![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162372667/rectangle_large_type_2_3f474c80c5c7d3384507939271935e14.png?width=1200)
日記:20241118「フリーマンマン活動家」
今日はあまり調子がよくなかった。早寝して明日にそなえよう。そういえばフリーチンチン活動をはじめたのにだれからも「ちんちんをさわらせてくれ」といわれない。首から看板をさげないとやはり駄目だろうか。
フリーチンチンTシャツでもつくろうか。絶対に着たくないけど。もしかするとぼくの意志を継ぐものがあらわれないともかぎらない。フリーチンチン活動家が100人くらい集まればそれは列挙とした社会運動になる。
ちなみにフリーマンマン活動家みたいなひとはすでにいる。ミロ・モアレという女性。公共の空間で全裸になったり自分の胸や膣を通行人にさわらせて逮捕されたりしている。もちろんそれらの行動にも目的がある。彼女は芸術家であり活動家でありフェミニストなのだ。
単に絵を描くだけが芸術家ではない。そんなふうに芸術家をとらえてしまうとおもしろくない。現代の芸術家は感じるし考えるし語る、そして実践する。思想家でもあり創作者でもあり活動家でもある。芸術家は新しい表現を模索するだけでなく、新しい社会のありかたや、新しい生きかたを模索する。別に新しくなくてもいい。たとえばあえて大正時代の女性のように生きてもみてもいい。大正時代の物をあつめて、大正時代の物をよんで、大正時代の物をきて……。
そういえばキリスト教のなかでもアーミッシュといわれるひとたちがいる。彼等彼女等は古きよき生活様式を守りつづけておりいまだに馬車で移動している。電気もほとんどつかわない。保守どころではない。ウルトラ保守である。アーミッシュのひとたちの幸福度はそうでないひとたちのそれよりもはるかに高いことがしられている。アーミッシュのひとたちの平均的な幸福度はアメリカの大富豪と同程度らしい。(このあたりは記憶が曖昧だからまちがっているかもしれない)
だいたいどうしてみんなして同じように生きるのだろうか? 本当はどんなふうに生きてもいいはずなのに。明日から犬になりきり四足歩行で生きることもできなくはない。だれにだってできなくはないけどやらないだけだ。法律は国民のすることをそんなに禁止していない。自由がみとめられている。ぼくたちを不自由にしているのは法律以外のなにかなのだろう。