古今和歌集「まつ虫」の歌を英語にしてみる
Waka "Matsumusi" and inspired English poems
能「松虫」とそれをモチーフにした井原西鶴「男色大鑑」の一話「嬲り殺する袖の雪」の日本芸能・文学の深奥を讃えて
秋の野に人まつ虫のこゑすなり 我かといきていざとぶらはん
「古今和歌集」佐伯梅友校注 岩波文庫 秋歌上 題しらず よみびとしらず
正岡子規には散々に言われた古今和歌集だが、近代とそれまでの文学を読む時、創作者達の心を知るためには必須と考えられる遺産だろう。恥ずかしながらこれまで古典文学を軽んじてきた私だが、西鶴に感じ、川端や三島に行き着くためにはなくてはならない文献の一つと知った。明治から昭和期の日本語を操る匠の肉体には間違いなく体表には流れ出ない血液の血管壁に堆積しているに違いない。
思えば詩歌(しいか)とは不思議なもので、解釋が必要であるほど情報が欠損している。
現代の作家のように生活や思想を知ることが出来れば、多様な解釋ではなくある納得行く理解が出来るのかも知れないが、古典と呼ばれる文学の作者はすでに歴史の舞台を去り、その愛、孤独、喜び、悲しみも知る由もない。
私は西鶴の「男色大鑑」の一話「嬲りころする袖の雪」の現代小説化を試みた。そしてその背景にある能『松虫』に興味を持った。そして大阪、阿倍野にある松虫塚を訪れその伝説から、この古今集の一歌に行き着いたというわけだ。
能の『松虫』の作者は世阿弥(十四世紀)とも金春禅竹(世阿弥の娘婿)とも言われているという。伝説によると阿倍野には松虫(現代の鈴虫という)の音(ね)で有名な場所があり、そこを松虫という名で呼んだと。
「松虫の音に友をしのび」という能『松虫』のテーマである情緒がこの歌に結び付けられたのは、これが載っている古今和歌集の仮名序によってである。貫之がこの和歌集に選んだ種々の歌の趣きを紹介している文である。
「いにしへの世々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとにさぶらう人々をめして、・・・富士のけぶりによそへて人を恋ひ、『松虫の音に友をしのび』、・・・」
という段である。(『』は著者がつけた)
仮名序のこの一文が、掲題の歌を指しているのかは、「松虫」の名をあげたことと、古今和歌集中にその趣きの歌が他にないのでだれもがそう認めるのであろう。
ことさらに仮名序で「題しらず」かつ「よみ人しらず」のこの歌を言及した貫之は、このうたの経緯を知っていたのだろうか。これはかなり妄想の種になる。
さらに、後鳥羽上皇の寵愛した白拍子の松虫と鈴虫と呼ばれた姉妹が、世を忍んで暮らしたとも伝えられている(松虫塚には『芦今(?)舟』と原典がかいてあるが未確認)。『愚管抄』に彼女らの記録があるらしい。
彼女らが法然の弟子二人を後鳥羽院の熊野参りの留守中に宮中に招き法話を聞いたとある。何故一人でなく二人であったかということも歴史の襞であるか。当時、法然の「一向専修」の教えに民心が集中することへ危機感を持っていた比叡山などの腐敗した既存宗教勢力の圧力に抗しきれず、後鳥羽院が、法然、親鸞の一門をその一事をもって弾圧したという(承元の法難あるいは建永の法難:1207年頃)。記録では追放された彼女らがその後移ったところは阿倍野松虫ではない。彼女らの墓が松虫塚なのだろうか?誰が建てたのだろう?
宗教が宗教を弾圧する政争の材料にされた彼女らの心のうちはどのようなものだったであろうか。その後、後鳥羽院は失脚する。
古今和歌集は十世紀の成立で、後鳥羽院が隠岐に流された承久の乱は十三世紀なので、なんとも言えないが、古今和歌集の歌の解釋の土壌の上に次々と伝説の草樹が生い茂っていったと思われる。
若い頃は古文なぞまっぴらと思っていたが、寄る年波、小説などを書いてみようというときに伝統的な日本語の造詣と駆使は重要であり、標榜する西鶴先生の文章を凌駕するにはさらに美しい大和言葉へのセンスが必要であることを痛感した。
この歳になって想う。
古代の言葉は美しい。なぜそう思うのだろう?そういう感覚が常日頃使っている言葉を「文」とするときに湧き出(いづ)る。川端康成も小説は源氏物語(十一世紀)から西鶴(十七世紀)に飛ぶ、とさえ、敢えて言っているのは単に例としてあげただけではあるまい。はじめ連歌師に教えを乞い、後に俳諧師となった西鶴が愛したのは世阿弥、禅竹の能であり、古今和歌集の和歌は勿論、貫之の仮名序の雰囲気に似た文章を書くのである。
ロバート・キャンベル氏が井上陽水氏の歌を英訳したと聞き、英詩も好きな私は興味はあるが、まだ恐ろしくて御著に手が出せない。
でも日本の美しい和歌や俳句をもとにどのような英語詩を作れるかは若い頃から非常に興味があり、ここに少し遊ぶことにしよう。
英語化を試みる歌をもう一度詠んでみよう。
秋の野に人まつ虫のこゑすなり 我かといきていざとぶらはん
古い言葉であるが、現代でも少し古文をかじれば理解できる。字面を見れば割合と素直な歌である。だが、これが、松虫の音を聞きに行ってそのまま死んでしまった男の友の物語になり、美しい白拍子がひっそりと暮らしたさみしい佇まいへの感傷となるのだ。
この歌の詩情を想いながら、ツイッターに載せるために短時間で作ってみたのは、次のような英語だった。「人まつ虫」の言葉の二重性はこの国の言語独自のものであり、他言語の詩には翻刻不能であろう。勿論、外国には外国の歴史的に深く刻まれた類似した嗜みがある。
In the field of August
for someone waiting is many a pine insect
as I hear them singing
It would be me they are now having/waiting
これを和歌ではなく決まりに縛られることなく私のセンスで和訳すると原詩とは全く異なる作品になる。
秋の野にて
松虫のたれかを待ちて
我その音を聴く時
そが待ちかねる者は我か
2行目は insect と1行目の August と韻を踏みたいがために複数を表す単数表現にした。insects の複数形が原義だが、August と insectsでは韻が踏めない。韻を強調して読む時は「t」の発音が2回続くわけだ。
3行目と4行目は ~ing で強引に韻を踏んだ。これは英語を話す人には拙く響くだろう。なぜならば、単語を選んで韻を美しく踏もうとする英詩ではあまり歓迎されないという感覚がある。すべて ~ing ではセンスがないということだ。文学では正当な言語と奇なる表現が相まって芳醇さが増すものだ。
現代詩はイエーツなどを読むと、韻を無視することも多々あるようだが、私はオーソドックスな楽曲に乗るような詩を書きたいと常々考えている。最後の語に having か waiting か悩む。waiting にすれば文法的には for が必要だが、どうだろう?英語はあくまで他国民の言語であり、それを少しばかり齧って嗜んで、然して文法を守らぬというのは人によっては良しとすることもあるだろうが、私のことではない。
私が言う”オーソドックスな英詩”というのは例を示すと、トールキンの詩が面白いと思う。
Far over the misty mountains cold
To dungeons deep and caverns old
We must away ere break of day
To seek the pale enchanted gold.
J.R.R.Tolkien、The unexpected Journey中の詩
「ドワーフの歌The Dowarven Song」
遥か遠き霧山の冷たさをたたえる
深き岩牢と古き岩窟へ
我らは行かねばならぬ、夜が明けぬ間に
蒼い呪われた黄金を取り戻すために
この4行詩の場合、
A(cold)
A(old)
B(away) B(day)
A(gold)
という韻を踏んでいる。だが私の松虫の詩は
A(August)
A(insect)
B(singing)
B(having/waiting)
で、私が好きなEaglesの歌によくあるパターンだ。こっちのほうが歌にはよく乗る。何故ならば鑑賞者が覚えているうちに次の韻を認識出来るからだ。
言っておくが、例に示したトールキンの韻律は10数段ある4行詩全てに例外なく用いられている。また、和歌に慣れた日本人には英語の脚韻が美しいと感じる人は限られているようである。英語の韻律の美しさを教えない学校教育に問題があるのだろう。
私が英語に拘る動機は単なる自己満足である。
私の英語詩はトールキンの詩に比べバランスが悪い。原詩の内容のボリュームを考えると致し方がないか。2行目は韻を踏むために語句の順序を変えているが、これは英詩では特に奇異なことはない。和歌や日本語の詩も同じ様な工夫はするだろう。
語順をまともに出来ないか考えてみた。次のような3行にしてみた。平易に主語を入れてみる。和歌に一人称主語が殆どないのは伝統だが、英語詩には When I (ホエンナイ)などと主文が来る前に助詞的に一口に言え、次の語句の冒頭を強勢で発音できるので、ごろが良いのか頻繁に使われていると存ずる。
When I roam in the August field
Song of pineinsects; waiting for someone; sung unheard
It would be me who come and mourn for you
訳すると、このような感じか。
秋の野に彷徨(さまよ)えば
松虫はたれを待ちて歌わんか
そは我か、いざ汝を尋(とぶ)らうのは
友を偲ぶという情緒から「亡くなった君を弔う」という意味でmournを使った。この3行詩では韻は最初の2行の field と unheard の「d」であり、声を出して読む時の最後の発音は「t」に近い発音をするネイティブもいると思う。sung unheard の素敵な言い回しはトールキンの詩にある表現から拝借した。「Song is sung」の is は意図的に省略した。例に用いたトールキンの詩に
The fire was red, it flaming spread;
火は紅く、炎は広がり
という is を省略した一行がある。
Song is sung unheard は「誰にも聞かれないのに歌われた」転じて「たれのためにか歌わん」だ。曖昧性を持たすためにSongの冠詞は敢えて省いた。
英語化ということは思ったより振り子の幅が大きいようだ。そして似ても似つかぬ趣きを持つこともある。
了 令和元年長月
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