第8回「企業タイアップのルーツ、歌舞伎『助六』」
酒に、薬に、うどんに、せんべい……。「助六(すけろく)由縁(ゆかりの)江戸(えど)桜(ざくら)」は、2代目団十郎が創作した、一大コマーシャル・エンターテインメント!
舞台は広告のオンパレード!
主人公の飲むお酒や机の上に見慣れたパッケージのお菓子がスポンサーの商品だったという、ドラマや映画の企業タイアップ(注1)は、いまや当たり前ですが、そのルーツが江戸時代にあることをご存知でしょうか?
江戸ではあらゆる商店が、歌舞伎とタイアップしたのですが、その始まりは2代目市川団十郎が創作したいくつかの広告劇にありました。(注2)
中でも「助六」は芝居を広告媒体とした代表格です。江戸の男のダンディズムと宣伝広告がぎっしり詰まった、まさに江戸の粋と洒落を極めた芝居です。
図1. 「助六由縁江戸桜」国周画 この錦絵は幕末から明治期のもので、
助六役は河原崎権之助(のちの9代目市川団十郎)である。
まず舞台となる三浦屋は当時、新吉原に実在した遊郭です。そこに二日酔いの様子で登場するヒロインの揚巻が飲んでみせるのは、「袖の梅」というよく知られた酔い覚ましの薬。また、出前持ちの名は「福山うどん」、奇妙な奴さんの名は「朝顔せんべい」、助六の兄役は「山川白酒売り」に身をやつしているなど、実在する商品名がこれでもかと登場します。さらに、舞台の袖には饅頭で有名な「新吉原竹村伊勢」
の蒸(せい)籠(ろう)が積み上げられています。つまり幕が開く前から、すでにお饅頭屋さんのコマーシャルがはじまっているというわけですね。
図2. 山川白酒 神田鎌倉河岸の豊島屋が売り出したひな祭りシーズン限定の元祖白酒。
図3. 「袖の梅」は酔い覚ましの薬。
江戸の流行双六にも登場するほど、大人気であった。
侠客に身をやつし、父の仇を探す男の物語
「助六所縁江戸桜」は市川家歌舞伎十八番の名作中の名作です。まずは、そのあらすじからご紹介しましょう。舞台は、実在した江戸新吉原の大見世・三浦屋の店先です。ここでは、吉原ナンバーワンの花魁(おいらん)・揚巻(あげまき)をはじめ、いずれ劣らぬ美貌の遊女が艶やかさを競っています。そこに通うのは、江戸っ子たちのヒーロー・花川戸助六。ケンカにめっぽう強く、権力に屈しない、吉原一のモテ男です。
じつは助六の正体は曽我五郎時致(そがごろうときむね)という侍。父の仇を探し、家宝の刀「友切丸」を取り戻すため、侠客に身をやつし、武士に喧嘩を吹っかけては刀を抜かせているのです。
ある日、助六は恋人・揚巻に横恋慕する髯(ひげ)の意休(いきゅう)と対決し、髯の意休がついに刀を抜きます。そして、その刀こそ、助六が探し求めていた家宝の「友切丸」だったのです。こうして助六は父の敵を討ち、宝刀を取り返すことができたのでした。
大衆娯楽の花形が広告メディアに
なぜ歌舞伎の舞台がコマーシャルの場になり得たのでしょう?
この時代の歌舞伎は遊里・吉原と並んで2大悪所とされていましたが、一方で流行やファッションの発信源でもあったのです。
歌舞伎は本来、商業演劇であり、人気絶大の歌舞伎役者たちはスーパースターでした。その影響力も大きく、衣装や台詞から数々の流行が生まれたほどです。
団十郎の爆発的人気にあやかって、ここに登場した店や商品もブレークした。さらに、スポンサーは劇場に団体客を招待し、劇場側も団体の入場料で大いに潤ったというわけです。
商人たちは役者へのつけ届けも忘れませんでした。「助六」の舞台となった吉原は、団十郎に舞台で使う蛇の目傘やキセル、提灯などを贈りました。また、競うように札差(注3)や魚河岸からも贈り物が届けられました。そして、役者からも返礼として羽織や帯、扇子などを贈るなど、商人たちと役者の持ちつ持たれつの関係がここにでき上がったわけです。それはまた贔屓(ひいき)・パトロンといわれる後援者の誕生でもありました。こうして、大衆に馴染んでいた歌舞伎はかっこうの宣伝広告の舞台(メディア)となっていったのです。(了)
◎【コラム①】2代目市川團十郎(1688~1758)
元禄元年(1688)初代市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】の長男として生まれる。
17歳の時、父の突然の死に遭い、二代目團十郎を襲名。しかし、数年間は役不足に苦しむが、やがて2代目は豪放な荒事芸ばかりでなく、和事<わごと>、実事<じつごと>・濡れ・やつしなど幅広い芸域を持つことができた。二代目は曽根崎心中の徳兵衛など、近松門左衛門作の世話物の主人公も演じて成功した。34歳頃には千両の給金を与えられる「千両役者」となる。
◎【コラム②】② 助六劇のはじまり
「助六」の創演は1713(正徳3)年、2代団十郎26歳の時である。蔵前の札差という豪商たちの吉原遊びをモデルに作られているが、もとは上方の歌舞伎を江戸庶民の感性に合わせて、作り直したのである。正徳3年(1713)4月、山村座の『花館愛護桜<はなのやかたあいござくら>』の二番目に助六を初演(26歳)。36年後の寛延2年(1749)、二代目62歳で三度目に演じた舞台によって、ほぼ現行に近い扮装と演出の「助六」劇が完成された。
幾度か演出も変化しつつ、代々この芸は受け継がれ、市川家歌舞伎18番のなかでも代表的な作品となる。
注1) プロダクト・プレイスメントとは
[product placement] ドラマや映画などの作品の中で商品(ブランド)そのものを露出させる手法。代表的な例では、映画007シリーズの中で使われた車、アストン・マーチやBMWがある。今日ではゲームや雑誌にも様々なタイアップ例が見られ、一般的な手法となってきている。(電通広告事典より)
注2) 「広告劇」とは芝居を広告媒体として利用することである。松宮三郎著の「歌舞伎と広告」によると、その第1番目は「寿の字模様」という「寿の字越後屋」の広告劇であり、第2番目は「ういろう売り」、第3番目が「助六」である。いずれも2代目団十郎が創作による。
注3) 札差(ふださし)とは
御家人が幕府から渡される米の仲介業であった。手数料を札差料といい浅草の蔵前に店を出し、米の受け取り・運搬・売却による手数料を取るほか、蔵米を担保に高利貸しを行い大きな利益を得た。芝居小屋や吉原に出入りして、粋(いき)を競い、豪遊した町人を通人(つうじん)と呼んだが、その多くは札差連中であった。
<執筆者プロフィール>
坂口由之(さかぐち よしゆき)
アドミュージアム東京学芸員。1947年、北海道生まれ。多摩美術大学卒業後、1970年㈱電通入社、クリエーティブディレクターの後、1997年広告美術館設立のため学芸員として参画。2002年「アドミュージアム東京」の開設時に企画学芸室長として運営に携わる。2007年(公財)吉田秀雄記念事業財団に勤務。現在はアドミュージアム東京解説員として勤務。日本広告学会会員
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