読書日記195 【雑文集】
村上春樹さんの作品。題名をみるとエッセイにもならない文章があつまっている作品のような感じがするけど、「村上春樹」のお手本のような文章がまとめられている。文章を書きたいという人への文章読本的な要素が満載になっている。
冒頭の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」は本当に村上春樹を表している最高の短文だと思っている。エッセイや小説などを読んでいて一番しっくりくる「村上春樹」文章だった。簡単に書いてしまえば「小説は作者の思いを書いてはいけない、最終的な決断は読者個人個人に任せてしまうことが重要だ」というところで、この部分を読むとすごくストンと頭にたまったもやもやが落ちてゆく。
冒頭に書かれる小説家とはという問いにいつも答える部分がでてくる。
小説家とは何か、と質問をされたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業(なりわい)とする人間です」と。
なんのことだろう?と読み進めていくと、文章を構成するのに作者の判断をかかないことというのが書かれてくる。多くの読者というか本を好んで読む人間におかれる「自己(自分)とは何か?」という答えをゆっくりと書いている。戦後は学生運動からはじまり、カルト宗教があり、今はサロンが横行している。「自分はなんのために生まれてきたの?」この思いが強い人間ほどそれを欲しがっていく。その強い欲は時として「利用する側」に猛烈に優位に働き、その人の自己までも破壊していく。
あるカルト教団に入った人が村上春樹に手紙を送ったことが書かれている。教団施設に閉じ込められ、いわゆる洗脳をうけている間にこっそりと村上春樹著の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んで洗脳をといたことが綴られていたらしい。僕も同じようなことを聞いたことがあった(作品は違うけど)村上春樹さんの自己肯定というか自分のことしか書かれていない文章を読むことで、自己って結局、その日に何を食べるか?とか休みに何の映画をみるか?とかに集約されていくということが肌で実感できるというか、無理矢理に高尚にする必要はないというか、が読んでいて実感できるときがある。
僕が高校生の時に父親が精神的におかしくなり、何故か僕を毛嫌いするようになって、学校を休んで祖母にあずけられたことがあった。山奥の民家もないような「ぽつんと一軒家」みたいな家に1ヶ月ほど預けられた。そのときに文庫の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が出版されたばかりで、買って読んだ記憶がある。ロッキーという名前の犬がいて、散歩を頼まれて、散歩をするのだけど山道を歩きながらゆっくりと文庫本を読んでいた。秋から冬になりかけていて少し寒い舗装されていない山道をトボトボと犬と歩きながらゆっくりと読破したのを覚えている。
その時の貴重な経験というか、自己ってという問いへの気持ちの持ち方みたいなものが今もすごく役立っている。世界の終わりに僕はきっと何もすることはできずに、ただただその終わりを待つしかないんだというのを凄く実感できたというか、それからこの小説が村上春樹作品の中でも一番すきな作品になっている。村上春樹は答えを書かないので、その世界の終わりは個々に任されているのだけど。
自己啓発とかのだぐいも結論からいうとそうなっていく、カリスマを愛してその人が食べるものや着るものを欲しがったり、その人がだす結論を信じてそれを高いお金を払って満足になっていく。能力主義の向かう先というか、今の人種差別や性別差別などを毛嫌いするのに、努力をしない人やちょっと失敗した人を意味嫌う。そちらの差別の方が今は強いような気がする。つまりは「僕は人と違うんだ」と肯定するしか「自己肯定」ってできないってことに気づかされる。人を差別して蔑むことでしか自己肯定が上手くできない世界線が拡がっていることに気づく。
この世界観のなかでどう自己を探すのか?難しい命題に冗談なのか村上春樹さんは「おいしい牡蠣フライの食べ方」を伝授してくれる。不思議なのだけどストンとそのモヤモヤが晴れていく気がする。不思議な文章なので読んでも面白いと思います。その他にもたくさんの色んな雑誌や本に書かれた文章が載っているので時間があるときにツマミ読みも面白いかもしれない。(まとまりのない終わり方ですいません)
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