『悲しみの秘義』若松英輔(5)【底知れぬ「無知」】
ソクラテスが語ったとされる「無知の知」とは【見えないことの確かさ】ともつながるのではないか。【底しれぬ「無知」】では、哲学を通じて「愛すること」を考察している。哲学を意味するギリシャ語フィロソフィが「叡智を愛する」を意味することから、人を愛すること、仕事を愛することについて思考を深めていく。
「ソクラテスが考えた哲学が、真理を言い当てることではなかった」ことは、哲学に終わりがないことを現している。答えがない、と言っても良いだろう。同じく、人を愛すること、仕事を愛すること(極めること)にも答えはないのだ。仕事を極めて「人間国宝」になっても、超一流の人は変化を恐れず、死ぬまで探求を続けているように。
それでも「答え」を知りたい。そう思う人は多いだろう。考える時間がもったいない。もっと露骨に「無駄」と言う人もいる。
たぶん、それは「愛していない」からだ。
商談で断られたら、それで終わりにするか、どうして断られたのかを考え、どうしたら受け入れられるのかを考え、次に活かすか。それができるかできないかは、CMで流れているように「そこに愛はあるんか」という問題なのだと思う。
「愛」がなければ「悲しみ」もない。
生まれて、生きて、死んだ。それだけでも十分だと思う。けれど、何かを「愛する」ことができれば、「悲しみ」を伴うが、きっと人生が深くなる。もちろん、人、仕事でなくても良い。
僕は何を「愛している」のだろうか。
たぶん「書く」ことだ。仕事とは全く関係のない、一円にもならない「書く」ことを愛している。愛しているけれど、なかなか上手く書けずに挫折の毎日だ。僕が理想とする文章は死ぬまで書けないだろう。それでも良いのだ。いや、それだから良いのだ。
きっと、傷つきたくないから、悲しみたくないから、何も愛さない、という人もいるんだろうなぁ、とぼんやりと理解しながら、一方通行に語ってしまった、と反省。僕には、他人を思う愛がたりないようだ。
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