『悲しみの秘儀』若松英輔(8)【勇気とは何か】
正直に言うと「勇気」が嫌いだ。
半世紀以上生きてきた道を振り返って、僕の人生に「勇気」は存在しない。「勇気を出せ」「勇気がないから駄目なんだ」みたいなことは、いたる所で言われてきた。「頑張る」は良い、のだけれど、「勇気」はどうしても拒否反応を示してしまう。
たぶん、戦うことが嫌いなのだ。勇ましい、とか、勇者もNG。
でも、競う、は大丈夫。
自分でも自分の思考回路が理解できない。
そんな僕だから【勇気とは何か】という章題を見て、これはしんどいな、と思いながら、読み始めた。
争いや武力、そして恐怖。予想通りの始まりだったが、『点滴ポール 生き抜くという旗印』と岩崎航について若松さんが語り始めると、勇気が争いや武力から一気に離れて行く。
僕は存知上げなかったのだが、岩崎さんは三歳で筋ジストロフィーを発症して以来、ベッドの上で毎日を送っている詩人である。彼にとって、争いや武力は無縁で、勇者などは別世界の存在だと思われる。ところが……。
ここにいる そこにもいる
目の前にいる普通の人こそ
知られざる
勇者であること
わたしは生きて知りました
マッチョで強い人、ではなくて、「目の前にいる普通の人こそ」という視点は、ベッドで日々を過ごす岩崎さんだからこその言葉だと僕は思い、ハッとした。単に怖がってるだけ、逃げているだけ、と自分を卑下していたけれど、僕だって生きて行く上で、勇者になっている瞬間があるのかもしれない、という気がしたのだ。
若松さんは勇気について考察を進める。「勇気と希望は、同じ人生の出来事を呼ぶ二つの異名である。内なる勇気を感じるとき人が、ほとんど同時に希望を見出すのはそのためだ。」と続くのだが、この部分を何度も読み返した。勇気と希望は別物であり、僕には勇気はないが、希望はあると思っていたから。岩崎さんの詩でハッとした僕は立ち止まってしまった、
果たして「内なる勇気」を感じないままに、希望だけを抱いている僕は何者なのだろうか? 勇者ではない僕は何者なのだろうか? 卑怯者、夢想者……だろうか。
何も「武器を持って戦う」のが勇者ではなくて、岩崎航さんのようにベッドの上で人生の大半を過ごしていても、真の勇者はいるのだと知った。では、僕は? その答えはまだ見つからない。