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万年筆とコーヒー

 駅のホームに降りて、改札を抜ける。改札を抜けて少し歩くと、そこにはカフェがある。隣にある本屋で、原稿用紙と、万年筆のインクと同じ色のボールペンを買う。私はまだ万年筆を使えない。インクが掠れてしまうのだ。カプチーノを注文する。まだコーヒーは飲めない。

 ボールペンを走らせる。誤字が多いせいで、既に二枚、原稿用紙を無駄にしている。カプチーノを飲み干そうとしたら、カップの底に泡が溜まって、少し気持ち悪くなった。コーンポタージュの缶を振り忘れて、コーンが底にへばりついたときのような感覚。カップをテーブルに置いて、私はボールペンを再び持つ。何かを書こうとして、そのために話題を練ろうとする。ふと顔を上げると、カウンター席の窓ガラスに、髪がくしゃくしゃになっている自分がいる。髪を整えてから、私は再びペンを持つ。
 ここに来るまでの間、私は一週間前のことを思い出していた。正確に言えば、一週間と一日前のことになるのだが。

 好きなアーティストのライブがあった。深い、深い海の底に沈んでいくような感覚がした。自分の素性を明かそうとしないそのアーティストの顔を覗くことができるのは、たまにしかないライブのときだけだ。顔を、覗きたいと思った。
 曲を聴いているうちに、そんなことはどうでもよくなった。ただその声に、耳を澄ましたくなった。とある青年と少女の物語。
 ライブが終わった私は、ネットを通じて知り合った自分より歳上の男に連絡を入れる。彼と話すときは本当に楽しいし、好きなものについて、その感情を共有できることは本当に、私の心を満たした。
 私ははじめての夜遊びに手を出す。私はその男の人とご飯を食べに行く。それまでの道のり、私はずっとそのアーティストについて話していたし、彼もきっと、私の話に耳を傾けてくれて、彼なりの話だってしてくれていた。その証拠に、彼は実はねぎが嫌いだとか、でもわさびは食べられることとか、そういうことを、私に教えてくれた。友達と真昼間から遊ぶときとは違う感覚。それは私を大人という魅力に包み込む。
 帰りの電車、彼は私の家の最寄り駅まで着いてきてくれた。空いた普通電車に揺られながら、私は彼の、少し眠たそうな顔を横目でちらっと見た。よく見るとまぶたは一重で、目の横の少し下の方に小さなほくろがあって、唇が少しだけ乾燥していて、全体的に見れば少し愛らしい顔貌をしている。
 次の駅で、私の降りる駅の一つ前になる。それは私がまだ子供だということを感じさせる。私は彼と一緒に目を閉じて、少しだけ、自分の理想の世界に浸ってみる。
 
 私は二十歳の彼より少しだけ下の十九歳で、この春から十八歳はもう大人だから、真夜中に出歩いていても誰も私を咎めることはできない。だから私は今夜家に帰らなくてもいいのだ。そしたら安めのホテルをとって、宿に困る彼を誘う。もちろん、誘う側の礼儀として、奢ることになるだろう。私は彼と違って貯金をしていたから、そのぐらいのお金はすぐに出せる。でも、まだ誘わない。もう少し待ってから。こんなところで言ってしまっては、私がただの“股緩“みたいじゃないの。私、そんなに野暮じゃないわ。
 駅のホームに降りたら、周りに誰もいないことを確認して、私は彼に口付ける。まだそこまで深くない。遠足で隣を歩く男の子と手を繋ぐように、口付ける。そこには愛なんてものはない。あって欲しくない。
 多分ホテルまでの道のりは静かで、私も彼も何も喋ることができない。だって彼は、これから好きでもない女を抱くことになるんだもの。これごときで緊張するなんて、と、私は彼を可愛らしく思う。その細めた目を見て、彼もまた、私を可愛らしく思うのだ。
 彼はきっとたくさんのことを教えてくれる。もっと深いキスのことだって、それ以上のことだって。私は彼の顔によがりながら、彼の首筋を小さく噛む。私のことを覚えていて欲しいと、それを痛みで表す。彼はもっと強く、私の首筋を噛む。私は痛くて少しだけ掠れた声を出す。その声すらどこか甘い。
 目が覚めたら隣には誰もいないかもしれない。彼が寝ているかもしれない。シャワーを浴びているかもしれない。着替えているかもしれない。財布から一万円盗まれているかもしれない。どんな風になっていたとしても、彼の首筋には私の痕が残っているから、私はきっと許してしまう。

 私はアナウンスの音で起きる。その世界から抜け出す。私の甘い世界は、今私と同じように起きた彼の細い目によって再構成される。ホームに降りても何も起こらない。私は彼に小さく手を振る。彼も、何の思いのない目で、無条件で手を振ってくれる。私はそれを見て、少し寂しくなる。でも大丈夫。彼の首筋には、見えない私の痕が残っている。

 カップの底に残ったカプチーノの泡が鬱陶しい。私は泡をすくって食べるためのスプーンを取りに、席を立った。

 またこのカフェに来るときは、本物の万年筆を持って、コーヒーを頼もう。

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