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二度目の妻
「チエ おめえ そんなに きれいじゃったんか」
半年間のガンとの闘病の末息を引き取った母が看護師によって薄化粧を施されストレッチャーに乗せられているのを見た父の第一声。
母は父の二度目の妻であり、初めの妻は母の実姉だった。
産後の肥立ちが悪く男の子を出産して亡くなったと聞いている。
父の両親が子供の面倒を見ていたらしいが、出産後まもなく亡くなった妻の実の妹が子育てをするようになったのは当然の流れだろう。
母の姉は容姿端麗、しかも頭脳明晰で女学校を終え銀行に勤めていたそうだ。
それに較べて母は丸顔でそばかすもあり美人とは言えなかったが、慈愛に満ちた表情はお地蔵様のようだった。
しかも実家は姉の代までは裕福で母の姉は女学校に進んだが、やがて没落し、母は尋常小学校を卒業し縫い物で家計を助けていたと聞いた。
母は甥にあたる男の子を大切に育てながら、やがてその後に男・女・男・女と四人もの子供に恵まれた。合わせて五人の子供を分け隔てなく育て、自分が行けなかったからと全員大学・短大に進ませた。
父は戦争中は東京都の立川で技術者として飛行機の整備などをしていたそうだが、戦後故郷に帰り一から商売を始めた。当時は皆同じだろうが慣れぬ仕事で夜なべもしながら夫婦で働き詰めだったようだ。
生活が少し上向き始めると、父は、自分は技術者であって商売人ではないとプライドばかり高く、商売は母に任せきっりで市会議員の応援に走ったり、PTA活動に熱中したりしていたようだ。
そんな中、初めの妻の忘れ形見である長男が、大学を卒業して大手企業に就職したばかりの会社の独身寮で朝起きて来ず、様子を見にいった同僚に冷たくなっているのを発見された。
原因はわからずポックリ病・突然死と言われた。
その頃中学校に入ったばかりの私は歳の離れた兄の、荼毘の煙が青い大きな空にスーッと登っていくのをただただ見ていた。
私などの悲しみよりも深い深い悲しみと嘆きに父も母も襲われていた。
そして残った四人兄弟の三番目の兄と末っ子の私が大学と短大を同時に卒業し、長い間の学資を仕送りする生活から解放され、少しの余裕もできのんびりできると思った頃、母のふっくらした丸い顔が少しずつ痩せ、はれぼったい一重まぶたがチャーミングな二重になりお茶目に喜んだりしていた。
しかし体調はなんとなく優れず検査入院をすることになり、簡単な着替えを持ち母は一人で大通りに出てタクシーを拾い病院に行った。
一週間ほどして家族が医師に呼ばれ母はガンにかかっていて、手術をできる段階ではない事を告げられた。昭和四十年代はじめのガン治療は特別でなければ本人には告知はせず、今のような緩和ケアなどなく、痛みに苦しみながら患者は亡くなっていった。
そんな母を父は日中は家業に精を出し、夜になると病室に泊まり込みで看病した。
しかし、かいなく、入院して半年で母は亡くなった。
当時は家で通夜・葬式を行うことが多く、お通夜の弔問客が帰ったあと父は家族の目など気にならぬように母の隣に布団を敷いて添い寝をしていた。
もう二度と抱くことのできない母のそばに居たかったんだろう。
長い間父の心の中には美しかった初めの妻しかいなかったのに、母が亡くなって分かったのだろう。
この時初めて父は最初の妻を忘れることが出来たのかもしれない。