第2回「世界に先駆けたマーケティング」
三井越後屋の斬新な「現金掛け値無し」商法は新しい消費の形を作り出しました。開業した1673(延宝元)年の日本は、右肩上がりの経済成長を遂げ、江戸も巨大消費都市として成長しつつありました。町人層を新しい購買層として獲得することに成功したのは、時代のニーズに合致したからなのです。
社会学者ピーター・ドラッカーは著書『マネジメント』のなかで、東洋におけるマーケティングの始まりを、17世紀半ば「三井家の始祖・三井高利(たかとし)」に見出しています。ドラッカーは、①顧客のための「仕入係(バイヤー)」であること、②顧客のための当を得た製品設計と製造元開発を行っていること、③「異議を唱えず、返金します」という原則に立っていること、④商品を広く取り揃えて顧客に提供していること、の4点に注目し、三井越後屋のマーケティングはシアーズ・ローバック(通販で知られるアメリカの百貨店)の基本方針より、250年も先んじていた、と評価しています。
前回紹介した、「現金掛け値無し」の新商法を伝えた「引札(ひきふだ)」は、わが国初のチラシ広告でした。「三井文庫論叢24号」によると、天和3(1683)年4月の配布後の売り上げは、一挙に6割も増えたといいます。
また、引札を配布した後の広告効果を測定しているのは驚きです。高利らによる、これら一連の新しい需要の発掘と古い商習慣へのチャレンジには目を見張るものがあります。このように三井越後屋の革新商法は、世界に先駆けて、マーケティングの原型と呼べるものを、実践的に編み出していったといえるでしょう。
ちなみに、わが国にマーケティングの理論が、本格的に導入されたのは戦後間もない1955(昭和30)年のことでした。
大坂で活躍した作家・井原西鶴は『日本永代蔵』(1688[元禄元]年刊)の中で、この越後屋の繁盛ぶりを活写しています。「成功の秘密は、現金掛け値なしと反物の切り売り。そして、店内組織として『一人一色』という分業制を取り入れ、急ぎの客には即日仕立てもする。1日150両の商売をする『大商人の手本』である」と誉め称えています。
日本橋駿河町のランドマークであった三井越後屋は庶民にも親しまれていた。
「越後屋に衣(きぬ)裂く音や衣更え」と、宝井其角は俳句に詠んでいます。
顧客への正月挨拶の景品として配られた錦絵(3枚組) アドミュージアム東京所蔵
駿河町・三井越後屋の賑わいを描いた店頭美人図 歌川国貞画(天保年間頃)
参考文献
・人物叢書『三井高利』中田易直著 (株)吉川弘文館 1975年刊
・『三越三百年の経営戦略』高橋潤二郎著 サンケイ新聞社出版局 1972年刊
・『株式会社 三越100年の記録』㈱三越本社CC部資料編纂担当 2005年刊
・『図説 日本広告千年史』大伏肇著 ㈱日本図書センター 1999年刊
・『三井事業史』本編第一巻 財団法人 三井文庫編集・発行 1980年刊
・新版『日本永代蔵』井原西鶴著 堀切実訳注 ㈱角川学芸出版 2009年刊
・『川柳江戸名物図絵』花咲一男編著 三樹書房 1976年刊
・『日本商業史』竹中靖一・川上雅著 ㈱ミネルヴァ書房 1968年刊
・『日本広告史』八巻俊雄著 日本経済新聞社 1992年刊
・『ものと人間の文化史130 広告』 財団法人 法政大学出版局 2006年刊
・『史料が語る 三井のあゆみ』三井文庫〔編〕吉川弘文館 2015年刊
・三井文庫論叢 第51号 研究ノート 18世紀における三井越後屋の宣伝広告 下向井紀彦著 2015年刊
<執筆者プロフィール>
坂口由之(さかぐち よしゆき)
アドミュージアム東京学芸員。1947年、北海道生まれ。多摩美術大学卒業後、1970年㈱電通入社、クリエーティブディレクターの後、1997年広告美術館設立のため学芸員として参画。2002年「アドミュージアム東京」の開設時に企画学芸室長として運営に携わる。2007年(公財)吉田秀雄記念事業財団に勤務。現在はアドミュージアム東京解説員として勤務。日本広告学会会員
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