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母の日に考える

母の日は、日頃の母の苦労をねぎらい、母への感謝を表す日。日本では、毎年5月の第2日曜日に祝う習慣として知られている。

子供が産まれから『母の日』と聞くと妻の顔が浮かぶようになったが、今日は自分の母との思い出、母の教えを振り返りたい。

⒈ 家族
うちの家族は父、母、長男、次男、長女、僕の6人家族。同世代且つ都内だと比較的大家族にあたっていたイメージ。

父は仕事人間であまりかまってもらった記憶はない。というのも僕が中学になる頃に父は、海外で働いていて、大学の頃には蒸発したからだ。
だからこそ僕は女手ひとつで子供4人を育て上げてくれた母に感謝をしている。
次男を筆頭に問題児だらけの兄弟も、母のおかげでどうにかこうにか社会人になれた。

長男は、次男と同じ学校であったために次男の兄貴というだけで後ろ指を刺されて育ったためか、暗く心を閉ざしていった。
次男は上述の通り問題児、ケンカ、イタズラのオンパレーで母や長男は手を焼いていた。
唯一の女の子、長女は兄達とは別の学校に行きすくすくと育つが男兄弟の中1人という環境もあってか、ほぼ男の子だ。
そして末っ子の僕。兄弟からは出涸らしと呼ばれ、確かに喘息がひどくいつも病院で入院するほどだった。

2. 母との思い出
①病院での時間

兄弟が4人もいると、母と2人の時間なんてものは通常存在しない。しかし、幸か不幸か身体が弱かった僕は病院の時だけは母を一人占めできたのを覚えている。
喘息は大抵に夜ひどくなる。家庭用吸入器が手軽になるまでは毎日といっていい程に、夜間に病院に行き吸入と点滴をしていた。点滴になると僕の場合は4時間はマストだった。
その間、ベッドの脇に椅子を置き母は優しく本を読んだりしてとなりにいてくれた。
きっと兄弟の中で1番苦労をかけただろうと思う。

②友
母は、出来の悪い僕に対し勉強ができない等では怒らなかった。やらないで苦労するのは自分と言われてた気がする。そんな母が唯一僕に声を荒げたこと。それは友達を冷やかしたり、一方的にからかったりした時だ。
僕はケンカをしたり物理的なイジメをするタイプではなかったが、中学1年までは人をちゃかす、いじる、笑いをとるの線引きが持てておらず、相手の気持ちもしっかり考えていなかった。
大概の奴らとは茶化し合い笑いになっていたことを良いことに、その日はあまり話した事がない子にアプローチを仕掛けていた。
やる側でなくやられる側がどう思うか。…その日の結果は職員室への呼び出しだった。母が来るという自体にはならず、相手とも理解し合い話はすんだ。僕は、『あーまずったなー』というくらいの気持ちで自宅に帰宅したが、玄関を開くと鬼の形相の母親がいた。
どうやら、担任から電話がいったようだ。
『たま。ちょっと来なさい。』恐る恐る母の前にいくと、『あなたは人を傷つけた。それだけはお母さんは許さない!あなたがどう思うかじゃない!相手がどう感じるかを考えなさい!!!自分がやられて嫌なことをやらないのは当然。私が言っているのはあなたが大丈夫でも相手はどうなのか!…友達は大切にしなさい。』と怒鳴り、最後にそっと優しい言葉を添えた。

③ケガと向き合う勇気
中学生になると体力がつき、喘息と戦えるようになってきた。この頃には呼吸の仕方や、痰の出し方、テンションのおさえ方等学び、うまく喘息と付き合っていた。
身体が弱いくせにスポーツが好きだった僕は、中学生でバスケ部に入り高校まで続けた。
日々練習に明け暮れ、中学ではキャプテンに選ばれた。高校になっても1年目から試合に出してもらえるようになった僕の頭からは『病院』という二文字は消えていた。
そんな時、部活動中に前十字靭帯断裂、半月板損傷、内側靭帯損傷のケガを負う事になる。考えもしていない全治1年のケガ。高校3年間という短い時間の中で、あまりにも長い時間に感じた。
それまで順風満帆だったバスケ生活だった為、僕はこの現実を受け止められなかった。
僕が暫く部屋にこもっていると、母は扉をそっとノックし、『たま。つらいね。辛いだけならやめなさい。ただ、少しでも楽しいと感じるなら一生懸命頑張りなさい。』と声をかけてくれた。
…復帰した僕は、高校でもキャプテンに選ばれ最後までバスケを楽しんだ。

3.最後に
母の日ということで、昔の話を思いだし、つらつらと書いてみました。読んでくださりありがとうございます。
母は偉大だとよく言いますが、今の妻の姿をみても間違いないなと感じています。全国のお母さん、いつもお疲れ様です。
本日うちでは、ステーキを焼いて妻の苦労を労います(髪のオイルもプレゼント)。

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