『悲しみの秘義』若松英輔(3)【見えないことの確かさ】

 美術館に出掛けて、どの絵が良かったか、と喫茶店で話すと二人のお気に入りはいつも違う。けれど、美術館に出掛けるのはどちらも好きで、お気に入りが違うことにすれ違いを感じることはない。僕らはそんな夫婦だ。たぶん、感覚が違うから続いているのだと思う。好きも嫌いも一緒だと、最初は「運命」を感じるのかもしれないが、だんだんと息苦しくなり、一人になりたくなるんじゃないのかな。そんな気がする。

 けれど、自分が感じた衝撃は相手にも分かって欲しいと思う気持ちはいつでもある。ズバッと心に突き刺さった短歌を妻に紹介して「良く分からない」と言われ、落ち込むこともある。でも一方で、分からないのに、適当に「分かった」と言われるよりは良いとも思っている。人の心は絶えず揺れているのだ。分かって欲しい、でも安易に分かられるのも嫌、みたいな。

 【見えないことの確かさ】に書かれているのは、【悲しみの秘義】にあった「同じ悲しみなど存在しない」の延長にある、心の揺れである。自分の感動を誰かに伝えたい、と思うことは素晴らしいが、伝わるかどうかは分からない。誰かに、という外に求める行為ではなく、どうして、と内に求める行為をしたらどうだろうか、ということなのだ。内に求める行為を若松さんは「誰もが内なる詩人を蔵している」のだから、と教えてくれる。それは詩を書く、書かないとは関係のない「内なる詩人」である。

 【見えないことの確かさ】の章は、「内なる詩人はこう語る。見えないから不確かなのではない。見えないからこそ、いっそう確かなのだ。」と締められている。こちらも【悲しみの秘義】の「消し去る」につながる。「見えるもの」「現実」にばかりこだわると生き難くなる、と僕も思う。だからと言って、非現実にばかり傾くと生活は破綻してしまう。そこで、大事なことは、誰もが蔵している「内なる詩人」の存在なのである。
 
 【見えないことの確かさ】は矛盾しているようにも思えるが、「見えないから不確かなのだ」という思い込みを超えた先に存在するし、それを導くのが「内なる詩人」なのだ。

 ここまでを読み返してみたが、たぶん、僕が伝えたいことが上手く伝えられていないと思う。これは単に文章力の問題だと思われる。「見えることの確かさ」もやはり難しいのだ、と実感している。

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