鞦韆
#1
彼と私にあった出来事について話そうと思う。
私は田舎に生まれ、ぼんやりと人生に輪郭を描かないまま生活を送った。十八歳の時、初めて恋人が出来た。私より一つ上の大学生だった彼は、私より社会を知っていた。彼は一人暮らしをしていて、「高校卒業したら雛もおいで。一緒に暮らそう」が口癖だった。私は彼に少なからず尊敬の念を抱いていたし、何より一人暮らしというその魅惑の言葉は彼をより大人だと錯覚させてしまうものだった。
私は退廃的な高校を卒業し、より退廃的な大学へと進学が決まった。とくに特筆すべき特徴もない、ちょっと物事を俯瞰的に捉えられることを頭が良いことだと勘違いしてる頭でっかち達が集まる大学だ。
親に無理を言って一人暮らしという名目で、彼との同棲が始まった。
彼との同棲は上手くいっていたと思う。お互いが家事を手伝い、円満に円滑に歯車は回っていた。しかしいつからだろう、何かのネジの緩みが歯車を狂わせたのだ。
彼は演劇サークルに入った。彼の大学で演劇サークルは有名で、大きめの劇場を借りて公演を行うこともしばしばあった。彼の帰宅時間は日を追う事に遅くなっていき、十二時をまわることや、朝帰りもあった。彼は熱で浮かされたみたいに、「俺たちはこれからのし上がっていくんだ」とアルコール度数の高いお酒を飲んで、私に言って聞かせた。だけど私には演劇が分からなかったし、彼のサークルは上手くいっているのだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。劇場をやってもチケットが売れなければ意味がない。チケットが売れ残る公演もある。それが続けばサークルとして苦しくなっていくのだ。そうなっていくにつれて、彼の言動は荒っぽくなっていった。私にあたることも多々あった。彼は私を酷い言葉で罵った。それに私が他の男と遊んでるという根も葉もないことを私に言い、私は何度も怒鳴られた。最初に付き合っていた頃の彼はもう居なかった。プライドだけが肥大化したみっともない人間になってしまったのだ。いや、どうだろう。元々そういう人間だったかもしれない。同棲という行為で徐々に本性が表れただけかもしれない。
私は夜中に近くの公園のブランコでぼんやりと月を眺めることが多くなった。彼は帰ってくるかも分からないので夕飯は作らないし、夜に私がすることは特になかったから家に居るよりはブランコの上の方が心地よかった。それに家に居ると突然帰ってきた彼に、暴言を吐かれたりするのが嫌だった。
#2
私が彼との同棲をやめるきっかけになったのは二年目の梅雨の頃だった。その日、雨は降ってはいないものの、いつ降ってもおかしくないほどの黒い雲だった。
その頃になると、暴言だけではなく少しずつ暴力も混じってくるようになっていた。それによって私の心は加速するように限界に達していったのだ。だけど、大学に進学してすぐに同棲した私には帰る場所がなかった。両親には一人暮らしをしていると言ってある手前、戻ることは出来なかった(やろうと思えば可能だったけれど、両親には心配をかけたくなかった)。
私は自立する準備を始めた。物件を選び、家具を買うお金を貯めるようにした。バイトは前より多くすることで、彼と時間を共有せずに済む。
彼は私があまり家に居なくなって更にイライラしているようで、たまに会うと溜まったフラストレーションをぶちまけるように私に当たり散らすようになった。私の身体には彼に付けられた痣だらけになった。
でも相談する相手は私にはいない。大学には入学当初から斜に構えていたせいで一人もいないし、田舎から引っ越しているから地元の友達もいなかった。そうなると一人ぼっちになるくらいだったら彼と居ようかななんて思ってしまうのだ。居ても何の得もないのに。殴られたり暴言吐かれるだけなのに。彼はDV男の典型例のように、殴ったり暴言吐いたあとは必ず優しく接し、時にはちょっとしたものを私に買ってきた。デザートだったり欲しかったアクセサリーだったり。彼との関係を断ち切るには、私の中で積もり積もった何かを一旦無くさなきゃいけなかった。だけど友達も居らず、彼しか私の今の世界にはいなかったのだ。
もう何もかも疲れちゃったな。
いつも通り、私はブランコを漕いで、見えない月を眺めた。月明かりすら届かないほど厚い雲に覆われた月。ほぼ毎日バイトをこなして、彼と会えばなにかされて。はっきりと言ってしまえば地獄に近かった。死んでしまえたら楽なのかもしれない。ブランコをゆらゆら揺らす。もう、限界に等しかった。
ブランコを漕いでいる時、私は小さかった頃を思い出し、感傷に浸った。こんなはずじゃなかったのに、私はどこから間違えてしまったのだろう。月に縋ろうと空を眺める。しかし出ていない。今にも雨が降り出しそうだ。
結局、すぐに雨が降り出してきた。私は仕方なく帰路に着く。雨だからといって急ぎはしなかった。急いだって濡れるのだ。だったらゆっくり帰ってもいいだろう。お気に入りのスニーカーは黒ずみ、アウターは黒くシミを作った。今の私にはこれがぴったりだ。アスファルトをより濃くしていき、完全に真っ黒になった。本降りになって、一層雨は強く激しくなった。
もう終わりにしよう。彼にそう告げよう。何を言われても出ていこう。
その日に彼は帰ってこず、朝になって帰ってきた。私は彼に別れを告げた。もう限界で、付き合い続けるくらいなら死を選ぶと言った。彼は何かを喚き散らしてどこかへ行ってしまった。私は必要最低限の荷物をキャリーケースに詰めた。彼との思い出の品は全部ゴミ袋に入れて、部屋に置きっぱなしにした。私は部屋が借りれるまで安いチェーンのホテルに泊まることにした。
#3
これで私と彼の話おしまい。オチなんてないよ、だってこれは物語や創作なんかじゃない。物語や創作はハッピーエンドにしてくれるからいいよね。でもこれはどこかの誰かが経験してそうでありふれた話。彼と出会って私の心には大きな傷が出来た。だけどその傷口から流れ出てきた何かを私は大切にどこかへとしまっている。
不思議なもので彼が聴いていた音楽や芝居を鮮明に覚えている。言われた暴言よりも、殴られた痛みよりも覚えている。彼が吸っていたタバコも、飲んでいたお酒も覚えている。
こうして私の中で彼は存在し続けるのかな。
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