第9回「度肝を抜く売り込み口上「外郎(ういろう)売」」
雄弁な長台詞は、全部「ういろう」のコマーシャル。
団十郎の流暢な宣伝口上に、江戸っ子たちは拍手喝采!
2代目団十郎が感謝の意を込めて創作
「ういろう」というのは、小田原の虎屋藤右衛門が売り出した銀色の丸薬です。咳止め、喉の痛み止め、旅の常備薬などとしてよく知られており、約650年の時を経たいまも神奈川県小田原市で製造されています。(注1)
2代目団十郎が喉を痛めていたとき、この「ういろう」を勧められて飲んだところ、すっかりよくなったため、お礼を兼ねてこの薬を舞台で広めたいと虎屋の主人に申し出ます。主人はこの薬は施(ほどこ)しの薬だから宣伝しなくてもよいと固辞しますが、団十郎が是非にと懇願して舞台の演目にしたといわれています。
こうして2代目団十郎によって1718(享保3)年に創作された「外郎(ういろう)売」ですが、その最大の見せ場は外郎売りに扮した団十郎が立て板に水のごとくまくし立てる売り込み口上。当初は「若緑勢(わかみどりいきおい)曽我(そが)」という演目に外郎売りとして登場していたのですが、その雄弁な口上が観客の度肝を抜き大評判となったことから、後に独立した演目として歌舞伎十八番に加えられていきます。
図1. 黄表紙「会席料理世界も吉原」三升作・豊国画
表紙には外郎売りに扮した団十郎が描かれている
「ういろうのせりふ宿やのかかあよみ」
こんな川柳が詠まれるほど、当時も巷で流行ったその宣伝口上。
江戸っ子の度肝を抜いた雄弁な売り込み口上の一部をご紹介しましょう。
「拙者親方と申すは、御立会いの中に御存知のお方もござりましょうが、お江戸を立って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、ただいま、剃髪いたして、円斉と名乗りまする。元朝より大晦日までお手に入れまするこの薬はむかし陳の国の唐人ういろうという人、我が朝に来たり、帝へ参内のおりから、この薬を深くこめ置き、もちゆる時は一粒づつ冠のすき間より取り出だす。よってその名を帝より透(とう)頂(ちん)香(こう)とたまわる。……」
この後は省略しますが、売り込み口上は400字詰め原稿用紙でほぼ5枚に及ぶ長台詞。店を構える場所や「ういろう」の由来、効能などについて、掛け言葉や語呂合わせ、得意の早口言葉などを織り交ぜながら、遊び心あふれる台詞まわしでまくし立て、最後は「ホホ、うやまって、ういろうはいらしゃりませぬか」で締めくくる。まさに全編が「ういろう」のコマーシャルになっているのです。
現代にも受け継がれる団十郎の名せりふは、いまなお愛され、言い伝えられています。アナウンサーや声優の発声練習や滑舌のトレーニング用として、また朗読会の場などでも使われています。
歌舞伎界のスターはメディアの戦略家だった
2代目市川団十郎が創作した広告劇は「外郎売」の他に「助六由縁江戸桜」や呉服商とタイアップした「寿の字越後屋」等を18世紀初期に創作しています。
商人達の広告宣伝と劇場の観客導入という、いわば、ウインウインの形を作り上げたわけです。さらに、団十郎は出版元と組んで、人気演目の台詞本や黄表紙(合巻)を自ら創作するなど、積極的に発信しました。
それは、世間に広く認められてもらうとともに、歌舞伎界における市川家の権威を確立させようとする戦略だったのです。舞台上の名声だけでなく、出版物というメディアを最大限に利用して世に知れ渡り、それに伴い市川家の権威も高まっていくのです。
2代目団十郎は元祖CMタレントでありながら、気鋭のクリエイターで、なおかつ辣腕プロデューサーでもあったのです。(了)
◎【コラム①】歌舞伎18番とは
7代目市川團十郎が制定した市川家の家の芸である荒事(あらごと)を中心にして選定された。それ以前から歌舞伎全体の中の人気演目を指す言葉としてあった。7代目團十郎は天保年間に「江戸市川流・歌舞伎狂言組十八番」として制定。「不破、鳴神(なるかみ)、暫(しばらく)、不動、嫐(うわなり)、象引、勧進帳、助六、外郎売(ういろううり)、押戻、矢の根、関羽、景清、七つ面、毛抜、解脱、蛇柳、鎌髭」の十八番。18番は「おはこ(お得意のもの)」の意味もある
◎【コラム②】 歌舞伎「外郎売」のストーリー
大磯の廓でくつろぐ、工藤佑経のもとに、小田原名物の外郎売がやってきます。この外郎売は、佑経を親の敵とねらう曽我五郎時致。親を思う心を察した佑経は、曽我兄弟に討たれる覚悟で後日の再会を約束するのでした。
この芝居の中で、外郎売に扮した曽我五郎がおなじみの「ういろう」の売り立て口上を披露します。2019年7月歌舞伎で、市川海老蔵親子がこの「外郎売」を演じることが、話題となった。
注1.)「ういろう」とは
外郎家(ういろうけ)の初代は中国・元に仕えていたが、日本に渡り、六百数十年続く家柄である。
元の時代の役職は「礼(れい)部員(ぶいん)外郎(がいろう)」といい、そこから外郎(ういろう)と名乗りました。
外郎家は医術に優れており、中国より家伝の薬の処方で作った薬が「ういろう」です。
また、接待に供するために作ったお菓子も「ういろう」です。どちらも外郎家のもの。お菓子は、その時の職人たちによって、全国に広まった。薬の「ういろう」は五代目定治が一四九五年、小田原に居を構えて以来、一子相伝の製法で現在も伝えられています。
(株式会社ういろうの解説書より)
写真1)㈱ういろうの老舗は現在も神奈川県小田原市で盛業中(筆者撮影)
写真2)左はお菓子の「ういろう」右は薬の「ういろう」(筆者撮影)
<執筆者プロフィール>
坂口由之(さかぐち よしゆき)
アドミュージアム東京学芸員。1947年、北海道生まれ。多摩美術大学卒業後、1970年㈱電通入社、クリエーティブディレクターの後、1997年広告美術館設立のため学芸員として参画。2002年「アドミュージアム東京」の開設時に企画学芸室長として運営に携わる。2007年(公財)吉田秀雄記念事業財団に勤務。現在はアドミュージアム東京解説員として勤務。日本広告学会会員
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