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日記:20241126「人間、空想する動物、《いまここ世界》と《そとほか世界》」

 今日は休んだ。できるだけなんにもしないようにした。そういえば読んでいる本について日記に書いたことがなかった。まあいいだろう。本のことばかりかんがえてもしかたないので。今回は改行しないでだらだらかいてみよう。ぼくには空想癖がある。日記をざっとみても空想みたいなものばかりだし。人間は《いまここ》ではないことについてよくかんがえる。まえにあったことやこれからおこることや《いまここ》にはないとおくにあるもの。本を読むという行為にしても文字から《いまここ》にはないものに思いをはせる行為といえるだろう。そういう意味で人間ほど空想する動物もいないのではなかろうか。人間は空想であそぶし、空想をたべるし、空想におびえるし、空想でいらいらして、空想でわくわくして、空想でどきどきして、空想にとらわれる。ホモ・サピエンス(知恵あるひと)やホモ・ルーデンス(遊ぶひと)にくわえてホモ・イマジナリウス(空想するひと)といういいかたがあってもいいくらいだ。人間は文字をとおして、これまでいちども会ったことのない人物としりあったようなきになる。たぶんこれを読んでいるひとも頭のなかでぼくという人物像をぼんやりと想像しているにちがいない。だけどそこで想像されている人物像と実際のぼくはだいぶはなれているとおもう。日常における人間関係にしても、ぼくたちはある特定の人物を完全にしることはできない。断片的な情報からそのひとの人物像を想像しているだけだ。自分からみてまじめにみえる人間が本当にまじめな人間なのかはわからない。ひとのしりえる情報は世界全体にくらべてあまりにすくない。ぼくたちはほんのわずかな断片的な情報をたよりに世界全体をなんとなく想像しながら生きている。《いまここ》の外側にあるものは想像でおぎなっている。世界をおおきくふたつにわけてみよう。ひとつは《いまここ》の世界。たとえばぼくのおかれた状況でいうと《いまここ》は押入れのなかであり、目のまえにはiPhone16があり、その画面には文字がならんでいる。これが《いまここ》の世界。もうひとつは《いまここ》の外側の世界。これを《そとほか》の世界と名付けてみよう。昨日や明日はもちろん、5分前も5分後も、視界にはいらないあらゆるもの、詰まりは《いまここ》にないすべてが《そとほか》の世界になる。《いまここ世界》と《そとほか世界》と名付けてもいい。人間は《いまここ世界》だけを生きているわけではない。昨日の出来事でくよくよしたり明日の予定でそわそわしたりしながら生きている。視界にはいらない範囲も記憶やらなんやらをたよりになんとなく把握している。人間の脳には《そとほか世界》を構築する能力(記憶・推測・予想・想像する能力)がある。ひとりの人間の脳内にある世界の99.5%くらいは《そとほか世界》で《いまここ世界》は0.5%くらいかもしれない。けれどもいってしまえば《そとほか世界》は空想みたいなものだ。空想と断言することもできる。ただし、すくなくともここでは「《そとほか世界》は現実に存在しない空想であり、存在するのは《いまここ世界》だけ」とまではいわない。そういうふうにいうこともできなくはないけど。そこまでいわなくてもいい。なんにせよぼくは、人間という動物は自分たちが想像している以上に空想の世界の住人だとおもっている。

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