『悲しみの秘義』若松英輔(13)【語り得ない彫刻】

 高村光太郎について書かれている。

 僕にとって光太郎は「道程」「智恵子抄」「レモン哀歌」なので、詩人、文人という認識である。特に「道程」は紙に書き写して、中学生の頃は部屋の壁に貼っていた。

 もちろん、彫刻家としても知っており、作品も見たことはある。

 本章を読んで、光太郎が自身を彫刻家であると断定していことを知り、正直驚いている。「彫刻を護るために詩を書いている」と言っているから本心なのだろう。

 『悲しみの秘義』において、若松さんは「言葉」の力を何度となく記されている。「言葉」に救われた経験も語られている。

 しかし、本章では、まさに「言葉」の人であると僕が認識していた高村光太郎(僕は「道程」に救われ、励まされた)を彫刻家として捉え、次のようにまとめている。

 「彼は、語り得ないものを彫刻にしたのである」

 つまり、語り得るものは詩となった。しかし、語り得ないものが光太郎にはあって、それを彫刻にしたのである。人間としての本質は彫刻にあり、光太郎は自身を「彫刻家」と認識したのだ。

 誰にも、語り得ないものがある。
 僕は、語り得ないものを詩として書こうとしている。語り得ないものだから、なかなか上手く書けないし、伝わらない。高村光太郎は彫刻家としては寡作であったが、彫刻に込める「語り得ないもの」が大きく、深いから大量に制作することはできなかったのだろう。その分、「語り得るもの」を詩にしたのだ。

 僕は苦しみながら詩を書き、語り得ないものを「言葉」にしたい。だから、僕は「詩人」でありたい。

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