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新しい家族7

哲学者とは?

辻仁成のコラムを読んでみた。文章は上手いし説得力もあるのだけど、なんか???という感覚がある。僕は専門家ではないからという部分が哲学にあっていいのかな?という感じがある。ユヴァル・ノア・ハラリ(ホモサピエンスの作者)も同じことを書いてた感があるけれど、これは日本人のほとんどが思う「悟り」じゃね?と思ってしまう。「禅」を「マインドフルネス」といったり、日本のものを海外版として表現してっていうけど…なんか違う感じというかボタンの掛け違いというかを感じてしまう。そのみんなが感染して抗体をというのはほとんどの人がそう考えてたのであって…それをできない社会不安感というか逆にいうと安定感というか…世界恐慌が起こったぐらいの経済的ショックがあるのに、人はネットで動画やゲームしているというこの変な空気感を説明してくれるものが存在しないというか…そういうのを説明してくれる哲学者がいてもいいな~と思っている。

小さな世界

最初の人の世界って群れというか小さな世界から徐々に大きくなって国まできたけど世界戦争があってそういう境界線をなくそうとなっていった。グローバルは結局仮想の中で大きくなっていって、都市化が進み貧困差が増えてというのをいう人は多いけど世界がそんなに大きくない人はどういう世界なのか?というのは全然説明してくれない。僕らの時代(昭和生まれ)で平成の始めのころ20代の人はデジタルの人が多い。その前の人は手書きで文字を書き印刷して読み、レコードやビデオテープで映画を見ていた。ゲームはテレビにつなぐし、ほとんどの人はテレビで情報を得ていた。はっきりとした時代の線がある。僕らは運よくネットがつながり、意味もないチャットをしたり、ネットがつながる人が少ないのでインターネットカフェでネットを見たりしていた。なのでデジタル弱者といわれる人は少ないと思う。基本的にTwitterなどはやったことがなかったんだけど日記のように見れるのでその時何を思っていたのか?というのを残せるというので少し初めてみたけど普通に使えた。有名人ではないので誰かとつながったり、若い子のいうような稼ぎに使おうとは思わない。Youtuberとかをうらやましいとは思わない。正直ホリエモンの言ってる経済って「センスのある」人は稼げますということなのだろうけど…昔は正直表現する人がいなかったというだけで、金持ちっていうかお金持ちになった人が多いのは日本では昔の方が多いと思う。親が田舎で工場を始めて成功して子供(僕と同級生)が浪人して医者になったのを結構知ってるし、普通に貧困差って昔の方が大きかったというか…なので「お金がない」っていうのが本当に恥ずかしかった。今思うと社会的精神コントロールと思うけど、そのために借金なんか普通にするし高卒の社会人が見栄で何百万もする新車をローンで買っていた率なんて田舎では相当だと思う。給料はほとんどローンで消えリストラや給料カットで生活苦を味わった人も相当いたと思う。結局公表する人が増えただけで人の日記を見れるようになっただけのような気がする。

お笑い第7世代

なんか世代というけど…お笑いくらいわかりやすいカーストってない。ひな壇というのが増えて番組がクイズ番組と再現ドラマをみてワイプで映る。あとはマニアックな界を紹介する番組が増えてほとんどがお笑いがそういうものになって後は普通に漫才・コント・落語がちょこっとって感じで僕はほとんど見ない。若い世代が司会をする番組がないからでフリートークとかの番組や若手がするコントとかがあれば世界観がわかるし面白いけどガヤ芸人とかを見たいとかは思わない。都会なら劇場とかで見れるけど田舎なら結局ネットでネタをみたりするだけだと思う。なんか世界観が小さくなりながら新陳代謝がない…それがおもしろいのかな?それで第7世代なのかな?と思う昔漫画家がすごく稼げる仕事になって漫画雑誌が増えて漫画家が増えてって世界に似てる。その後はというと漫画は残ってるしアニメも増えてるけど稼げる世界?というと違う感じがする。ブラックという会社もあるし、映像制作とかお笑いとかもなくならないけど、新しい世界っていうのはない感じがする。マニアックな人は世界に入れるけど入れない消費できないひとは表面だけをなぜる。ラジオとか小説とかも一緒な感じがする。

テト(猫)と一緒に

テトを飼ってよくわかることは、人は飼いたいと思って飼うって難しいことだと思う。僕は猫を飼いたいと思ってなかった。相方(奥さん)の策略にはまっただけだった。けど世界がそこで変わるくらい気分が変わった。猫を飼うって田舎では普通で去勢とかなかったから普通に野良猫が増えて普通に昔の家に猫はいた。(犬もだけど)都会では飼う人はあまりいなくて、一軒家に住む人なんか少なかったしマンションとかは所有してもダメというマンションも多かった。なので動物にふれるのが少ない世界と動物に当たり前にふれる世界を子供の時に経験して何匹は飼った。テトは10年ぶりでこんな小さな世界(マンションの中)で猫と対面で生活というのは本当に窮屈でイライラも増えた。けど生活感はリアルになった。この謹慎は本当に潤いに変わった。テクノロジーやモラルや生活習慣やらは時代で変わるけど、それを少し変えるのって原始的なことなのかなとテトをなぜながら思った。


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