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子どもに教えられる?とは?

noteの募集記事に『子どもに教えられたこと』というタグを見つけたが書く気はなかったが、10月25日に私が今仕事で関わっている『赤ちゃんポスト』の発起人である蓮田太二氏が亡くなられて少し思う事があったので書いてみるとする。

赤ちゃんポスト

wikiペディアより引用

赤ちゃんポストは、諸事情のために育てることのできない新生児を親が匿名で特別養子縁組をするための施設、およびそのシステムの日本における通称である。
日本では唯一、熊本県熊本市西区にある慈恵病院がこのシステムを採用しており、同病院では「こうのとりのゆりかご」という名称を使用している。なお慈恵病院はキリスト教のカトリック系の医療法人聖粒会が経営する産婦人科病院で、東京慈恵会医科大学とは無関係である

赤ちゃんポストに関しては当初より賛否がわかれるものであった。(私は賛同しているからこの仕事をしている)

反対意見の代表格としては『母親が子どもを捨てやすくなる』というもの。この意見私はめちゃくちゃ嫌いで、子どもを手放す選択肢を選ぶ時点で親は切羽詰まっている。そこで最悪の子どもを殺すという選択肢をとるよりはという意味合いの物である。

話が変わるがネット等でも短絡的な批判をよくみる。その程度の事を相手が考えていないとでも思っているのだろうか?脊髄反射で批判する人はチンパンジーとやってる事変わらないよと教えたい。

赤ちゃんポストに入れられた子はその後どうなるのか?

大抵は乳児院→児童養護施設の流れで生活することになる。養子縁組、里親制度を受ける子どもなど一握りである。

赤ちゃんは自分が捨てられた事に気づくのか?0歳からでも気づくと思われる。乳児院では自分に構ってほしい為にハイハイが出来る段階で自分から壁にぶつかりに行き(自傷行為)保育士にアピールをする。自分が愛されてるのか確かめる行動だと認識されている。

親がいないまま育つ事は不幸な事なのだろうか?

不幸と感じるシーンが多くなる事があるという返答が適切だと思う。保育園、幼稚園等の段階から他者と比べてその事について悩むからだ。

ここに物事の本質あると思う。人間というものが不幸を実感するのは他者と比べるからであり。自分にとっての当たり前が当たり前じゃない瞬間だと思う。

何事も自分自身次第。気の持ちようなのである。

トラウマと言う言葉をご存じだろうか?現代では誰しもが当たり前に使っている言葉、大学時代の教授に『20年ほど前は専門用語で一般的には知られていなかった。この言葉が浸透している事自体がおかしい皆さんは色々な家庭の事情を持った子どもと関わる事がこの先出てくると思いますが、決して親に捨てられた事を不幸と思わないような考え方を教えてください。トラウマを作らない教育者を目指してください』と言われた。いつだって心に残る言葉は教科書には載っていない。この言葉を指針に今でも教育という物に関わっている。

教育者として

ではどのように子どもにその事を伝えていけば良いのだろうか?

人生なんて運ゲーだから家族ガチャでハズレをひいたからには人よりも努力して頑張らないとね

と伝えて納得する訳はなく、いくら正論を言ったところで気持ちが納得をしないと自己の成長には繋がらない。

答えは当たり前で1人1人と関わりその子にあった言葉かけを行わなければならないだ。子育てとはそういう物で同じタイプの人間はいなく1人の人間として関わっていかなければならない。

その為に我々は日々色々な知識を身につけ、新しい情報を手に入れ、どのようなタイプの子が来ようとも柔軟に対応していかなければならない。
子どもに教えられる?毎日がその連続である。まだまだ人間として未熟者の私が教育者を名乗って良いのかと日々葛藤しています。

子どもの前では自身を持ち裏で悩み続ける日々です。

駄文でまとまってはいませんがここまで読んで頂きありがとうござます。

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