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ノンバイナリーであるということ

私はノンバイナリーである。
これは所謂LGBTQ+(性的少数者)に分類される特性の一つで、簡単に説明すると
「出生時の性に関わらず、自認する性が男性と女性のどちらにも当てはまらない」という状態である。要するに私は男性でも女性でも無い。ちなみに出生時の性は女性である。
「Xジェンダー」という呼称もあるが、これは日本でしか通じない呼び方であり、「ノンバイナリー」という言葉の方が私は好きなので、以降はノンバイナリーという呼称で統一する。

ノンバイナリーとして生まれてからこれまでの経験や悩みなどを共有したく、この記事を書くことにした。


性別違和

性別違和について、まずは簡単に説明しておこう。自認する性と自身の体や周りからの扱われ方にギャップがあると、性別違和が起こる。ノンバイナリーはトランスジェンダー(出生時の性と自認する性が一致しない)に分類される(*1)。なので当然、性別違和が付き物だ。
シスジェンダー(トランスジェンダーでない)の人に性別違和の感覚を説明するのは非常に難しい。ある人が言うには、「靴を左右逆に履いて歩くようなもの」。またある人が言うには、「マスタードのラベルが貼ってある瓶にケチャップが入っているようなもの」。どちらも響きは柔らかいが、その実態は地獄のように辛いものだ。
(*1 ノンバイナリーをシスジェンダーでもトランスジェンダーでもない独自の性のあり方として分類する考え方もあるが、この記事ではノンバイナリーをトランスジェンダーの1カテゴリとしてみなす考え方を支持する。)
このように性別違和は、経験したことの無い人にとってはどうしても理解が困難であるため、矮小化されがちだ。出生時の性が女性の場合は特に、フェミニズムの問題にすり替えられることが多い。シスジェンダー女性が、社会における女性への差別や圧力から「男に生まれたかった」と感じる感覚と、トランスジェンダー男性が、出生時の性と本来の自分との乖離から「男に生まれたかった」と感じる感覚は、しばしば混同されるが、全くもって別の感覚である。
なお、まれにシスジェンダーの人も性別違和を感じることがある。例えば、声が低いシスジェンダー女性が電話で話す際に男性と間違えられた時などの場合が挙げられる。しかしながら、とても多くのトランスジェンダーの人は性別違和を日常的に、しかも強く感じていることは忘れないでおいて欲しい。


私自身も性別違和をこれまで沢山経験してきた。今でも頻繁に感じている。

典型的な例でいえば、中学・高校と制服が男女で分かれていたのがとても嫌だった。私生活でスカートを履く分には問題無いのだが、「あなたは女の子なんだからこっち」と枠にはめられることに違和感があった。制服にとどまらず、学校はどうしても男女で様々なものが分かれる場だ。もちろん更衣室やトイレは身体的特徴によって分かれているのでどうしようも無い。しかし、教室内の授業での男女で分かれたグループワーク、男女対抗のドッジボールの授業など、特に理由無く男女どちらかに属さなければいけない機会は多くあった。それが私にはどうもしっくりこなかった。これは社会的な性別違和というものであろう。
幼少期の社会的な性別違和の要因は教育システムからの圧力だけでは無い。私は女子生徒の輪に上手く馴染めなかった。自分が彼女達と「同性の仲間」だとはどうしても思えないのだ。そんな疎外感からか、男子といる方がまだ安心感を得られた。かと言って男子生徒と仲良くなろうとすると「お前ら付き合ってんの?ヒューヒュー!」などと小ばかにされるので、それすらも自ずと避けるようになった。一般的に人間は幼少期の段階から同性に対する仲間意識が芽生えるものだ、と聞いた時にはかなり驚いた。私は常に、女子の集団の中にいても男子の集団の中にいても、自分だけが異性であり異物であるという感覚だった。

そんな中、私は「女の子らしくならなければいけない」という呪縛に囚われることになった。性別二元論的な社会からの圧力によるところもあるが、結局のところ、自分に自信を持てないという側面が大きかった。小学校中学年頃になると、女性に適合するためにわざとらしく女性らしい話し方や振る舞いをするようになった。「私」「あたし」という一人称を口頭で使ったり、女性的な話し方や振る舞いをすることは小さい頃からずっと苦手だ。にもかかわらず、自分自身にそれを強要して過ごしてきた。ずっと女の子のふりをし続けるのは苦しかった。それは偽りの自分を演じ続けることに他ならなかった。
「私は本当に『女の子』なのか?」
という疑念がいつもそこにはあった。しかし、私はそれを頑なに押さえつけ、誰にも知られないように尽くしてきた。今でも一人称や話し方を無理やり女性らしくしてしまう癖が消えない。いつかは口頭での一人称や話し方を、自分が望むものに変えたいと思っているが、正直まだ怖い。
最近、社会的な性別違和で困っているのは、メイクをするのが怖いということだ。日本での就活は絶望的だろう。ここ数年でこそ男性もメイクをすることが社会的に認められるようになってきたが、やはりメイクは「女性のたしなみ」「社会における女性として最低限のマナー」であるという考えが主流だと感じる。私にとってメイクは呪いだ。メイクに限らず女子の制服や女性用スーツのスカートも、社会において女性として見られるようになるという呪いでしかない。自身の性自認に気付く前の自分は、世の女性はなぜこんなおぞましいものを好き好んでやっているのだろうと甚だ疑問に思っていた。

一方、身体的な性別違和も昔から、特に思春期から顕著にあった。私は自分の体を自分の一部として認識したことが無い。鏡で自分の体を見るとそこには全くの別人が映っているかのように思える。女性的な身体的特徴も、自分の一部とは思っておらず、それらの特徴のせいでどうしても女性として見られるのがやるせない。時折、自身の体に対する強い嫌悪感が波のように押し寄せ、どうしようもなく不安になることがある。できるものなら、自身の体から女性的な特徴はすべて取り除きたい。お金さえあれば、乳房切除手術も視野に入れたいと思っている。


気付き

自分の性自認に気付くことができたのは、つい最近のことである。ノンバイナリーという言葉は大学に入ったあたりで知ったが、当時は「まさか自分がそれに当てはまるはずが無い」と考えていた。しかし、それ以前から自分の恋愛対象が女性であることは知っており、その流れで自分の性自認について考えることはよくあった。
大学3年生になる今年の5月頃のある時、ふとインスタグラムのプロフィールの「代名詞」の欄を見て、「そういえばまだ代名詞指定してなかったな」と思っていた。SNSのプロフィール上の代名詞は英語圏では広く用いられており、自身が周りの人達からどの性として認識されたいかを公表するという意味がある。例えば、自身が男性ならプロフィールに「he/him」と書けば、それを見た人は「この人は男性だ」と認識できる(*2)。私はその時、「she/her」と書くことに抵抗があることに気が付いた。「he/him」も何か違う。そこで試しに、中性の三人称単数「they/them」を入力してみた。なんと、その代名詞が驚くほどしっくり来たのだ。ここで、「自分はノンバイナリーだ」と確信を持った。トランスジェンダーの人が自分の性自認に気付くことを、英語圏のスラングで「卵が割れる」と言うのだが、まさしくその表現がぴったりだと思った。今までずっと自分を閉じ込めてきた殻から、やっと解放されたのだ。人生の転機は時に、このようなほんの些細なきっかけで訪れるものだ。

(*2 複数の代名詞を指定することもできる。例えば、「she/they」と書けば、「sheと呼ばれてもtheyと呼ばれてもどちらでも構わない」という意思表示になる。ノンバイナリーを公言している宇多田ヒカル氏は「she/they」を用いている。)

そこからは芋づる式に、今までの出来事や感じたことの多くが自身の性自認によるものだと気付いていくようになった。「虎に翼」で轟太一が「人生なんて『今思えば』の連続だ」と言っていたが、本当にその通りだ。
今思えば、何かにつけて男女で分けられるのが嫌いだった。
今思えば、学芸会で女の子の役を演じたことは無かった。
今思えば、七五三で女の子の和服を着せられた時に大泣きしていた。
今思えば、周りの女の子達のことを同性だと思ったことは無かった。
今思えば、自分が映った鏡や写真を見るのがずっと怖かった。
など、思い出そうとすればいくらでも出てくる。なぜ今まで気が付かなかったのだろうと不思議に思うくらいだ。

トランスジェンダーの人のことを説明する際に、しばしば「元男」「元女」という表現が用いられるが、これらは適切な表現ではないと私は思っている。私は「元女」では無い。なぜなら、物心付いた時からずっとノンバイナリーだったからだ。ただ、気付くのが遅かっただけだ。


それからしばらくして、私は周りの人達に性自認をカミングアウトしていった。父、父方の祖母、そして仲のいい友人達は概ね受け入れてくれたので、心底ホッとしている。気がかりなのは母の態度だ。カミングアウトした際、「あなたの気持ちなんて分かるわけないんだから放っといてよ!なんでいつも私が悪いの!?」とヒステリックに怒ってしまったのである(なお私は一度も『分かってくれない母が悪い』とは言っていない)。その後母は一切その話題には触れていないが、心なしか以前に比べて私のことを女性扱いすることが増えた気がする。
また、友人にカミングアウトしたはずが次に会った時にはもう私のことを「女子」と呼んでいたことが何回かあった。私はその友人達に対して怒りや恨みは全く感じない。ただ、今の社会におけるノンバイナリーの認知度の低さと、自分の無力さに絶望するだけだ。
カミングアウトとほぼ同時期に、髪を短く切った。これで女性として見られなくなるとは思っていないが、これがせめてもの私の訴えだ。

自分がノンバイナリーだと気づいてから、鏡を見るのが怖くなくなった。また、以前より自信をもって発言や行動ができるようになった。バラバラだった自分という存在の重心が、一つにまとまった感覚。それはまるで、最初は上手くバランスが取れなかったのにいつの間にか安定して漕げるようになっていた自転車のようだ。本当の自分を受け入れて生きられるというのは何と素晴らしいことなのだろう。ノンバイナリーという言葉が存在しなかった頃、一人で性自認についての悩みを抱え込んでいた人達のことを思うと胸が痛い。認知度が広がった今でも、周りに理解されない、親に拒絶される、適切な治療を受けられない、など、とても辛い思いをしているノンバイナリーの人達は大勢いる。これ以上苦しみを抱えるノンバイナリーの人達が増えないように私にできることは、こうして自分の存在を周りに伝えていくことだと思う。自分のような存在がこの世には沢山いること、彼らが今なお社会の理不尽さと戦いながらも、自分自身として一生懸命生きていることを、一人でも多くの人に知ってもらえれば幸いだ。


よくありそうな質問

さて、ここからは、ノンバイナリーの認知度を上げ偏見を減らしたいという目的も兼ねて、ノンバイナリーの人がよく聞かれていそうな質問を勝手に予想して勝手に答えていく。

1, トイレ、銭湯はどれを使うんですか?
A. 人それぞれです。
一番よく聞かれていそうな質問だと思います。これは各人の性別違和の重さによってそれぞれで、私は出生時の性に合わせたトイレや銭湯を使うことに抵抗はあまり無いですが、人によっては男女どちらのトイレや銭湯を使うことにも強い抵抗があるという場合もあります。
また、治療を望むかどうかも人それぞれです。性別適合手術やホルモン治療を行う人もいれば、これらの治療を望まない人もいます。

2, ノンバイナリーは最近流行ってるというだけなのでは?
A. いいえ、ノンバイナリーの人は昔からいます。
ノンバイナリーという言葉やthey/themといった中性代名詞が最近になって広く使われるようになっただけで、ノンバイナリーの人々はずっと前から存在していました。例えば、ネイティブアメリカンの多くの民族やヒンドゥー教などの文化圏において、男性でも女性でもない「第三の性」が古くから認められてきました。

3, ノンバイナリーの人はどんな見た目をしていますか?
A. 人それぞれです。
ノンバイナリーの人は必ずしも中性的な見た目をしている訳ではありません。出生時の性が女性で女性らしい髪型や服装のノンバイナリーの人もいます。性自認と性表現は全く別のもので、性自認は見た目だけで判断できるものではありません。

4, ノンバイナリーの人の恋愛対象は?
A. 人それぞれです。
くどいようですが、一口にノンバイナリーと言っても本当に人それぞれの特性や経験が沢山あります。私のように、出生時の性が女性のノンバイナリーで恋愛対象が女性、というのが皆さんにとって想像しやすいし納得しやすいと思います。しかし性自認と性的指向は直接結びついているものではありません。仮に私の恋愛対象が男性だったとしても、それにより私が女性だということにはなりません。シスジェンダーの人達の中にも異性愛者や同性愛者など多様な性的指向を持つ人々がいるように、ノンバイナリーの人達の中にも、多様な性的指向を持つ人々がいます。 

5, ノンバイナリーの人達にはどのような配慮をしたら良いですか?
A. 一人の人として尊重しましょう。
まずはやはり本人の自認する性として認識することが大切です。性自認に即した生活を送ることは人として当然の権利なので、性自認を尊重することはそのままその人の存在を尊重することになります。当たり前のことかもしれませんが、相手を一人の人として尊重するのが一番大事です。


自分にとって、ノンバイナリーであることとは

私や、恐らく他のノンバイナリーの人達にとって、「ノンバイナリーである」というのは「男性である」「女性である」と同等のものに過ぎない。だが私は、男性や女性にとって「男性であること」や「女性であること」がどれほど各人の人生において重要なものなのかを知ることができない。なので、ノンバイナリーであるということがどう重要なのか、自分なりに言葉にしてみようと思う。

性自認は「性同一性」とも呼ばれる。これは英語のGender identityを和訳したものである。ここで言うidentity、つまり自己同一性には「自分が自分自身であること」という意味合いが含まれている。要するに、それが無くなると自分自身では無くなってしまうのだ。したがって、性同一性とは、個人を個人たらしめている、極めて重大な要素の一つであると私は考えている。
だからして、仮に私がこれから男性または女性として生きていくことを選んだとしたら、それは自分という存在を否定することになってしまう。私はノンバイナリーだからこそ私なのだ。

常に自分の性自認のことばかり考えて生きている人などいない。私はトランスジェンダーという特性上、性自認について考える機会が大多数の人より多かったが、それでも普段考えていることは性自認とは関係ないことばかりだ。今いる大学のこと、将来の就職のこと、趣味の音楽鑑賞やお絵描き、料理のこと…
それでもやはり、ふとした時に性自認を実感する瞬間がある。それは人との会話の中だったり、何気なく見ていたテレビ番組だったり、あるいは街で知らない誰かとすれ違った時だったりする。自分自身というのは、他人と自分の対比から初めて見えてくるものだ。こうして性自認を実感することで、自分が自分であるという安心を得られる。自分という存在の重心を保てる。自分の性自認を知った今になってやっと、自分が自分で良かったと思えるようになったのだ。

いくらこのような記事を書こうとも、この世界の全ての人達に伝えることは不可能だ。私はこれからも、周りから女性として認識されることが多くあるだろう。それに関してはとうに仕方無いと諦めている。ただ、この記事を読んだ人達が、私のような人は沢山いるということ、そして彼らは自分を押さえ込んでひっそりと生きているかもしれないということを、ふとした時に思い出してくれるようになることを、私は望んでいる。


ここまで読んでくださりありがとうございました。またどこかで。

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