『悲しみの秘義』若松英輔(2)【悲しみの秘義】
大学では国文学を専攻していた。と言っても、もう三十数年前のことだ。
宮澤賢治が好きな友人がいて、熱心に薦められたのだが、僕は決して読まなかった。高校時代から太宰治に傾倒していたので、賢治の世界は純粋すぎて(大学入学までに『銀河鉄道の夜』などは軽く読んでいた)、『人間失格』の太宰と比べると「子供だまし」だと思っていたのだ。
今になれば、太宰治の方が精神年齢は「子供」だと思うのだけれど、当時は僕自身が未熟だったから、真面目な賢治よりも破滅的な太宰をかっこいいと思ったのである。ほんと、恥ずかしい。
年を重ねるほどに宮澤賢治の「奥深さ」を感じる。そして、太宰治の「青臭さ」を感じる。今では、どちらの良さも分かる。
第一章はタイトルと同じ【悲しみの秘義】。やはり、ここは宮澤賢治でなければならないだろう。大いに納得する。
賢治の悲しみ、若松さんの悲しみ、僕の悲しみ。いずれも近しい人を亡くした「悲しみ」ではあるけれど、当たり前だが同じではない。あえて「当たり前だが」と書いたのは、「悲しみ」は共感あるいは共有できる、と思っている人がけっこういるからだ。「悲しみ」は人それぞれで、たとえ同じ人を亡くして悲しんでいても、みんな「悲しみ」は違う。
「同じ悲しみなど存在しない」という一文を読んで、若松英輔さんは理解されていると確信した。ほんとうの「悲しみ」を経験されている、この本は信じて良いのだ、とホッとした。
ここまでは僕と同じ視点である。しかし、若松さんは更に踏み込んで「悲しみ」を捉えていた。
「同じものがないから二つの悲しみは響き合い、共振するのではないか」という続きの文章を読んだ時に、共感でも共有でもなく「共振」なのか、と何度も頷いた。なんて、いたわりのある言葉なのだろうか。
「愛しき者がそばにいる。どうしてそれを消し去る必要があるだろう。」に救われる人は多いと思う。「仏壇や墓石と自分」みたいに、死と生には歴然とした壁があると思っていた。もちろん、壁を作ることで「悲しみ」を乗り越えようとすることも自然だと思う。けれど、そばにいる、もしくは見守ってくれている、と感じることって確かにあるのだ。でも、どこかで「そんなことはない」と消し去ろうとする自分がいる。何となく気恥ずかしいということもあるが、若松さんに「消し去る必要」なんてない、と言われると随分と気が楽になる。
今も、このエッセイを書きながら、両親の視線を感じている。
早いもので、相次いで二人を見送ってから三十年ほどの月日が流れた。いまだに「悲しみ」は癒えない。いまだに後悔していることがある。だから、いつまでも思い出してしまうのだ。
【悲しみの秘義】は宮澤賢治を中心に、若松さんの「悲しみ」に対する考え方が良く分かる、心にしっとり沁みる章である。
今晩は、ゆっくりと眠れそうだ。おやすみなさい。