花と風葬 10

第六部 百合II

 私は、産まれてくる理由も意味もない人間だ。私の父親にあたる人は、何においても、あまり話したくなさそうだった。話してくれなかった。露骨に不機嫌そうな顔をした。ひどいときには、私の顔をぶった。血が出たときもあった。それでも、衣食住は保証してくれたし、私の頭を撫でてくれることもあった。少なくとも私は、愛していた。お父さんと呼んだことは数えるほどしかないけど、お父さんであることには変わらなかった。


 「お父さん」

「どうしたの。百合」

「だーいすき」

「僕もだよ」

ねぇ、大好きだよ、お父さん。


 学校という場所について、私はよく知らなかった。行ったことがなかった。行かせてくれなかった。戸籍もない。病院にも行けない。別に大した病気になんてなったことはないから、不便はなかったけれど。

 若い子特有なのだろうか。家を出たくなった。戸籍がないから未成年もへったくれもないけれど、なんとなく、18という数字に惹かれた。

 出たは良いが、戸籍がないというのは本当に不便で、まともな職にすら就けない。産まれたときから、一生にわたって、私はこの社会をまともに生きることができない運命なのだ。それはそれで、受け入れていた。

 お父さんが時折ピアノを弾いた。何もない部屋で。苦しそうな、そこが見えない海のような。ずっと、聴いていた。

 家を出て、渋谷をぶらつく。スクランブル交差点。喧騒。声が霞んでいく。静かに歌う。お父さん。お父さん。お父さん。雨が、ぽつ、ぽつ、と、私と、喧騒を濡らし始めた。人々は散り、交差点の真ん中には何もなくなった。私を濡らした淡い雨。雨音、喧騒、うるさい広告。全部全部全部、私のものだ。


 「お父さん」

「ん。なんだい」

「大好き」

「僕もだよ」

 無条件でそう言ってくれる彼らを、私は冷めた目では見られない。

 

 お父さん。パパ。お父さん。パパ。繰り返し私は呟く。

 渋谷駅前。私は人を待っていた。人を待つ、とは、どことなくチープな言葉だ。

 「ゆり、ちゃん、だよね」

「はい」

怖いぐらいに甘ったるい、チョコレートケーキみたいな声で、私は「お父さん」に答えた。

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