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不安

タバコを吸うことで、吐き出す時に何かこの心の奥にある不安も一緒に出るのではないかと思い、タバコを吸っている。しかし一切そのようなことはなく、僕の財布からは金だけが消えていくのだ。
今僕は大きな大きな崖にいる。飛び降りれば確実にその命を散らすことが出来るくらいの高さだ。
さて、と僕は立った。飛び降りるのは勇気がいるので、まず手元にあったスマートフォンを投げた。音もなく、僕の相棒は死んだ。
青い海と空、うるさい白鳥、波の音、潮風、磯の香り、鳥肌になってしまうほどの気温、恋人の温もりのような日差し。ここには何もかもがあるのに、僕は不安に苛まれていた。こんなことだったら檸檬を持ってくればよかった。ちょっと前に檸檬について話したばかりだったから。
僕は静かに死んだ相棒のせいか、死ぬことに関して恐ろしくなった。僕が死んだら、というか人間が死んだらどうなるのだろう。あまりに未知領域で、不明瞭で、不可解で、怖い。僕が今様々なことを抱えて生きているのが馬鹿らしくなるほど、死というのは大きな大きな壁だった。
僕一度しゃがんでタバコの空箱に吸殻を詰めて、そのまま座った。相棒を想い、黙祷を捧げた。

僕の家は古いアパートの一階だった。僕みたいなお金のない人間だけが来るような場所だ。日当たりは悪いし、立地も悪い。それに風呂とトイレだってない。ふざけてる家だろう。キッチンだってまとめな料理すら作れやしないような小ささだ。
僕は今働いていない。この間やめたばかりだ。上司の言葉が僕を痛めつける。
「お前今何歳なんだよ。こんなことでいちいち言われるなよ、新卒の方がまだ使えるぞ」
「お前さ、今まで何か上手くいったことあったか?」
涙を流しながらまたタバコに火をつけた。灰皿はもう、いっぱいだったから吸殻は缶コーヒーの中に入れた。

これから上手くいく、なんて考えが甘かった。軌道に乗ったと思われていたのに呆気なく、どちらかと言うと失敗に終わった。僕は恋人に別れを告げることにした。こんなどうしようもない僕に付き合う必要なんてないから。
「ごめんね」
僕は花屋で買った花束を恋人に渡した。
恋人は泣いて泣いて泣いた。僕も泣いていた。でも決めたことだったし、恋人には幸せになって欲しかったから。
僕は軌道修正させられた惨めな人生を恋人に見られたくはなかった。本当に大切にしていたからこその選択だった。どうしようもなくなった僕に愛想を尽かすのを僕が見るより、今はまだ僕のことを好いている内に別れておきたかった。つまりは僕のエゴなわけだ。恋人のことを一ミリも考慮に入れていない、自分勝手。そりゃ失敗もするわけだった。
サラリーマンになることについて僕は別に嫌ではなかった。ただ、どうしようもない世界で働くというのは非常に息苦しいことだけは分かっておけ、と友達に言われていて今から嫌になってくる。
1人分広くなって温かみが無くなった部屋で、温かさを求めてタバコに火をつけた。僕が死んで悲しむ人が居なくなった。誰にも咎められることはないから。 

天国があるとするのなら、僕は今の僕がいる場所なんじゃないかと思った。丁度いい日差しが窓から入り、僕と恋人の入っている布団を照らす。
「ねぇ天使と悪魔の話を知ってる?」
「分からないな、絵本?」
「そう。天使と悪魔はとっても仲良しなの。天使は悪魔にはない良さを持っていて、悪魔は天使にはない良さを持っているから互いに惹かれ合うのは至極当然だったの。
ある日、天使と悪魔は喧嘩しちゃったの。本当に些細なこと。悪魔はなんで彼女にあんなことしてしまったのだろう?って後悔してて、天使もなんで彼にあんなに怒ってしまったのだろう?って後悔してた」
恋人は笑顔でその話をした。僕も笑って時折相槌を打ちながら聞いた。
「だけど、仲直りするきっかけがなかなか掴めないのね。些細なことだからこそ、謝るのを躊躇っちゃうんだね。少し経った日に、天使界と悪魔界にある花屋のセールの日があったの。天使はこれだ!って花を買った。天使はるんるんで悪魔のところに会いに行こうとした。それで互いの住む場所を繋ぐ大きな道を歩いて向かうのね。すると向こうから悪魔が来て悪魔も花を持っていたの。
「今日、セールだから君に花を贈ろうと思って」
天使は笑いながら「私も一緒。謝ろうと思って」
二人は花を互いに贈りあって仲直りして、今まで通り、いやそれ以上に仲良く過ごすことになったの」
「素敵な話だね」
「そうでしょう。もし私が花束を君に渡したらそれは謝りたいことがあるってことなんだよ」
「じゃあ僕もそうするね。綺麗な花束を渡すから許してね」
「それは時と場合によるかも」
僕はその日、タバコは吸わなかった。吸うと必ず叱られる。やめろ、とは言わないのだ。
「私と長くいたくないの?」とだけ悲しそうに言う。
僕は灰皿と残りが半分以上入っているボックスを捨てた。
余計なものを削いでおこう、大切なものを守れるように。

僕は相棒の後に続いた。









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