第1回_広重

第1回「チラシの元祖、ここに!」

「現金掛け値なし」の新商法を伝えた引札(ひきふだ)

1683(天和3)年4月、一枚の刷物(すりもの)が江戸全市中の家々に配られました。その内容は三井越後屋(三越の前身)が店舗を駿河町に移転した際に、革新的な販売方法を、改めて多くの人に知らせるものでした。これが引札と呼ばれ、今日のチラシ広告の始まりです。のれんや看板とちがい、向こうから飛び込んでくる宣伝物に、世間はびっくりしたことでしょう。
「江戸中の家数を知る呉服店」と川柳に詠まれるほどでした。
引札には「今度、私工夫をもって、呉服物何によらず、格別下値に売出申し候間(中略)一銭にても、空値申し上候間、お値切り遊ばされても負けは御座無候 呉服物現金安売り掛値なし」と記されています。高橋潤二郎著『三越三百年の経営戦略』によると、世界に先駆けた「定価販売」です。店頭で呉服を安く現金で買えるという、一般庶民にとって嬉しいニュースだったのです。

駿河町・三井越後の引札(江戸・享保年間) 
三井文庫所蔵(資料番号本2168-11)

始祖・三井高利(たかとし)には「江戸店持ち京商人」を理想とする志がありました。郷里の伊勢松坂では10男5女に恵まれ、質店や金融業を営み、将来に備えて着々と資金を蓄えていたのです。高利52歳の時、奉公して修業を積んだ息子たちと共に、江戸本町に小さな呉服店を開きます。1673(延宝元)年のことです。当時の本町には多くの呉服店が軒を連ねていました。開店当初は苦戦をしますが、高利らは時代の流れを読み、新たな顧客の開拓を考えました。訪問掛け売りではなく、店頭において安く現金で切り売りする、薄利多売の商売を始めたのです。これは多くの顧客から支持を得て、またたく間に売り上げを伸ばしていきました。しかし、これは同業者の反感を買い、数々の激しい妨害や、あくどい嫌がらせを受けます。駿河町に移転したのは、そういう事情もあったのです。

移転を契機に大量に配布した引札は、世間に向けた越後屋の“新商法宣言”であり、多くの庶民に情報を伝えるアイデアでした。これは自ら作った“マスメディア”といえるでしょう。引札の効果も大きく、越後屋は日増しに繁盛していきます。この流れと勢いに、反目していた同業者たちは、経営方針を改めざるを得ず、やがて「現金掛け値無し」の看板を掲げていくようになりました。三井越後屋は新しい消費の形を作った革命的商家だったのです。

三井越後屋の創業者 三井高利(1622~1694)
(三井文庫所蔵 史料番号新936)


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執筆者プロフィール
アドミュージアム東京学芸員 坂口由之(さかぐち よしゆき)
1947年生。多摩美術大学卒業後、1970年㈱電通入社、クリエーティブディレクターの後、1997年広告美術館設立のため学芸員として参画。2002年「アドミュージアム東京」の開設時に企画学芸室長として運営に携わる。2007年(公財)吉田秀雄記念事業財団に勤務。現在はアドミュージアム東京解説員として勤務。日本広告学会会員

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