大人になりたくない

大人になりたくない。

いや本当にマジで、今スーパーの床でじたばたすれば子どものままでいられるなら喜んでするくらい大人になりたくない。

話は変わるが、私は自分の誕生日が好きだ。みんな祝ってくれる。両親が美味しいものを食べに連れていってくれる。誕生日くらいなら、少し羽目を外しすぎてもいいような気がする。ケーキも食べられるし、誕生日は好きだ。

しかしそれと歳を重ねることは別の話である。20歳の誕生日を1ヵ月後に控えている今、私は"大人になること"に恐怖を覚えている。もし、私が大人になって、今の気持ちを笑いながら懐かしむことができる日が来るのなら、その時に読み返せるようにここに書き残しておきたい、と思った次第である。

大人になる、ということがどういうことなのか、まだ自認が子どもの私にはよくわからない。18歳を迎え成人したとはいえ、親に養ってもらっているし、バイトはしているがまだ社会人ではない。小さい頃から20歳=大人という謎の固定観念があったが、19歳でこの調子なら20歳になった時大人になれるわけがないのだ。

昔からずっと、幼稚園から見た小学生は輝いて見えても実際小学生になってみるとそうでもなくて、今度は中学生が輝いて見えて、高校生が輝いて見え、大学生が…とまで見事に学習せずに来たが、さすがにここまで来ると社会人が輝いて見えることはない。嘘、充実した顔つきをしている人を見かけると羨ましいなあという気持ちにはなる。がそれは大人がどうこうという話ではない。

もう周りの友達は20歳を迎えて、お酒を飲んだりタバコに手を出してみたり、それなりに大人を楽しんでいるように見える。私は大人になったことを実感するのが怖くて誕生日を迎えてもお酒は飲まないでおこうかな、とか考えているというのに。

これはもともと私が抱えている生きづらさに起因するところが大きいのだろうが、中学生の半ば頃から私はずっと死にたさを抱えながら生きている。病んでいるわけでも精神的な病を抱えているわけでもなく、ただひとつの思想として"死にたい""死は救済"と考えている。

↑こちらのnoteを読んでいただければわかりやすいだろう。

どんなに私のオタク趣味に激アツ展開が来ようとも、3ヶ月後に大事な現場が控えていようと常にやんわり死にたいことに変わりはない。大人になること、日々を過ごすことは、死にひとつ近づくことだ。そう考えたらまだマシか、と思い生きている。

とはいえ高校、大学で数ヶ月立ち上がれないレベルの挫折をして今のところ計2回自分の弱さと愚かさを噛み締めた私には、とてもではないが大人になって自立して、ひとりで生きていける気がしないのだ。

優しくて気にかけてくれる友達がいようが、両親が生きていようが死んでいようが、自分の人生は自分で決めて生きていかなければならず、ひとりで歩いていかなければならない。当たり前のことだ。だが大学生の今、己の生きづらさに行く手を阻まれ、当たり前のことすらままならない私にとって、"自分がいずれひとりで生きていかなければならない"ということがただただ恐ろしい。

私は弱い。心配してくれる人がそばに居ても肝心な時に頼れない。どころか差し伸べられた手を突っぱねてしまう。SOSを出すこともできない。ただ誰か救けてくれないかなとない希望に縋りながら待つことしかできない。そんな赤子よりめんどくさい私に20歳を迎えさせて神様はどうしようと言うのだ。まあ神なんていないんですけど。

本当の意味で心の底から子どもだった時はずっと自由になりたかった。だが自由には責任が伴う。私にはその責任を負い切れる気がしない。制約はあれどずっと優しい大人たちに守られていたあの頃の方がマシだ。人間はないものを強請ってばっかりの生き物だなとつくづく思う。醜い。

子どもから大人になるまで、きっと20歳になったところで私はあまり変わらない。きっと今は子どもから大人へのグラデーションの途中なのであろう。世間からの扱いは20歳になった瞬間がらっと変わるのだろうが、せめて自分の中ではまだ子どもでいたい。ずっと子どものままがいい。

20歳になるまでの1ヵ月、メモがてらその日の心境を日記にしようと思う。三日坊主の上位互換の私にできるかは別とする。

10月4日。20歳になるまであと30日。

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