映画『チャレンジャーズ』感想、あるいは(脱線回顧録)
いやーこれが現代最先端の性の描き方なのか。爽快感とドロドロの粘り気を同時に味わうような感覚でまあちょっと観たことのない1本でした。先のことなど知るかという終わり方も無茶苦茶で、酷いと言えば酷いよね。あの後どうなるんだろうあの3人。
というわけで作品解説は有識者の人たちにまかせて、勝手な解釈を書こうと思う。特にこのチャレンジャーズというタイトルの意味、当然テニスの「ATPチャレンジャーシリーズ」の名前から取っているわけだが、監督ルカ・グァダニーノによる映画界、引いては現代社会への”挑戦=challenge”でもある、という見立てについて。
挑戦①:音楽の使い方。
ハイパーな電子音とドン!ドン!というバスドラがどう考えてもバランスの悪い爆音ボリュームで、どう考えても変なタイミングで鳴り響く。禁じ手にも思えてくるほど唐突で、会話の途中だろうと顔のアップだろうとお構いなし。少し前までこういうの一番ダサいこととされていなかったか?劇中で鳴っている音楽のような使い方がクールとされていなかったか?ダサいも1周まわってクールとなってしまうグァダニーノがすごいのか。
挑戦②:カメラワーク。
ネット付近の選手視点(テニスボールが目の前に飛んできて思わず反射的に避けてしまう。3Dだったらのけ反りそう)、ボールそのものの視点、床視点(テニスコートで言うなら芝)まで、どうやって撮ったのこれ?という映像ばかり。懐かしのサッポロ黒ラベルの温泉卓球CMも少し連想させるけどあれはCG技術で、これはあんまりCG使ってなさそうなんだよね。今作の撮影監督はサヨムプー・ムックディプローム。名前だけでも覚えておこうと書き残しておいただけです。
挑戦③:スポンサー。
登場人物が身に着けていたテニスウェア類のブランドをざっと覚えているだけでもユニクロ、ナイキ、アディダス、on、ウィルソン、バボラ、ヨネックス。いわゆるプロダクトプレイスメントなのだろうけど、競合他社を排除することなく成り立たせている各企業の懐の深さ。ラケット壊しまくってるし劇中でケガもするし、あんまりポジティブではない使われ方もするというのに。それでいうと皮肉めいた使われ方しかしないアストンマーチンの懐の深さも相当なものだ。『ノマドランド』の時のAmazonみたい。
挑戦④:性の描き方。
男2、女1からなる三角関係が非常に複雑。誰が誰を好きかという矢印で言うと男1→女1、男2→女1、ここまではわかるが同時に女1→男1&2もあるし、男1⇆男2なんて所まで展開していく。性に対しての認識が自由で、それは性欲旺盛とか開放的という意味ではなく、どんな形でもOKという風通しの良さを感じる。
ここから思考は脱線する。
かつて日本にキリスト教を布教させるためにやってきた宣教師フランシスコ・ザビエルは日本に元から根付いている男色文化や側室制度に驚き、それは罪深いことであると説いたところ誰からも受け入れられず馬鹿にされたという逸話を聞いたことがある。男色は淫らで汚らわしい、一夫一婦制であるべきだ、といくら言ってもこの人何言ってんの、と庶民から嘲笑われたそうである。
その戦国時代の日本が持っていたいわば性に対するあけすけな庶民感覚が、時代と場所を超えて今この2024年にハリウッドで超クールなものとみなされているのだとしたら。この映画は西洋の宗教観が定めた性に対する認識への挑戦なのだとしたら。この映画を見てその斬新さを評価している私たちのことを戦国時代の庶民たちが笑って見ているかもしれないとしたら・・・と思うとなんとも痛快だなあと思うのである。