if子
#1
もし、もしだよ? と君が頬を赤らめながら切り出してきた。僕は彼女と窓の奥にある美しい夕暮れを見ながら、うんと頷く。
「一日、何をしても幸せな日になるとしたら、誰と過ごす?」
それは高校生にしては幼すぎる質問だった。僕は思わず吹き出してしまう。片手間にやっていたゲームをやめてスマートフォンの画面にロックをかけ、机に置いた。そうして、彼女に顔を向けた。そもそも、こんな質問をするなんて彼女にしては珍しかった。普段は物静かで、あまり人と接しているタイプではないからだ。僕も初めて聞く、その声に驚かせてしまう。何かしら、人を惹きつけて釘付けにしてしまうような声。僕も例外ではなかった。
「何それ」
「もしもの話、みんなが大好きなifの話」
その可愛らしくも馬鹿馬鹿しい問いを誤魔化すかのように早口で説明をした。
「そうだなぁ」
僕は考え込む。
恐らく、僕はここでどうしようもない回答をしたのだろう。覚えてすらもいない、その答え。
今更ながら後悔をした。あの時、彼女に想いを伝えるような回答をしていれば、何か変わったのかもしれない。いや、これもifの話か。そう、みんなが大好きなifの話だ。
#2
社会人になって、僕は成長したのか。答えなんて分かりきっていた。一切、していない。退化したと言ってもいい、あるいは進化か。人間からなんでも命令を聞くロボットに。
あれをやれ、はい。これをやれ、はい。こうしろ、はい。あーしろ、はい。
僕の人生は、昔はもっと美しく輝いていくものだと確信さえしていた。今となっては、光は失われ鈍くくすんでいるだけだ。
彼女は何をしているのかな。
いつも僕は辛いことがあると、彼女の「もしもの話、みんな大好きなifの話」というセリフを思い出し、僕もifを想像した。それだけでこの人生、生きている価値さえあるのではないかと思えた。
もしも、彼女と交際していたら。
もしも、彼女と恋人とまでは行かずとも未だに良好な関係をきずけていたら。
現実から逃避する方法を試行錯誤した結果、彼女とのもしもの話を考えると一番上手く作用することが分かってしまった。分かりたくはなかった。今になって、彼女の重要性を認識した。
しかし、残酷なことに人生にはロード、セーブができない。過去に戻ることは不可能なのだ。ゲームではできるのに、人生でできないのだ。殺人という行為は人生でもできるのに、ロード、セーブは人生ではできない。殺人の方ができてはいけないのに。
これといって日曜日にすることはなかった。小さな部屋で、繰り返し音楽を聴いた。ボーカルである女性の声は、高校生の時のifの話の人(if子と呼ぼう)に似ていた。そして歌う曲の大半は寓話のような歌詞だった。
僕はif子の代替を探していて、見事に成功した。してしまったと言うべきか。歌に関して専門的な知識はないが、上手いと思えたし何より魂がこもっているように感じた。チープだが、透き通るような…と言った感じだ。顔を一切出していないのでif子かどうかの確認が取れないが、そうだったらいいなと思う。特に欲求のない僕がここの所で強く願ったのはこれだけだ。仕事で昇格したいとか恋人が欲しいとか思ったことはない。あのボーカルがif子だったらな、と思うだけなのだ。しかし、仮にそうだったとしても僕にできることなんて何一つない。だってif子が僕を覚えていなければ意味もないし、覚えていたとしてもCDを買うだとかそのくらいでしか応援はできない。それは他のファンと何も変わらない。高校が一緒だったというだけだ。
だから、今日も音楽をかける。そして彼女の声を通して、彼女の世界観に入り込み溶けていく。できればそのまま、僕という存在なんて溶けて無くなってしまえばいいのに。
*1
私が自分の内気な性格にさよならを告げたのは、なんでもない一日だった。文化祭でも、体育祭でもない。
私の視界には彼しかいなかった。まず、男子と二人きりで話すというハードルの高さ。それに加え意中の人。どうりで私の無能な心臓が高鳴っているわけだ。こうなるように仕組んだのは私だ。秋になると彼がいつも放課後に、こうして夕暮れを見ているのは一年前から知っていた。だから忘れ物をしたように振る舞い、話しかけたのだ。
彼は私の問いに不思議がっていた。確かに私も不思議だった。数ある中でどうして、もしも話なんてチョイスしたのだろうか。自分自身を詰問したが、答えなかった。私は「好きな人いるの?」とか「好きなタイプは?」とか恋する乙女がするような質問をしたかった。けれどできなかった。訳の分からないであろうその問いを聞いて、彼は笑った。だから私も自分を許した。微炭酸のように笑う彼の姿を見れたなら、今日こうして話したかいがあったと言える。欲を言えば、恋人の有無を聞きたいけれど。
しかし結局聞けずに終わり、聞けないまま疎遠になった。そして会うことは一度も叶わなかった。
*2
くだらないと吐き捨てられたらいいのに。しょうもないなと蹴り飛ばせたらいいのに。
私はどうしてこうなってしまったんだろうか。
コールセンターでアルバイトをしていて、君には才能があると言われた。ふざけんなと思った。肉声でも無いのになんで分かるんだと。
「何か、歌ってくれないか。童謡でも構わない」
と男性は言った。私は赤鼻のトナカイを歌った。男性は電話越しに拍手をした。これがきっかけで私は、晴れて音楽事務所に入ることになった。
それから毎日、ボイストレーニングをして、技術を高めた。元々ピアノが出来るということもあって、苦ではなかった。それに歌うのは好きだった(彼に聞かせてあげられたらどんなに良かっただろう)。そうしていつの間にか、メジャーデビューしていた。ここまでは順調と言えたかもしれない。
ある日、マネージャーが抽象的なことを言った。
「もしかしたら、かなり大々的に売り出せるかもしれない」
私にはもう歌うこと以外何も出来ることがなかった。収入も多いとは言えないし、嬉しかった。しかし回り道をして間接的に伝えられることに、良い事なんて一つもない。私は分からないふりをした。この業界に入って、演技というものが上手くなった。知らないふり、知ったかぶり。これがもし大人になる、成長しているというのなら私は子どもでいい。マネージャーは卑劣な笑みを浮かべた。
「大企業の社長と寝ろ」と今度は直接的に言った。「そうすれば仕事が回ってくるし、売れる。しないなら別の奴がするだけだ。選べ」
地獄というものがどんなものかは知らないが、こういうのを言うんだろうなと思った。
私には初めての人というのがいない。というのも私には彼としか寝たくなかったからだ。
高校生の時の好きな人に成人しても恋をしているって素敵じゃないかな? あるいは愚かじゃないかな?
大学生の時に迫られたことはあったけど、こっぴどく振った。その後変な噂が流され、危うく大学を退学しそうになったけど。
片思いというのは楽だ。だって新たに恋する人を探さなくたっていいし、忘れるという行為をしなくて済む。忘却には想像以上の労力が伴う。仮に私が彼を忘れようとしたら、激しい労力の使用の末に息絶えてしまうかも。
私はその返事に三日要した。
彼に奪われるかそれ以外に奪われるか。相手が誰とか関係ない。小汚いオッサンだろうが、若い有名俳優だろうが彼じゃなければ価値はゼロに等しい。
しかしお金に困っているのはいつだってそうだった。実家に私は見放されているからだ。音楽で食っていくという旨を伝えた時、頭の固い両親は頑固反対した。私はそれを押し切っている。失敗しようが成功しようが、金に困ろうが両親には何一つ関係ないし、頼れないのだ。もし売れたとしたら、音楽ではなくバイトに明け暮れる日々にも、雑草を食べて公園の水道を飲まなくて済む。トイレはコンビニに行かなくたって済む。想像しただけで、素晴らしい。
結局、寝た。無理矢理ではない、自らの意思で寝たのだ。彼以外の人間と。それも初めてで。寝るか寝ないか選べ、というのは残酷だ。仮にこれが、無理矢理であったなら、まだ救いの手があったのだ。「自分の意思ではないのだから」といえる。しかし、私は自らその男性のもとへ行き、自分の心とそれから自尊心と彼を失った。
泣いた。ひたすら家で泣いた。家なんて呼べないようなお粗末な部屋だが。食べ物も喉を通らなかった。通るものがなかったのだが。
仕事量は倍増した。五倍に増えた。CMソングに抜擢され、そこでの功績が認められて映画やドラマの曲にも選ばれた。バイトは辞めたし、レコーディングはかなり増えた。アルバムも出して大ヒットして、ランキングの一位から三位を取った。
私は大人気アーティストになった。顔は一切出ていないが、それが逆に人気を呼んだらしい。こんなに一般人ではできないことをやってのけたのに、一般人にできる恋ができていない。
魂を込めて歌う。私にはこれくらいしかもう出来ることがなかった。せめて、せめて、彼に届いてくれれば。彼が恋人(もしかしたらもう結婚して妻かもしれない)に「この歌いいよ」と私の歌を評価してくれれば。本望といえる、死ねる。
もしも、彼と恋人になれていたら。
もしも彼がマネージャーだったなら。
これも全部、もしもの話。私も、彼も、みんな大好きなifの話。ifという二文字を使えば、どんな世界でも行きたい放題だ。それは彼と付き合えている世界線も例外ではない。
そうだ、次は彼と付き合えていたら。そんなもしもの歌にしよう。それが彼に届いて、私を思い出してくれたら、私は人生を全うしたと言えるかもしれない。
だから私は自分の身の丈を作詞し、思いの丈を歌に込める。彼に届けと。
書き出しは決まっていた。
「もしもの話、みんな大好きなif話」。
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