「助け合いの精神」に潜む危険性
今回は、「助け合い」の話です。
助け合いに危険性なんてあるの?と感じる人が多いと思います。
少なくとも私は、危険だなんて思いもせず、助け合おうとすることが大切、と純粋に心から信じて生きてました。
助け合い、支えあいを大事にすることで良い関係を築けると考えていました。
実はこの助け合おうの精神が、人と上手に関わることの足枷になって
いたのでした。
悲しいことに、心に余裕がない、助けを必要としている人ほど、足枷となります。
この記事を最後まで読んでいただけたら、この記事のタイトルの意味を理解していただけることでしょう。
1 助け合おうとすることは苦しみを生む
この記事における大きな主張は本見出しのとおり、『助け合おうとすることは苦しみを生む。』です。
助け合いを成立させるための社会保障などのシステムが構築されることで、世の中が暮らしやすくなるのは間違いありません。
しかし、この記事で私が対象としているのは、相互扶助のシステムについてではなく、『助け合おうとすること』、『助けあうべきと考えること』についてです。
助け合おうとすることは苦しみを生む。
この主張にはもちろん理由があります
2 私も助けるからあなたも助けてね
端的にいうと、助け合いをしようとすると、裏切られたと感じる出来事がかならず起きるからです。
裏切りと聞くと大げさにも聞こえますが、今回はあえて裏切りという言葉を使っています。
なぜ裏切られたと感じるのか。
それは期待があるからです。
理想通り、期待する通りに物事が進まないときに、思い描く理想と現実のギャップに苦しむのです。
期待を一切していないのに、心がボロボロになるほど裏切られたと感じたこと、今までありましたか?
きっとないはずです。
助け合おうとすることは、
・助けたいという気持ち
・助けてほしいという相手への期待
の2つが実はセットになっているのです。
相手に助けてもらえなかった時に、期待通りにならず、裏切られたと感じます。
そして心に苦しみが生まれるのです。
助けることは自分の意思によってできますが、助け合いとなると、一方的ではなく、相互に助けることで成立します。
仮に先に助けてもらったなら、自分の意思で助け合いを成立させることができます。
しかし、先に自分が相手を助けた場合、同じように助けてもらえるとは限りません。
そうなると、助け合いがしたくても、助け合いができるかどうかは、相手の意思次第です。
そして、他人の意思をコントロールをすることが不可能である以上、裏切られたと感じる結果が起きることは当然なのです。
人間は弱い生き物で、自分自身の心をコントロールすることさえ難しいのですから、他人をコントロールするなんてできないことを知っておきましょう。
また、相手が助けてくれたとしても、期待したほどの助けが得られない場合があります。
その時、人は裏切りを感じることがあります。
私自身の経験を話します。
10年以上前になります。
知人が手術を受けるために入院をしたときに、私はお見舞いに行きました。
不安や心細さが和らいだら、という想いでした。
困った時はお互いさま、という考えでした。
1年ほど経ってから今度は私が内臓に炎症を起こして入院をしました。
しかし、知人がお見舞いに来てくれることはありませんでした。
何日にもわたる絶食、点滴生活で極度のストレスがかかっていたこともあり、
その知人にお見舞いに来てもらえなかったことに強い不満を持ちました。
私は裏切られたと感じました。
なぜなら、
『どうして自分はお見舞いしたのに、逆の立場になったらお見舞いしてくれないんだ。』
という、純粋な善意ではなく、お返しをしてもらえるはずだ、という期待がセットになっていたからです。
しかし、心に余裕ができてから思い返すと、知人がしてくれていたことはありました。
メッセージで様子を聞いてくれていました。
お見舞いに来なかった理由は本人にしかわかりません。
自分のことだけで精一杯なほど、落ち込んでいたのかもしれません。
ただ一つ分かることは、お見舞いとは違った形で気に掛けてくれていたことです。
実はココがこの話の重要なポイントです。
先ほどから『裏切られた』ではなく、『裏切られたと感じた』と表現していたことに気付いていましたか?
相手は助け、支えてくれていたとしても、期待が強すぎると裏切られたと感じてしまうのです。
期待の水準に届かないと不満を持つのが人の心です。
不思議と人間は、心に余裕がなくなっている時ほど、相手への期待の水準が高まるようにできています。
このことは忘れないようにしましょう。
3 助け合いの精神の否定から学ぶべきこと
期待をすると、期待通りの結果が得られなかったときに苦しくなる。
もっと言うと、相手が助けていてくれたとしても、こちらの期待の水準に届かないだけで苦しくなる。
この理由から、私は助け合いの精神には実は危険性が潜んでいるとして、この記事のタイトルとしました。
実は期待と裏切りの話は、助け合いの精神だけでなく、日常生活のあらゆる場面でみられます。
例えば、挨拶。
挨拶をしたら多くの人は当然、挨拶のお返しを期待するでしょう。
返されなかったら不満に思う。
挨拶の声が小さいという理由で不満を持つ人もいます。
知人に誕生日のプレゼントを贈ったのに、自分はもらえなかった、
これも同様です。
期待が裏切りを作り出すこと。
期待は自分自身が作り出すものであること。
このことを学びましょう。
4 私からの提案
助け合いの精神が危険だなんて、悲しい話だと思った人もいるでしょう。
そう思う人がたくさんいる世の中であってほしいです。
そこで、提案をさせていただきます。
助け合いの精神はやめましょう。
その代わりに、『助けたい』の精神を育みましょう。
純粋な『助けたい』という想いに、相手への期待は含まれません。
いつか助けてほしいから、助けるのではなく、
あなたが助けたいから、助けるのです。
その結果、もし相手もあなたを助けたいと思った時は結果的に助け合いが成立するでしょう。
期待がないのですから、してもらったことに純粋に感謝できます。
助けたいという純粋な思いやりを育むことが、あなたの精神的な豊かさに繋がることはいうまでもありません。
あなたが挨拶をしたいから、するのです。
あなたが贈り物をしたいから、するのです。
それがあなたの人生を豊かにします。
あなたが誰かに親切をして、親切を受けて心が温かくなった誰かは、また別の誰かに親切にするでしょう。
親切のバトンが世界中でつながれていったら、それ以上に素敵なことはないと私は思います。