野中広務の秘書で初めての夏
選挙後の日常に戻った事務所は、各々の秘書が担当した選挙後のお礼参りを終え、残すところは、野中先生が京都の丹後地域に入って主要なところに直接尋ねて行ってお礼の挨拶に行くことと国政報告会と称して公民館などで支持者に集まってもらい選挙のお礼と近況を報告し、終わると会場を後にする人々に、出口のところに野中先生が立つてひとりひとりに頭を下げながら握手をしてお礼の挨拶をすることだった。
この丹後行きに同行する時は、私は、朝京都駅から山陰線に乗って8時半頃、八木駅に到着し、運転専門の秘書と八木駅で待ち合わせして、園部町にある野中先生の自宅の斜め前にある国道9号線に面した喫茶店の『三洋苑』で野中先生と待ち合わせをする。『三洋苑』のマスターは、野中先生が町会議員の時から運動員として選挙を手伝ってきた方で、私たち秘書は、頭が上がらない存在の人だったのだが、私たちに優しく毎回伺うたびに労いの言葉をかけてもらった。私と運転専門の秘書がカウンターに座るとモーニングを出してもらう。ホールのテーブルには、野中先生の弟の園部町長をしている野中一二三さんとそのグループ、また、別のテーブルには、もう一人の弟、三男で旅行会社を経営している野中禎夫さんのグループがそれぞれ和やかに笑いながら別々のテーブルでコーヒーを飲みながら話をされていた。そこに、また、別のテーブルに座っているグループがあり、野中先生が自宅から『三洋苑』の裏口から入ってきて、そのグループのテーブルに座る。兄弟それぞれが、別々のテーブルで談笑しながら日常を話をして町の情報収集をしている。野中先生は、自宅に戻ると毎朝欠かさずに『三洋苑』によってから出発した。この日課は、引退するまで続いたので、野中先生が党の役職に就いたり、大臣になったりした時には、『三洋苑』には、野中先生を担当していた記者さんや警備をしてもらったSPさんなどは、馴染みになられた方も沢山おられると思う。また、今も野中先生のお墓には、先生が使っていた『三洋苑』のコーヒーカップが置かれて、コーヒーが入っている。話は、全く逸れたが、『三洋苑』で野中先生と待ち合わせをして丹後方面へ出発する。
この頃は、高規格道路の京都縦貫自動車道も開通しておらず、国道9号線と27号線を走り、宮津事務所に向かって2時間ぐらい車を走らせた。宮津事務所は、天の橋立の阿蘇湾に面し、事務所の裏は、海だった。また、宮津事務所には、2人の秘書がおり、宮津事務所長の秘書は、前尾繁三郎先生の秘書から野中先生の秘書になった方で、大宮町の町会議員をしながら宮津市を含む丹後の1市11町を担当していた。
また、軍港のある舞鶴市は、京都事務所の秘書が担当しており、京都北部地域は、保守層の8割ぐらいは、野中広務支持をしてもらっていた。また、この頃の景気は良く丹後地域は、丹後ちりめんの産地でちりめんと日本三景の一つ天の橋立などの観光で賑わっており、舞鶴市においても日立造船と海上自衛隊などがあり、京都国体前ということも重なって公共事業なども多く景気も良く、町の人々も笑顔で各町が眩しいぐらいにキラキラ輝いていたような印象がある。
ひと通り日程を消化すると夜には、宿泊する旅館に宮津事務所の秘書と後援会幹部が集まってきて採れたての魚などが出されて食事をしながら懇談が始まる。野中先生も私もお酒は飲めないので食事しながら、丹後地域の話を聞く。こちらでも地域の情報収集の場になる。また、特に、京都の北部地域の皆様は、政治に関する関心が高く、「新聞を端から端まで読まれているのでは」と思うぐらい皆さんが中央政界について詳しかった。90年代はじめに中国の繊維産業の台頭によって丹後地域の産業は衰退していき、今では、あれだけ眩しかった町もシャッターが閉まり空き家が増えひっそりとして歩いている人を見かけないぐらい寂しい街並みになっている。余談であるが、私は、今こちらの地域振興のNPO法人のお手伝いをして少しでも以前の恩返しが出来ればと思っている。しかしなかなか運営も厳しく先が見えない運営が続いている。風光明媚で歴史的なものもたくさんあるのでインバウンドで再興できないかと考えている。話はまたそれてしまったが。
今回の野中先生の丹後入りの目的は別のところにあった。それは、こちらのある地域で選挙違反を出してしまい公職にある方が2人公民権停止になってしまった。そちらにお詫びに行くことが、野中先生の本来の目的であった。その方の自宅にこっそり伺い、野中先生が1人でその方の自宅に入り1時間ぐらい滞在してお詫びをしながらいろいろと今後について話をされたと思う。私は、運転専門の秘書と2人で車の中でその間待機をしていた。その時の車の中から見た長閑な海の美しい光景は、今も脳裏に焼きついている。
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