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知る由もない身長の話

昨日(8/17)の『オードリーのオールナイトニッポン』で身長が大きすぎる男はウケにくいという話をしていた。ザ・ギース尾関さんの身長が189cmあり、お笑いライブで2世代くらい下の若手にそのことをイジられるノリが発生しているとのこと。

それを聞きながら、このトークを完全に他人事として聞いている自分に気付いた(私が芸人ではないことを差し引いたとしても)。
なぜなら私の身長は178cmで、この手の話題に取り立てて何のコンプレックスも共感も感じないのである。確かによく「ちょうどいい身長」と言われる。おそらく180を越えると目立ちすぎ、175以下では低くはないがやや物足りない、この塩梅がまさに万人にとってちょうどいいと言われる所以なのだとおもう。

思えば今までの人生でこの手の身長にまつわる話題は幾度となくしてきた。その度にまったく負の感情を抱かずに来られたのはひとえにラッキーだったとしか言いようがない。おそらく身長の低い人、高すぎる人にとって私は羨ましがられる存在、特権階級に属する人間なのだ。そして、そのことをもっと自覚しなければいけない。

ということは当然その逆も存在するということだ。例えば私は視力が悪いので、視力の良い人が羨ましい。身体が細いので厚い胸板を持つ人が羨ましい。大きな借金などをして勝負を仕掛けられる胆力のある人が羨ましい。何かひとつに突き抜けた能力や興味を持ち続けていられる人が羨ましい。
というように無いものねだりをあげるとキリがないわけだが、それらの事柄は当の本人にとってはただの個性・特徴でしかなく、その状態こそが普通であり、私に羨ましがられていることなど知る由もないのだ。

同様に、目が見えない、耳が聞こえない、足が動かせない、そういう人のことを障碍者と世間は呼ぶが、そして実際に毎日その身体で生活する際の苦労は我々健常者(と世間は呼ぶ)が出来る想像を絶すると思うが、理屈で言えばその境界線なんてものはなく同じ世界線の延長であることを、歳を重ねるにつれて理解できるようになった。

老眼になれば小さい字を読むのを諦める。足腰を痛めれば草野球を諦める。油っこいのが気持ち悪くなればこってりラーメンを諦める。人生は諦めることの連続で、それはあなたの何かを損ねることでもないし、他の誰かに蔑まれることでもない。

当たり前とも取れるそんなことを、しかし人は簡単に忘れるので、大事にしなければいけないな、とふいにラジオが思い起こさせてくれた。そしてそんなことをオードリーの2人は当然知る由もない。それでいいのである。

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