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【連載】花と風葬 2

 今日はどうしようか。暖かいベッドの中で目が覚めたまま俺は考えた。得意の包丁でも使って魚のひとつも捌いてみるか。魚を買って、本屋で本を買って、のんびりしよう。俺は起き上がって、部屋の隅にある洗い終わった洗濯物の籠を覗いた。しわくちゃのシャツとスラックスを取り出して、アイロンをかける。これにももう慣れた。妻が亡くなってこれで三年。慣れてしまえば楽なもんだ。テーブルに椅子が二つあることも、ベッドがダブルなことも、食器が二セットあることも。全て慣れてしまった。アイロンをかけたばかりのほかほかの服を着終わった俺は、低い背のマンションを出た。

 流石に休日はどこも混んでいる。人ごみは嫌いだ。うんざりした。産直は海の香りがする。嫌いではないが好きとは言い難い。そう言えば、昔父と二人で釣りに出かけたっけ。父はなかなか上手くて、次から次へと魚を釣っていた。一方俺は一時間経っても何も釣れなくて、泣き出してしまった。すると親父は俺の手を上からそっと握って、「海を見ろ。肌で感じろ。少しだけ竿が動くのを逃しちゃいけねぇ。いいな。」と言った。
 父とはそれ以来、話していない。
 帰り道。歩いていて、嗚呼あいつ殺したいなとふと思ったやつは、恋人らしき男と楽しそうに会話する若い女だった。近頃の俺は、他人の笑顔に憎悪を抱くようになっていた。他人の幸せが許せない。笑顔、笑顔、笑顔。憎い、憎い、憎い。そのたびに人を殺し、その度に快感を得て、また穴があいて、塞いで、あいて、塞ぐ。そんな日々だ。これじゃいくら人がいても足りない。塞いだはずなのに。何回蓋をしてもあいてしまう。その度に、閉めているはずなのに。

 ポットで湯を沸かしながら、俺はふと思った。俺の心には穴があって、俺は人を殺してその穴を閉じていた。でもそれは所詮傷の応急処置みたいなもので、穴を埋めないことには何も進まないのではないか。すれ違うやつ全員殺したくなってしまうのは穴を埋めることができないからなのではないのか。全ては一時的なものでしかないのではないのか。でも、それがわかったところでどうする。埋め方を知らない俺はどうすれば良い。また塞ぐしかない。殺すしかない。そうしないと俺は。

 死んでしまう。

 嗚呼。

 死にたくない。

 でも俺は生きられない。こんなに殺して、その命たちの上に立って、何をする。生きる権利ないて所詮ない。知っている。そんなこと考えたくもない。ただひたすら街の喧騒に紛れ、他人を模倣し、その他人を殺め、心の穴を塞ぎ、毎晩毎晩寝れば終わる日々。
 でも、それで良い。むしろ、その方が良い。
 窓際に挿した一輪草はすっかり萎れていた。差し替えようとも思ったが、どうもそういう気にもなれない。自分に張り付いた仮面を剥がしたくてもがくように顔を掻きむしった。こんなことが最近続く。
 笑顔が憎い。自分が憎い。他人を殺める。
 潰れるほどに握ったその手が温かかったことに、俺は悔しくなった。

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