北田佳子(2015)「なぜ、いま「協同的な学び」が必要とされているのか:「知識経済」の限界を乗り越える力を育むために」

 北田先生の研究では、「知識社会」や「知識経済」をキーワードから「協同的な学び」をめぐる動向を概観し、その可能性や課題が論じられている。

 「協同的な学び」と呼ばれている活動には、経済界のニーズときわめて親和性が高い要素を随所に見つけることができること、そして、多くの教師がそれを意図せずに行っていることを指摘している。

 その一つが、小グループの活動後に、グループの意見をまとめて発表させること。グループの意見をまとめて発表させるというの行為にゆえ、教師の「過程を大事にしたい」という願いとは裏腹に、児童が「成果物」にこだわるあまり、多様性の排除や理解の遅い子の学習機会の排除が容易に起こり得り、子どもたちを成果主義に走らせてしまう危険性をはらんでいるという。

 確かに、自分のグループ活動の実践を振り返ってみても、「発表」を意識するあまり、「話し合いの過程」への意識が最終的に薄れてしまいがちだった経験がある。これは、自分が「意見の多様性」への振り返りの時間を子どもたちに十分確保してあげられなかったところにも反省点はあるが…。

 また、活動時間の管理を行っているケースも取り上げられ、「時間対効果」という評価の枠組みに小グループの活動を押し込めてしまいかねない点を指摘している(この点も確かに…。でも、時間を設定することで子どもたちの集中力を保てるというよさもあるようにも感じるけれど…)。

 そして、ハーグリーブスの次のような言説を紹介している。

 知識経済は成長と繁栄を刺激する一方で、人々に利潤や私欲を無慈悲なまでに追求させるために社会秩序をねじ曲げ、断片化させてしまう。ゆえに学校は、他の公共機関とともに、知識経済がもたらす最も破壊的な影響を埋める力を養わなければならない。その力とは、すなわち、他者への思いやり、コミュニティ、そして地球市民としての自覚である。

ハーグリーブス・アンディ(2015)『知識社会の学校と教師:不安定な時代における教育』(木村優・篠原岳司・秋田喜代美監修)金子書房.

 
 これを引用し、「知識」がきわめて重要な役割を果たす21世紀の「知識社会」において、その「知識」を直接問う授業の中でこそ、「資質」を「知識」と切り離さない形で子どもたちのなかに養い育てていくことの必要性を述べている。
 
 そして、「知識経済」のげな気を乗り越える力を育む活動装置としての「協同的な学び」の可能性を事例とともに紹介している。

 北田先生の挙げている事例がとても素敵だった。そして、今回の論文で最も心に残ったのが次の指摘だった。

 「協同的な学び」が有効な活動装置として機能するためには、かならずその背後で教師が重要な役割をはたしているということを忘れてはならないだろう。

北田(2015)

 結局は、教師の在り方が問われている、ということだ。

 自分は小グループで活動を行う際に、その活動の「意味」と「価値」を子どもたちに伝えられているだろうか。子どもたちは、感じられているだろうか。感じられるような授業構成、振り返りの視点を示せているだろうか。成果物で評価をしないで、活動の中の子どもたちをきちんと見とれているだろうか。

 いろんな問いが頭の中でぐるぐると回っている。

 「自分の実践」を「振り返らざるを得ない」研究と出会えたこと。「仲間と共に学ぶからこそ、学べることがあること」を改めて感じられたこと。
 
 感謝したい。

 自由進度学習も大事だけれど、やっぱり、小グループで学んだり、一斉学習で学んだりする機会も大事だよなぁ。もう一度、小グループや一斉学習にの意義や価値も振り返ってみたいとも感じている。

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