Beautiful Bangladesh in Snow Dome
目次
プロローグ
1.出会い
2.壊れたもの
3.スノードーム
エピローグ
プロローグ
「スノードームとオルゴールってクリスマスにありがちだな。でも見いってしまう。小さな空間に凝縮させるから、きれいなのかな。」男が言った。
「世界は広くて素敵なのに、簡単に凝縮して全部を一遍に見ようとするから、汚い部分が見えるんだわ。」男と手を繋ぐ女が言った。
「どこの空港のみやげショップにも必ずおいてあるんだよね。
ごちゃごちゃと東京の街並み、東京タワー、スカイツリー、富士山、神社の鳥居などを全部凝縮している置き物より、小さな家に雪だけが舞い散るスノードームの方がきれいかもな。」男がつぶやいた。
「でもそもそもバングラディッシュには雪降らないだろ?」男がバングラディッシュ人と思われる女に投げかけた。
「降らないわ。ネパールのカトマンズまで行けば降るかもしれないけど。ダッカは熱帯地方だから。ダッカのAhsan Mazilに雪、おもしろい組み合わせね。」スノードームを逆さにして舞散る雪をみながら、女が男に寄り添うように返した。
「俺も若い時は、世界のすべてを見たいと思っていた。綺麗なもの、汚いものもすべて。
バングラは貧しいと聞いていた。でも違った。全部みようとしたんだな。ひとつに凝縮して。このスノードームのように切り取ればすべて美しいんだな。美しさは、一瞬の切り取り方あるんだな。
君がモングラの田園地帯を走っているのを見た時、雪はないけど、朝靄に反射する光が、まるでオルゴールに合わせて舞う天使に降り注ぐ雪のように見えた。まるでこのスノードームの中にいるように見えた。そこには美しいものしかなかった。そこに俺も舞い降りたんだ。そして、恋に落ちたんだ。この国に。」
1.出会い
2020年夏
「ホテルのジムも飽きたな。どこかにテニスクラブでもないかな。朝なら埃っぽくないから、Pink Palaceまで走ってみるか。」
Ahsan Mazil、通称Pink Palaceはサダールチャット川の近くにあり、ダッカのシンボル的な存在だ。
「牛も穏やかに横たわっている。物乞いもいないし、みんな笑顔を振りまいてくれる。入国前のイメージとはずいぶん違うな。」
太ももをさすりながら、男はスマートウェッチを見る。
「+5キロ約30分か。ハムが痛い。ホテルのベッド暮らしが長いと駄目だな。」
「綺麗な公園だな。運動している人が少ないけど。暑いからか。室内でしているのかな。この国ではスカッシュ、クリケットは有名らしいけど。東京オリンピックは競泳とアーチェリーにそれぞれ一人ずつしか参加していなかったっけ。13億の人口がいる隣のインドでも、男女合わせて金メダルは1個、金銀銅あわせても7個らしいから新興国はかなり厳しいのだろうな。
しかし、この国の人口は日本より多いので、潜在能力を持った女子アスリートは多くいるはずだ。でもただ運動能力があるだけでは駄目だ。愛嬌がある子が入れば、すぐスポンサーもつくだろうな。」男は独り言をぶつぶつ言った。
「もう少し走るか。」ハッ、ハッ、ハッ。
「あの日本人いつもこの時間にこのあたりを走っている。何が楽しいかな」学生らしい女性がいぶかし目でみてささやいた。
「Anan。いくぞ。早く乗れ。」
父親らしき男が少女に声をかけた。ポンポンポン。どこか懐かし音をたてて、バージ船がゆっくりとサダールチャット川を登って行った。
「じゃーね、おねーちゃん。勉強がんばってね。」
朝靄の中、対岸からはさっき睨んだような見えた大学生くらいの女性が、バージ船にのる親娘に笑顔で手を振っている。
翌日。
男はダッカ大の事務所によった後、教室のドアの窓から授業を覗いた。
「今日の授業はブルー水素と、グリーン水素の製造飛行費用の分岐点について説明しよう。知って通り、化石燃料を主成分として水素を電解してCO2を収集・貯蔵するブルー水素に対して、水電解からから生まれるグリーン水素は再生エネルギーと呼ばれるが、電解費用、輸送費がかさむ。
先進国入りしていない我が国ではグリーン水素の活用はまだまだ先の話だが、豊富にある天然ガスからアンモニア、CO2、水素を分解する。CO2を収集し、貯蔵し、再生された水素を技術転用する。このブルー水素なら手がだせそうだ。アンモニアは肥料の材料にし、化石燃料を主成分として水素を燃料・動力源として使えればこの上ない。」
ジェスター教授が続けた。
「現在、日本の企業がチッタゴンの東方エリアにアンモニアを使った肥料プラントを作っている。完成したら皆で見学に行こう。革新的な技術で、タービンから排出するCo2を吸収し、地中に埋蔵する装置や、ブルー水素の抽出も同時行う技術が見れるそうだ。」
「みんな優秀そうだ。日本からの貨物量が増えてきた。出荷のピークが近い。さすがに一人じゃ税関用の書類作成の手が回らない。工場見学をさせる代わりに、英語ができる子をテンポラリースタッフとして雇うか。ジェスター教授に聞いてみよう。」
男がつぶやいた。
後日、面接用に借りたダッカ大内の教室の一角。英国式の伝統、格式ある大学で最新鋭の設備は入っていないが綺麗な部屋だ。
「遅れてすいません。本大学で経営学を学んでいるSHAHINと申します。4年です。」
黒髪にサロワカミューズを付けた清楚な子が入ってきた。先日Ahsan Mazil沿いの河川敷を走っていた時に見かけた子だと気づいた。
目が大きく、鼻も通ってるし、日本で有名なハーフタレントをひとまわり小さくした綺麗な子との印象を持った。
「さすがダッカ大の生徒だね。英語能力は問題ないようだ。はじめまして。私は日本から来たTHIのHIROです。我々が募集しているポストは、私がこの地で行っているプラントの部材輸送・輸入通関業務のアシスタントなのですが、ダッカから離れたプラント建設予定のチッタゴンにも行ってもらうこともたまにあります。学業との両立は大丈夫かな?
就職活動やテストや部活でスケジュールは考慮します。パソコンアドレスは持っている?書類作成や、我々の客先や関連フォワーダーとの通訳を頼みたい。週2、3回、それぞれ半日程度かな。」
「単位は取得済みで、後は論文だけなので時間はあります。ぜひ。お願いします。ちょうどチッタゴンは生まれ育った故郷で、実家もありますので。御社の肥料プラント工場も見れますか?」
「それは好都合だね。ああ工場見学ね、まだ土木基礎を作っている最中ですが、資材も集まってきますので来年にはざっくりとした形はできているはずです。2年後には生産を始める予定です。採用に協力してもらったこちらのダッカ大のジェスター教授のゼミ生の皆さんを見学に招待することになっています。」
「ぜひ、おねがいします。」
「わかりました。本日の結果はメールアドレスに連絡します。」
その後、何人か学生を面接したが、SHAHINのうちに秘めた輝きに叶う子はいなかった。
後日、Hiroの事務所。
「SHAHIN、来週の月曜日にチッタゴンにいっしょに行ってほしい。」
「週末実家に泊まるので、現地集合でいいですか?」
「いいよ。そういえばチッタゴンの出身だったね。」
翌月曜の朝。
朝靄の中、金色に輝く稲穂の朝露から反射した光が、駈けて来る少女の黒髪にそそぐ。
「綺麗だ。しかもいい走りだ。」
Hiroは思わず呟いた。
「おはようございます。Hiroさん」
「SHAHINか。おはよう。綺麗すぎて見とれてしまったよ。あっ、いや、朝露に反射する光。こんなに綺麗だと思わなかったよ。」咄嗟にごまかした。
「何言っているんですが。よかったら、うちで朝ごはんたべていきませんか」
とSHAHINが誘った。
「いいのかい?バングラディシュで一般の方のうちに行くのは始めてだ。嬉しいな。」
SHAHINの家は妹と父親の3人家族のようだ。母親はどうしたのだろう。Hiroは呟いた。
「あれ、君はAhsan Mazilで会った子だね。SHAHINの妹だったんだね。」
「Ananといいます。」
10歳ぐらいだろうか、黒髪をかき分けながらAnanは言った。
朝食は豪華とはいえないけど、おいしいものだった。
ジャポニカ米はベタベタしてるけど、バングラのお米はサラサラしてるからカレーでも手で食べられる。
乳製品はかなりあり、ヨーグルトをサラダにかけてたべる。
「うまい。」
唸ると同時に、貧しくもない、そしてSHAHINは綺麗だと思った。
サロワカミューズから、少しだけ首筋から汗が光って見えた。すべてを見せないのが、イ
スラム教世界の女性への敬意なんだな、と更に思った。Hiroは見とれていたことを見
透かされないように、話をかえた。
「そうだ。オリンピック見た?」
「少しだけ。うちは村では珍しくテレビある方だけだけど、雨季が終わった後の夏は夜まで父さんの手伝いだったし。バングラの代表はわずか6人で女性は水泳とアーチェリーだけだし。もちろんメダルはゼロ。クリケットやガバディないし。」
SHAHIN言った。
「おねえちゃんは足がすごく早いんだよ。お母さんつけたSHAHINという名はハヤブサって意味なんだから」
Ananが言った。
「そうなのかいSHAHIN。足が細くて綺麗だと思ったけど、ダッカ大に通っているぐらいだから、勉強ばかりかと思っていたよ。確かにさっき、俺に駆け寄ってきたときに、早いなって思ったんだ。」
つい足が綺麗と言ってしまったが、まだ幼さが残るAnanは気づかず続けて言った。
「おねえちゃんは高校生の頃とかはガバディをやってたんだよ」
「クリケットやガバディがあったらとれたかな?ガバディが国技だよね。試合中にガバディ、ガバディ言いながら攻めるのは日本でもテレビで見たことがある。SHAHINもガバディ、ガバディっていうのか。」
意外そうに問いかけた。
「今度、試合連れてってあげるよ。私はあまり声を出さなかった方だけど。」
SHAHINは、はにかんで答えた。
港での作業後、Hiroはダッカに戻った。
都市部は変わりつつあるものの、イスラム教の国なので、男の服はジーパンにTシャツかポロシャツで他のアジア諸国の変わりはないにもかかわらず、女性の服装は主に2種類あり、未婚者はサロワカミューズ、既婚女性はサリーを着ている者が多い。
ムスリム女性はプールや海など水に入る際、足や頭を隠す「ブルキニ」と呼ばれる水着を着用することが一般的。
都市部を除き、この国は農業従事者が占める割合が高い。でも貧しさなんてない。綺麗だ。街も人もSHAHINも。
翌朝。
「SHAHINおはよう。先日は朝食ご馳走様。」
Hiroはランニングでかいた汗を拭いながら、ダッカ大の時計台の前でSHAHINに会った。
「おはようございます。」
またこの日本人走っている。とSHAHINは胸が躍るのを気づかれないようにそっと笑った。
「SHAHIN。今度いっしょに走らないか?走ることで、もし嫌なことがあったとしても、走っている間は何も考えないか、自分に向き合える。疲れはてて走り終わったら、悩みを忘れることも、悩んでいたことがつまらなかったと悟る時もある。こんなきれいな国で走らないともったいないよ。嫌味じゃない。少し悪い道もあるけどね。目を覆いたいところ、汚いとこが仮にあっても、そこは見なければいい。」
Hiroはまるで自分自身に言うように話した。
「私にはただ走るだけ意味がわからない。走る以外に好きなことはないのですか?」
SHAHINが聞いた。SHAHINは忘れたくはないけど、寂しさを紛らわしたいことはある、といいかけたが止めた。
「俺のもうひとつの気分転換は写真だ。所謂オタクではないけど撮り鉄って奴かな。非電化されていないディーゼル鉄道の線路に入って、風景と合わせて撮るんだ。それがうまく撮るこつ。SHAHINの方が詳しいだろうけど。バングラの都市部は車両の上まで多くの人が乗っているけど、あんな風景は都市部だけに見られるもの。あんなバングラの本当の姿とかけ離れた写真はとりたくないけど、少し離れたところから、とくに鉄道がメインにならないように撮るのがすきなんだ。被写体を少なく、美しさを凝縮して小さく撮る。
今度俺が上手と思う写真の撮り方教えてやろうか。風景でも鉄道でも、撮りたい被写体をレンズの真ん中からずらして写すのがコツ。なんでもかんでも町の名所を、まるでスノードームのように写真に詰め込んではいけない。必要最低限に絞るのが美しく撮るこつさ…」
「今から授業なので。また。」
Hiroは長くなり過ぎたねと舌を出した。
SHAHINは本当はいつまでも話を聞いていたいのに、そんな気持ちを悟られないように、急ぐふりしてごめんなさいと心の中で誤りながら、代わりに優しく微笑んで、その場を立ち去った。
数週間後。
SHAHINとHiroはダッカ大のチャリティーのため、ダッカハーフマラソンにでることになった。男児混合マラソンで8割男だが、各国の駐在女性なども参加する毎年開催するこの国では大きな大会だ。
「おっ、ラフな格好だね。」
HiroはSHAHINの首筋を見てドキッとした。
「お父さんに聞いたら、マラソンするにはサロワカミューズは邪魔だろうし、タイツさえ履けばいいって。」
「理解があるな。」
Hiroは見とれながら思った。
「うちはそんなに献身的なイスラム教徒じゃないかも。
そういえば、優勝賞品はメダルだけじゃなく、スポンサーからの食料品と、ダッカの高級ホテルの食事券だって。本気で走っちゃおうかな。」
SHAHINはHiroの目線が自分の露出した肩にあることを気づいたが、それを気づいたことを悟られないように、無邪気に笑った。
「当たり前だ。本気で走ろう。当然だ。今度、日本に一時帰国するんだけど。もし優勝したら、日本に招待するよ。名古屋国際マラソンに招待するよ。実はもう知人経由でエントリーしてのだけど。」
とHiroは言った。
「えっ、勝手に。」
「君に才能があるのは知っている。いつも見ていた。ほんとは走りたいことも。世界にアピールできるチャンスだよ。その前に今回のハーフは、女子なら1時間20分、キロ3分40秒代を切れば…」
「ヒロさんはなんで私の足に興味を持つの?」
「一人の才能ある子を発掘し機会を与えた、という目利きをして名声をただ欲しいだけだよ。」
いや、若さへの嫉妬か、そ以上のものかと、Hiroは心の中で自問した。
レースがスタートした。HiroはSHAHINを引っ張ろうと序盤前に出たが、あっという間に引き離されていった。
「SHAHIN先行ってくれ。いやトップでゴールするんだ。勝ち取るんだ。チャンスを。」
Hiroは叫んだ。
「ゴール。優勝はダッカ大のMs. SHAHIN~。」
場内のアナウンスとともに歓声がなった。
Hiroの心配、予想遥かに上回る結果だった。SHAHINはチャリティマラソンで男性参加者にも負けずにぶっちぎりで優勝したのだ。
「なっ、言った通りだろ。SHAHINには才能があるって。」
「私、本気で走って楽しかった。オリンピックをか?ううん、目指したいです。Hiroさんが言っていたようにマラソンを使ってバングラ以外の世界を見てみたい。」
SHAHINは言った。
「よし。いっしょに目指そう。まずは名古屋国際マラソンだ。」
そこから二人だけの練習が始まった。SHAHINの心肺能力は予想以上だった。生まれ持った才能か、幼少からの父親の手伝いで得た筋力か、もしくは自身の肉体の動かし方を客観的に認知できる知力から来るものか、Hiroにはわかるはずもないが、アスリートの素質を十分に備えていたと感じ取れた。
ある日、練習後のレストランでHiroは語り始めた。
「この国には女性スポーツのロールモデルが必要とおもっている。一時的にユニクロなどの単なる繊維工場、製造請負国となってもいいが、そうではなく自力で国威を見せる何かが、必要だと思う。
この国のものでない俺が言うのは申し訳ないが、世界が最貧国のイメージしかもっていないこの国に、何かそのイメージを覆すものができればいいと思っている。
実際にこの国に来て、住んで、俺自身は最貧国とは思わなくなったけど、他国と比べ経済力が事実低いとしたら、そんなものからは早く脱却したほうがいいに決まっている。農業国や2流の製造国のイメージを脱却するには、政治的に一部の産業に支援するより、例えば長距離ランナーをアフリカから、力士をモンゴルから探すみたいに、日本や他の先進国はこの国からなんらかのアスリートを援助し、ロールモデルを作って、皆が憧れる存在を作ることが必要と思うんだ。」
Hiroは興奮しながら続けた。
「俺には一人娘がいるのだけど、テニスと水泳をやらせている。日本では短距離走は別にして運動できる子は陸上でなく、球技に流れる傾向にある。男子はサッカー、バスケ、野球。女の子はテニスとか、最近は卓球やダンス、大学生になるとラクロスとかは、可愛く見えて人気があるものに流れる。でもそれらのスポーツはライバルも多いし、お金もかかる。一方で陸上はお金もかからないし、この国の現状にあっていると思うんだ。インドなどではクリケットは人気があると聞くけど、広い設備やチームメンバー必要だろうから、この地域では現実的でないと思う。またランニングは車や電車のように遠くに行けないが、自分の速さにあった普段見えない景色が見える。季節の花など。あの朝、君に会えたのもランニングのおかげだ。車から見つけても声をかけれなかったはずだし。」
また話が暑苦しいと思わるのが嫌で、Hiroは
「ここのランチどう?」
話を変えるように言った。
SHAHINはHiroの言葉の中で国威云々は耳に入らなかったが、Hiroさんには子供いるんだと少し残念に思っていることに自分で気づかないような素振りをした。
たいていのバングラディッシュの成人男性髭を生やしているのが多いので、髭を生やしていないHiroは若く見えた。
「日本のジャポニカ米はべたべたしているけど、バングラのお米はサラサラしているからカレーも手でたべられるね。ヨーグルトサラダはおいしい。バングラでヨーグルト料理がメジャーなのはしらなかったよ。」
「ポピュラーですよ。牛はいっぱいいるし。インドみたいに町中にそんなにいないけど。」 SHAHINは揺れ動く自身の心を悟られないように、えくぼを見せながら言った。
「牛は神聖なものと聞いていたから、あまり食べないことは知っていた。このヨーグルトを広めればいいのにね。しかし、SHAHINは早いな。君の潜在能力はすごいぞ。最終的にはフルマラソン42キロで世界のトップを目指すなら2時間20分切りを目指さないといけない。」
興奮するHiroの口は止まらなかった。Hiroも自分の心が躍っているのがわかっていた。ただ、心がマラソン以外のことにも拡がりすぎて、自分の汚い部分をSHAHINのレンズが切り取ったスノードームの中に透写されているのでないかと恐れた。自分が汚くならないようにマラソンだけに集中しているようにみせた。
2.壊れたもの
「今日は仕事でモングラ港にいかなくてはいけない。Bulk船という大型船が水タンクや再生塔を運んでくる。Underdeckで運べといったのにondeckで運んできたので、木箱が水に浸っているかもしれない。サイトで荷ほどきして、冠水しているか調べるかしかないな。」
ヒマラヤから雪解け水が流れ注ぐこの地域は、海抜ゼロメートルだから土壌が肥えている一方、雨季には非常に弱い。
「日本側に連絡して保険屋のサーベイヤーをすぐよこせと伝えろ。」
Hiroは携帯でどなった。
「来週は大型のハリケーンがベンガル湾にくる見込みです。」
テレビで天気キャスターがしゃべっている。
「ハリケーンか、増水しているから誰もバージを横付けしてくれない。滞船料もさることながら、機器が水没して全滅になる。何十億かかるかわからないし、プラントの完成も遅れるぞ。やばい。」
あの日、過去の自分に絶望した記憶が蘇ってくる。
==回想シーン==
「何回言ったらわかるんだ。できないなら辞めてしまえ。」
Hiroは部下に怒鳴った。
「もう、Hiroさんにはついていけません。退職します。」
後日人事部との面談。
「ある人からパワハラの訴えがあります。一人ではありません。身に覚えがありますね。ついては異動と降格を申し伝えます。正式には書面で追って申し伝えます。以上。」
「Hiroさんにバングラディッシュに行ってくれるか。衛生面の問題もあるし、家族は帯同しない方がいいだろう。任せるが。キャリアは終わったと思うが、そこから這い上がることができれば信用回復できるかもな。但し、10年はいるぞ。人の記憶が薄れ、名誉を挽回するには。」
上司がつぶやいた。
「あなた何やっての。仕事ばかりだったのに、仕事でも評価されないなら家事、育児くらいやってよ。私たちはバングラディッシュなんて絶対にいかないから。」
辞令が出たことを伝えると、妻があきれて言い放った。
==回想シーン終わり==
「くそ。こんなところでも失敗するのか。俺は。」
Hiroは消えない雑念を振り払うように、バージ屋に電話をかけまくった。
「Hiroさん、私がだしてやろう。」
港で困っているとある船主が話かけてきた。
「あっ、あなたはSHAHINのお父さん。先日はお邪魔しました。ありがとうございます。バージ船を出していただくための条件はありますか?」
「特にないよ。以前うちに朝食食べに来たとき、この国は目先のこと、自分のことしか考えてないから、貧しいといったよな。普通はこんな大嵐の中、転覆の危険もあり危ないからちっぽけな平たいバージ船は出せないが、国が富むならこんな命くれてやるよ。運んでやるから、必ず肥料プラントを成功させてくれよ。船社に側にクレーンの準備を始めろと伝えてくれ。早くこの国を豊かにする肥料プラントをつくってくれ。バングラの雨季は川が氾濫すると酷いからな。俺の妻もそれで流されていった。みんなリスクを取りたがらないよ。貧しくても、金じゃ動かない。そもそも俺たちは貧しいと思っていない。」
「不躾な発言申し訳ございませんでした。SHAHINのお父さん。」
「Isamuと呼んでくれ。」
「Isamuさん。ありがとうございます。必ずこの御恩はお返します。」
「それよりもSHAHINたちを頼む。」
翌日、大雨が続き氾濫しかけた川の水嵩はうそのように引き始めていた。
「全開の嵐の際は、いくつかのパイプが川に落とされたが、今回はプラントの中心となる再生塔のタワー、水タンク、トランスフォーマーなど全て無事運べた。いくつかの木箱は水がかかったが、この程度なら中身は大丈夫だろう。Isamuさんのおかげだ。助かった。」
Hiroは、川面に反射する光を遮るように目を閉じながら呟いた。
3.スノードーム
梅雨と嵐の季節が過ぎた後。
「SHAHIN、約束通り、名古屋国際マラソンに出よう。俺が旅費を払ってやる。」
「なんでこんなに優しいの?」
「本音は…」
Hiroは思いを伝えそうになるのを堪え、言葉を変えた。
「俺は優しくなんてないよ。君のお父さんが先日バージで輸送の手配を助けてくれたからな。そのお礼だよ。かっこよく言えば、こんなに心が綺麗なバングラの人がいるバングラを豊かな綺麗な国にしたいだけだ。もっと正直に言えば、一人の才能ある子を育てた、発掘したという名声がほしいだけさ。」
いや君に恋をしているのかな、と心で付け加えた。
2週間後。
「SHAHIN、初めての飛行機はどうだった?」
「シートベルトをとったら、身体が浮くのじゃないかって緊張して寝れなかったけど、あっという間に着いたわ。これが日本。すごい。」
「名古屋は車も多いし、ダッカとそんなにかわらないよ。街の喧騒もあるし。牛は街中にいないけど。(笑)」
「今日は早く寝て。明後日にはもう大会だから時差ボケを早くとって。」
Hiroは取った部屋に案内した。名古屋ドームが見える良いホテルだ。窓から切り取った夜景はうっとりするほどだった。スノードームは外から見るけど、綺麗なスノードームの中にはいって外を見るとこのような感じに見えるのだろうか。
翌朝。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「昨日は少し名古屋城の周りを軽くジョギングした 。日本は走っている人がいっぱいいるのね。 Hiroさんは杞憂なストイックな人かと思っていたわ。それ以上に町の清潔さに驚いたけど。走ってない人も歩くスピードも速いし。」
「はは、ジョギングは健康維持とストレス解消には気軽な運動だしね。さぁ、本番だ。バングラディシュを単に世界の貧困国と思っているやつらを見返すんだ。君の笑顔ともに世界にバングラディッシュの美しさを広めるんだ。ハングリーだけをみせるのは古い。君自身が美しく、国のアイコンにならないといけない。」
「ありがとう。Hiroさん、ペースランナーは外れたら絶対に私をみててね。」
「わかったよ。歩道を追いかけられなくなったら、テレビで見るよ。何かな。でも無理はするなよ。」
用意スタート。マラソンが始まった。
「さぁ、ペースランナーが抜けました。おーと、抜け出したのは、どこの選手でしょうか。バングラディシュのSHAHIN選手です。なんと今日が初の国際マラソン大会出場、さらにマラソン自体も初のようです。この選手はバングラディッシュから出場ですが、招待選手でなく、一般参加です。
帽子を取りました。ん?なんかハチマキをしてますね。日本が好きなのでしょうか。何か書いてあります。えっと、ありがとう。Hiroさん・・・」
アナウンサーが興奮交じり伝えた。
「SHAHIN、いけー。なんだ、あのハチマキ。はは(笑)ありがとう。優勝したら俺の名前も世界に広がるよ。」
名古屋ドームのトラックに入ると、
「トップで入ってきたのはバングラディッシュからの初出場となるSHAHIN選手です。」と名古屋場内のアナウンス。
表彰式の後、
「優勝おめでとう。何が食べたい?どっか行きたいとこある?俺の名前がハチマキに書いてあるのには驚いた。俺の願いを知っていたんだな。君を使って有名になりたいって。」
Hiroは嬉しさを前面に出しながら聞いた。
「ダッカのチャリティマラソン大会で優勝したときより、歓声がたくさん聞こえた。気持ちよかった。Hiroさんの名前をいっしょに世界に出したくて。そうだ、行きたいところが一つあるの。秋葉原。お祝いに連れてってよ。」
SHAHINは笑顔で答えた。
名古屋から東京へは新幹線で移動した。
SHAHINには車窓から見えるものがすべて新鮮で、綺麗で美しく見えた。
「パパー。」
Hiroの奥さんとSHAHINの妹と同じ年ぐらいの娘が東京駅のホームに迎えて来ていた。
「あなたがSHAHINね。主人から良く聞いていたわ。昨日のマラソン中継も見ました。おめでとうございます。」
「初めまして。SHAHINです。Hiroさんには本当に良くしてもらってます。」
とSHAHINは少し後ろめたさを隠すように Hiroの奥さんは挨拶した。
「あなた、雪江も秋葉原に行ってみたいんだって。連れて行ってくれる?」
Hiroに問いかけた。
「夕飯は食べるから、夕飯前に先に雪江だけ帰すよ。」
Hiroが意味深なことを言ったのをSHAHINは聞き逃さなかった。一瞬で日本に来てから、自分の中の狭かったスノードームが大きくなっていたのに、一気に萎んだように感じた。
「みんなー、きょうはありがとう。それでは歌います。プチモモ、プリプリ。」
若いアイドルらしきグループが数十人のファンに囲まれて歌っている。
ステージショー後に雪江を返した後の二人きりのレストラン。
「あー、楽しかった。あんな風になれたらいいな。Hiroさん、今日はありがとうございました。名古屋のネオンにも驚いたけど、東京はもっと輝いている。」
SHAHINは呟いた。
「知らなかったよ。君にアイドル気質があるなんて。バングラに戻ったらメディアがたくさん近づいてくるぞ。あんな地下アイドルより有名になれる。SHAHINはかわいいし。
ただ気をつけろよ。今回のように何かを成し遂げた後は、有名企業、時に政府からさえも持ち上げられるだろうけど。だまされたり、足元を掬われないように。そいつらは君の人気に便乗したいだけかもしれない。」
「私、さっき連れて行ってもらった秋葉原で思ったんだけど、ほんとの自分じゃない誰かを演じることが羨ましいと思った。
学校で勉強していることは、社会学や経済学であれ、先に過去の事象、現状が先にあってそれを検証、分析するだけのもの。私は、何か未来を作り出すこと、演じながらしたい。」
「だったら、走り続けろ。演じるじゃない。自分を出すだけだ。名前が売れたら、自分の愛すべきバングラディッシュの街をバックにランニング風景を世界に流すんだ。バングラディシュの女性ランナーのアイコンになるんだ。」
Hiroは笑った
数日後、羽田空港で。
「さあ、ここでお別れだ。君のお父さんのおかげですべての機材の搬送は終わったので、正式に日本に帰れることになった。SHAHIN、俺がいなくなってもランニングは続けるんだぞ。俺はランキングを嫌な事を忘れるためにはした。でも君は夢を叶えるため、国のロールモデル、アイコンになるために走るんだ。本番はパリオリンピックだ。やりたいことをやってもいい。ただ走るのをやめるな。まだ序章だ。結果を残せばどこでも行きたいところにいけるぞ。なりたいものになれるぞ。」
「Hiroさんありがとう。離れたくない。」
SHAHINは隠していた思いをさらけだし、Hiroに手を伸ばす。
「大丈夫。俺はいつもこのスノードームの中に君を見ている。俺をまだ一回壊れた自分のスノードームを直せてないんだ。始めは君を使って、バングラディッシュから称賛されたい、会社の奴らを見返したいと思った。でもそれは違うと気づいたんだ。最初は単に汚れていないスノードームに舞う天使への嫉妬、憧れ…でも今は。」
Hiroは続けた。
「いつか自分の中のなにか誇れるもの作り直して、SHAHINに見せれるようになったらまた会いにいくよ。そうだ。これお父さん、妹さんへのお土産。また。」
新幹線、富士山、スカイツリーの上にキラキラ舞い散るスノードームを手渡した。
そして二人は、つないだ手を離した。
エピローグ
2024年秋。
「久しぶりだな。ダッカも。」
空港からタクシーの車窓からSHAHINを起用した看板が目に入る。
「ひさしぶり。Hiroさん」
「パリオリンピックも終わってすっかり有名人だな。ラウンジで新聞をみたら、見出し広告を見てびっくりしたよ。Bazaar Fashion Magazinesの表紙も飾たんだってね。まだ引退しないよな。この国が本当に豊かに美しくなるために。ちゃんと走ってるか。」
「もちろんよ。ただ女優業も始めたのよ。今度は踊らすランナーという映画に出るわ。」
「はは、昔、インドで踊るマハラジャというのがあったけど。ミュージカル映画みたいなやつかな?」
「そう。国際マラソン大会が舞台でバングラディシュの変わった街並みを紹介する映画でもあるわ。エキストラで出てくれない?」
「まじか。いいよ。かっこいいポジションでお願いって、監督に行っといて。」
「マラソンをしながら踊るというのが流行ってるみたい。日本人のエキストラにでてほしいらしいよ。」
ふたりは4年ぶりに手をそっとつないだ。この国の誰かには、俺たちはスノードームの真ん中にいる天使たちに見えているだろうか?