まずはたらけばいいというものでもない。積極的にオンとオフはきりかえていきたい。
Twitterの骨丸垢やこの日記は完全にオフ。真面目なときもあるけどほとんど適当なことしかかいていない。Twitterでまいにち喧嘩をしているひとたちはすごい。あんなところでまともに議論なんてできるわけがない。議論しようとしてもストレスがたまるだけだろうに。SNSは気晴らしでやるにかぎる。この日記にしてもほとんど頭を真白にしてかいている。だいたいこの日記をかいているときはねむい。
そういえばDiscordで男性が女性からうける性的ないやがらせのはなしがでていた。ひとにもよるだろうけど自分にはそういう経験があまりない。というか女性から性的なことをされても不快にかんじない。ひとまえでやたらとベタベタされたら「恥ずかしい」とはおもうけど、ふたりでいるときにベタベタされてもぜんぜん嫌ではない。
たとえば初対面の女性に「ちんちんをさわらせてください」とたのまれたら9割型快諾するとおもう。「さわりたいならさわれば?」みたいな。体のどこをさわられてもそこまで不快にならない。どちらかといえばうれしい。
全くおもいつきでしかないけども《フリーチンチン活動》というのはどうだろう。フリーハグの活動家はたくさんいる。だけどフリーチンチン活動家はいまのところたぶん世界にひとりもいない。そこでこのぼくが世界平和のためにフリーチンチン活動家としてたちあがる。やろうとおもえば明日からでもできる。渋谷のハチ公前にいき「フリーチンチン」の看板を首からさげて道行くひとびとに声をかける。ちんちんにさわるたび笑顔になるひとびと。マスメディアにもとりあげられ、SNSで世界中に拡散され、ぼくはまたたくまに有名人になる。
こういうくだらない空想がすきだ。たしかにこれはくだらない空想かもしれない。しかしこういうくだらない空想が真面目な政治的議論におとるともかぎらない。もしかするとTwitterでまいにち喧嘩するよりもフリーチンチン活動をはじめたほうが世界はよりよくなるかもしれない。
たとえば戦争や虐殺や差別のない《平和な世界》が人類共通の目的地だとしよう。おそらくこの目的地の設定はそこまでまちがっていない。ぼくがおもうにこの目的地までの道はひとつではない。さまざまな道がありうる。議論して意見をたたかわせることもひとつの道かもしれないが、議論以外にも空想したり遊んだりすることも道になりうる。
真面目なだけが人文学でもない。人文学者の王といわれるエラスムスにしても『痴愚神礼賛』というかなりふざけたものをかいている。ちなみにぼくはこのひとにだいぶ影響をうけている。なんにせよ、深刻な顔をしていればいいというものでもなければ、口角泡をとばして怒ればいいというものでもない。実はそういうひとたちほどおっきくまちがえる。