冬乃くじはシーマ・ガラハウか!?〜『健康と対話』特別感想文〜

文学フリマの帰りにきさめさんが私の前にやってきて、BFCの決勝作品をまだ読んでいないだろう。読め、そして感想を寄せろと言った。
きさめさんというのは冬乃くじに極めて近しい、同一人物といっても決して過言ではない人であることを私は知っている。そのきさめさんによれば、冬乃くじはなんとBFC4の決勝戦において「イグ」を提出したらしい。

(えー、ここまで読んでBFCとは何かとかイグって何だとか疑問に思っている方はですね、この先さらに苦しくなりますので、まずこれを読みましょう)

で、きさめさんによると冬乃くじは…ええい、面倒くさい!冬乃くじであるところのきさめさんはですね、「私はBFCとイグの両制覇を狙って今回これをぶちかました」と言うのですよ。井上尚弥だってそんなことよう言わんですよ。いや井上尚弥はそもそもBFC出さんだろとかそういうことじゃあないんだ。
もとよりイグBFCというのは、BFCで(たぶん)箸にも棒にもかからず(おそらく)失笑と共に落選した我々が、「なんでこんな面白い作品が落ちるんや!BFCなど我々のためのイベントではない!こっちはこっちでもっと面白いことやったるわい!」という経緯で(語る度に明らかに大袈裟になっていますが気にしない)はじまったのであって、つまりアンチBFCであり、BFCレジスタンスなのである。蜂起なのである。まあBFC主宰の西崎憲さんが毎回参加している時点で、ほとんど面白前夜祭と化してしまっているわけだが、本当はそうなのである。そうなんだよお!

であるから、BFC本戦ファイターが、しかも常連である冬乃くじが、よりによって決勝戦で意図的にイグをぶち込むなどとんでもないことであり、私は思わずデラーズ・フリートを堂々と裏切るシーマ・ガラハウを連想してしまった。

「あたしは故あれば寝返るのさ!」

もちろんこの「故」とは、六枚文芸界統一の野望であろう。

えー、シーマ・ガラハウとは誰かといいますとですね、OVA『機動戦士ガンダム0083/スターダストメモリー』に登場する元ジオン軍の女性士官で、ジオン残党を集めて「デラーズ・フリート」を名乗り地球連邦政府に宣戦布告したエギーユ・デラーズに招聘されるのですが、ちゃっかり連邦軍にも通じていて土壇場でド派手に裏切りをかま
すのです。あ、ネタばらしだな。まあいいか。

そうした観点で『健康と対話』を読んでみると、これはもうシーマの最終乗機ガーベラ・テトラ並みのぶっちぎり感というか、ガーベラ・テトラというのはですね、プロペラントタンクによる脅威の加速持続力によって戦闘区域に突入して、あとは機体性能とパイロットの能力頼みといういわば特攻型MSなのですね。何の話をしているんでしょう。
つまりシーマ・冬乃・ガラハウは最終決戦にふさわしい機体=作品に乗ってきたわけです。こうなると勝負の行方は、対する草野理恵子がコウ・ウラキ(あ、主人公です)であるかどうかにかかってくるわけですが、草野氏は不穏な言葉を連ねて場を支配する、言うなれば「言葉の爆導索」の使い手であり、つまり彼女の作品はウラキの最終乗機ガンダム試作三号機「デンドロビウム」なのです。何を言っているのかわからないかもしれませんがそうなのです。アナベル・ガトーはイグ優勝の目八さんかげんなりさんがやってください。何を。

もっとも勝負の行方は私の知るところではありません。私はイグの観点から『健康と対話』について語らなければならないのです。
これについては既にTwitter上でこのようなやりとりがなされています。
https://twitter.com/stillblue_s/status/1594539890968260609?s=46&t=CuRWWkJYGuVCthI5FeimyQ

(少ししか)ってなんだよ。思ってんじゃねえか!
私は自作を謙遜と(ウソです)たかが小説、思い上がるなという自戒を込めて「クソ」と呼びますが、クソ作品の代名詞とも言えるアニメ『ポプテピピック』をアニメファンが「クソ」と呼ぶ時、そこには「よくぞこんなものを」という驚きや畏怖が表現されているのであって、必ずしも「クソ」という呼び方は侮蔑ではないとも言える、という現状はあるわけです。私が自作をクソ呼ばわりし始めたのも『ポプテピピック』後であることに留意されたし。留意してどうなるわけでもありません。そろそろ作品について語らないと呆れられてしまう(手遅れ)

『健康と対話』は確かにクソ小説だが、それは「うんこについての小説」という文字通りの意味であって、内容は決してクソではない。ではこれは「イグ」か、少なくとも覇権を握れるイグかというとどうも私にはわからないのである。というのもイグの概念は今回のイグBFC3において想像をはるかに超える拡散を見せているからであり、間違いなくイグではあると思うのだが、これをイグBFCの舞台に持ってきたとして読者がどう判断するかがもうまったく読めないのだ。
初期イグBFCから今まで、いわゆるエロ・グロ・シモの類な話が隆盛を極めてきたのは、それらが極めて端的なわかりやすいイグに他ならないからで、そういう意味では『健康と対話』は典型的なイグであるとは言える。ただ冬乃氏自らも言うように、それは紛れもなく現実の一部であり、日常において堂々と語ることを憚られているが故に、その「イグみ」には堂々と語られるインパクトの占める割合が大きい。
試しに『健康と対話』の作者名を、あえて名は秘すが「◯馬◯リス」と入れ替えてみたらどうだろう。なんというか、さほどのインパクトはない、どころかいつもよりずいぶんとマトモではないかと感じないだろうか(鞍◯ア◯◯さんにはお詫びのしようもございません)
『健康と対話』に弱点を探すとすればまさにそこであり、同じことは形を変えてイグBFCでも起こっている。エロやシモがあふれた結果、エロやシモというだけではさほどのインパクトはない、どころかむしろ一部で呼称されていた「旧イグ」のレッテルを貼られかねない恐れがあるのだ。
もちろんこれは『健康と対話』の作品としての価値を言っているのではなく、あくまで冬乃氏が目指す「BFC・イグ両制覇」の可能性としての話である。
とはいえ、逆説的ではあるが、まったく同じ理由によって『健康と対話』は今回以降のイグBFCにおいて極めて有力であるかもしれない。なぜならここに描かれているのは、うんこの話であることを強調しない限りは、非常に現実的な、ちょっと変わった姉妹の微笑ましい(と言えなくもない)日常であって、その方向性は価値観の固定を避けて変質・拡散していくイグのベクトルと一致してしまう可能性が、現状を見る限り少なからずあると思われるからだ。これまでの暫定概念にとらわれないイグこそが明日のイグである。
つまり、『健康と対話』を「うんこの話」と見る者は「旧イグ」の概念から抜け出せていないのである。「うんこ」というわかりやすいイグをまとった「別の何か」だと読む者は、おそらく「新しいイグ」を戦い抜くことができるだろう。『健康と対話』はある意味、リトマス試験紙である。

果たして『健康と対話』が今回のイグBFC決勝作品と並んだ場合、勝てるのか否か。あるいは明日のBFCにおいてどこまで戦えるのか。
それを予想することはもはや私には不可能だ。せっかく指名してもらっておきながら情けない限りだが、この作品をイグとして評価する権限は既に私にはない。
なぜなら「昨日のイグを知る者は今日のイグを知らず、今日のイグを知る者でも明日のイグは見えない」からである。それを知っているのは、イグを待っている読者だけなのだ。あるいはイグナイトファング!


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