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帰ってきた定期入れ(2回目)

高校受験の合格発表の日から2週間後。
父が私に合格祝いをくれた。

本革の定期入れだった。



4月から通う高校はバス通学になる。
女子高生には分不相応な本革の定期入れに、15歳の私はちっともときめかなかった。

定期入れをもらうのは嬉しいけど、もっとピンクとか白とか可愛い色がよかったなぁ。
オジサンが使うような焦茶色の本革なんて全然可愛くない。

そう思いつつ、普段は無愛想な父がお祝いをくれたことが嬉しくて高校3年間その定期入れを使った。
大学ではバスや電車を使う生活からは遠のいていたけれど、地元で就職してからは再びバス通勤生活になった。
就職した会社は私が卒業した高校の近くにある。
そんな訳で乗っているバスの路線は高校時代と全く同じだ。

就職してしばらく経った頃、父が亡くなった。
仕事中の事故だった。
突然すぎて母はもちろん私も弟も酷く動揺した。
ようやく落ち着いて日常が戻ってきたとき、自分の部屋の引き出しを整理していたら定期入れを見つけた。

女子高生には分不相応な本革の定期入れ。
父の形見になるとは思わなかった。
その次の日からずっと、私は焦茶色の定期入れと出勤している。


高校時代とほぼ同じ時間帯に出勤しているため、バス内は学生が多い。
かつて自分が着ていた懐かしい制服もよく見る。

「おはよう藤田くん
 雨だから乗ってるかなって思ってたよ」

「川本さんおはよう
 今日はやばかった、寝坊するとこだった
 朝練ないからって油断したよ」


雨の日はバスの車内も人が多い。
距離が近いから他の客の会話も聞こえてしまう。
濡れた傘が他の人に当たらないように気をつけながらバッグを胸に抱える。
抱えたバッグから定期入れがこぼれ落ちていたことに気付いたのは、帰りのバスに乗ったときだった。

どうしよう、どこでなくしたの…?
まだ期間が残っている定期券は別にいい。
問題は定期入れだ。
出し入れするのはバスに乗る時だけだから、落とす可能性があるのはバスの中か乗降前後だ。

お父さんの定期入れなのに…。


高校2年生のときにも同じことがあった。
朝から寝不足のままバスに乗って、うたた寝してしまった日。
ふと目を開けたら降りるバス停にもう停まっていて、慌てて降りて座席に定期入れを置き忘れたのだ。

その日の昼休み、隣のクラスの男子が教室の中に入ってきた。
名前も知らないその男子は私の顔を見ると「あ、いた」と言って近づいてきた。

「佐伯さん?だよね?定期、忘れてたよ」

「え?定期?」

彼が手に持っているのは私の焦茶色の定期入れ。
このとき初めてなくしていたことを知った。

「今朝バスから降りるときに座席に忘れてたよ」

「え!ほんとに!?あ、ありがとう…」

定期券と一緒に学生証もまとめて入れていたから私のものだとわかったそうだ。
その後バスの中で彼を見かけたときに声をかけ、もう一度改めてお礼を言った。
「隣のクラスの宮本くん」は、私の中で「定期入れを拾ってくれた人」として記憶に残っている。


一度はちゃんと手元に帰ってきた定期入れ。
今回はもう戻ってこないかもしれない。
どこでなくしちゃったんだろう。
泣きそうになりながら運転手に尋ねた。

「あの、今日バスの中に定期券の落とし物はありませんでしたか?」

「いやー、ちょっと分からないですね
 落とし物は全部営業所で保管してるんですよ
 営業所に問い合わせてみてください」


電話で問い合わせると、それらしき定期券の落とし物があったらしい。
時間帯や特徴からおそらく私のものだろう。
涙が出るくらい安心して、電話でそのまま保管してもらえるようお願いした。
そしてその週末、営業所まで受け取りに行った。

「すみません、電話で忘れ物の保管をお願いしていた佐伯と言います
 定期券を受け取りに来ました」

「ああ、聞いてますよ
 持ってくるんで身分証をご用意してお待ちください」

職員が焦茶色の定期入れを持って窓口に戻ってきたのを見て心底ホッとした。
よかった、帰ってきた。お父さんごめん…。

忘れ物を受け取るための書類を書いていると対応してくれた職員が話しかけてきた。
私と同年代の男性職員だ。

「バスは通勤で使われてるんですか?」

私は書類に名前や電話番号を書きながら答える。

「あ、はい、そうです。
 定期券はもうすぐ期限が切れるところだったんで別によかったんですけど、入れ物が大事なものだったので」

「これ、僕が拾ったんですよ
 平日の午前はあの路線で運転手してるんです
 座席の下に落ちてました」

「え!そうなんですか!
 うわーありがとうございます!
 これ父の形見なんです
 本当に見つけてもらってよかったです」

「ああ、それなら確かにとても大事なものだ
 随分長い間使ってるんですね」

「ええ、まぁ…
 高校時代から使ってるんで10年くらいかな?」

「佐伯さんさぁ、定期券よく落とすよね
 俺拾うのもう2回目なんだけど」

「え……?」

書類を書く手を止めて、思わず顔を上げて彼の顔を見た。
ニッコリと笑う男性職員。
知ってる。私、この人を知ってる。

「まぁバスの中で落としたら俺がまた届けるから
 安心して何でも落としていいよ」

「え……あ、うそ、え?」

「もう1年以上も毎朝佐伯さんを職場まで送ってんだけど全然気付いてないよね」

彼の左胸には「宮本」の名札。
色んなことがいっぺんに起きると、何からどう驚けばいいのか分からない。
分からなすぎて私の口は金魚になっている。

「俺のこと覚えてない?」

「お、覚えてる!覚えてるよ宮本くん!
 うわ、何度もすみません!ありがとう!」

彼は再びニッコリ笑い、書類の受取人の電話番号の欄を指差しながら言った。

「今日あとでココに連絡してもいい?」

「えっ」

「バスを降りるときに毎回"ありがとうございました"ってハッキリ言われるの、運転手としては嬉しいもんなのよ」

「どうも…うん、い、いいよ」

「ありがとう、あとで連絡するね
 それじゃ、こちら間違いなくお返し致しました
 いつもご利用ありがとうございます
 今後ともよろしくお願いします
 ……バスの時間、ズラして乗らないでね」


お父さん、定期入れ2回も落としてごめんなさい。
そして私は月曜から一体どんな顔でバスに乗ればいいんでしょうか。




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