首を吊った四季
何かを失わないと、書けない文章があると言うことを僕は19歳の夏が来る少し前に理解した。
冬に親友を自殺で亡くし、夏に愛おしくてたまらない女の子と縁を切った。あまり吸うこともなかった煙草もこの頃から確実に本数が増えていた。それでも失ったものは、何一つ戻ってくることはなかったし、これから先、失ってばかりの人生しか想像することができなかった。
僕の尊敬する何人かの小説家の中にはさも当然かのように村上春樹がトップバッターとして居座っている。彼は処女作の冒頭でこう書いた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
文章を書くという作業はあくまでも自己療養の範囲を超えることはない。と彼は言ったが本当にその通りだと思う。たとえ完璧ではなくとも、文章を書かなければどうにもならないときというのが、人生にはあるのだろう。
19歳になったすぐの冬、僕は親友を自殺で亡くした。しかしこれももう18年も前の話だ。この18年、日本から出ることのなかった私は72の季節を過ごし、21回海に行き、17個の雪だるまを作った。そのうちの一つは甥が作ったものである。となると、詳しくは16個だ。春と秋なんて、空を眺めると終わっている。そんな人生だ。そしてその間に数えきれないほどの女の子と寝て、その度に煙草を吸った。そんな僕にも忘れられない時間があった。なにもかもを失ってしまう前の、かけがえのない、そんな時間が。
僕の住んでる町は普通の田舎町だった。春になると、所々に桜が咲き、梅雨になるとそこら中からカエルの鳴き声が聞こえた。夏と冬は、これでもかと言うほど暑さと寒さが身を襲った。どこの街でも変わらないかもしれないが、秋なんてあってもなくても変わらない。そんな街に、僕は18年ぶりに帰ってきた。
ほとんど荷物が詰め込まれていないキャリーケースを引きずりながら、実家の近くの海を歩いていた。海だけは本当に綺麗な街だった。死んだ親友とよく煙草を吸いに来ていたのを思い出す。
「海のいいところなんて、向こう側に何もないことだけだろ。」
彼はひっきりなしに煙草を吸いながらよくこう呟いていた。
「そんなことはないだろ。海ほど人を忘れられる場所はない。」
そして僕は彼がこう言うたびに、こんな感じのことを言っていた気がする。
海から吹く風は、いつでも僕を遠くまで連れて行ってくれた。肌に触れ、髪を靡かせ、それでも何も言わない海の風が、僕はたまらなく好きだった。
彼が死ぬ前の最後の春に、自転車で神戸の海まで行ったことがある。少し肌寒い、春が終わりかけている頃だった。
「海が見たい。」
夜中の11時頃だったと思う。僕は彼に電話をかけた。
「じゃあいつもの場所に集合だな。」
「いや、違うんだ。いつもの海に飽きてしまったから、わざわざこうやって電話をかけているんだよ。わかるだろ。綺麗なものばかり見ていたら目が腐っちまう。たまには汚い海を見に行こう。」
「だからってこんな時間からどこにいくと言うんだよ。もう日が変わる時間だ。」
「とりあえず自転車を漕ごう。どこまでだって行ける。」
「わかったよ。お前は言い出したら聞かないもんな。」
「よし。12時に駅前に集合で。」
僕と彼の電話はいつもこんな感じだった。メッセージでやりとりすることはほとんどなく、用があればその度に電話をかけていた。あいにく僕も彼もサボりがちな大学以外は特に用もなかったし、どちらが電話を掛けても必ず出ていた。
駅に着くと彼はベンチに腰掛けながら、いつも通り煙草を吸っていた。彼の吸うハイライトメンソールの匂いが、僕はそこそこに苦手だった。
「やっと来たか。」
「いつものことだろ。」
「そうだな。行こう。」
彼は煙草の火を消して、自転車に跨った。心を許している相手に会うとき、いつも遅刻してしまう僕を、彼はあきらめるように許してくれていた。そんな彼はどこで買ったかもわからない帽子を被りながら、意気揚々とこちらを見て
「汚い海か。楽しみだな。」
そう言いながら自転車を漕ぎ出した。
僕もそれについて行くようにペダルに足をかけた。
春の暖かい風がまだ残っていた。少しだけ肌寒さも感じたが、自転車を漕ぐにはちょうどいい温度だった。通ったこともない道のりは僕の心をこれ以上なく踊らせてくれる。彼は僕の前を走りながら、僕の知らない音楽を聞いていた。たまにこちらを向きながら、いつものような笑顔を僕に見せていたが、この年の冬に死ぬやつが見せる笑顔ではなかったなと、今になってそう思う。しかし夜の涼しい時間に自転車を漕ぐというのは、どこか不思議な気分になるものだ。走り去っていく車は昼間とは比べものにならないくらい少なく、車道の真ん中をこれでもかと走らせてくれた。僕らは車道の真ん中を並走しながらいつまでも自転車を漕いでいた。道の両脇の建物は、ほとんど電気が消えていて世界には僕と彼しかいないような、それほどまでに静かで落ち着いている時間だった。月が傾き始める頃には僕と彼は必死に自転車を漕いでいた。日の出の時間が迫っていたのだ。僕と彼はもう3時間近くも自転車を漕いでいたし、僕も彼も体力の限界だった。ただ汚い海を見ながら、煙草を吸いたいという目標のためだけに必死でペダルを漕いでいた。結局、汚い海を見ながら煙草を吸うという夢は叶わなかったが海の近くの喫茶店でモーニングを食べることができた。サンドイッチとアイスコーヒー。そんな具合のモーニングだったと思う。そして僕らはまた自転車に跨り走り出した。
「結局、美味い飯が食えればなんでもいいのかもな。」
「そうだな。お前はそれに煙草があれば、満点の人生だろ。」
「そうかもな。でも時には女の子と寝ないと、どうしようもない夜だって男ならあるだろ?」
「じゃあ、女の子と寝たあとに煙草を吸って、次の朝にうまい飯が食えれば満点ってことか。」
「そうゆうことになるな。それだけで一生退屈することはなさそうだ。」
そう言っていた彼はその次の冬が終わりかけていた、ある晴れた日の夕焼けが沈む頃に、首を吊っていた。
朝食を食べて体力が回復した僕らは、くだらない話をしながら目的地を目指した。海沿いを走り、潮の匂いの混じった風を嗅いで太陽を眺めながら。
ようやく海に着いた頃には、朝そのものだった。名前も知らない鳥が鳴きながら空を舞い、その下を老夫婦が散歩していた。あの老夫婦にとってこの朝は日常なのかな、と考えると僕と親友との日常なんて、モノクロのようなものなのかもしれない。それでもあの朝に見た朝日は、今でも僕の脳裏にこびりついている。
「汚い海も悪くないな。不思議と綺麗な海のことを思い出すことができる。」
彼は煙草に火をつけてそういった。
「そうだろ。生きて行く上では、たまには汚いものも見ておかないとな。」
「だけどこれはあまりにも汚すぎるぞ。何をして、どうなったら、海がこんなに汚くなっちまうんだよ。仮にもあんな綺麗な海を俺たちは知っているのに。まるで20年開けていないウォーキングクローゼットの中みたいだ。」
「お前は20年も開けられたことがないウォーキングクローゼットを知っているのか。そしてその中を覗いたことがあるのか。」
「あるわけないだろ。そもそも我が家にウォーキングクローゼットなんて代物はない。」
「じゃあ海の汚さをウォーキングクローゼットで例えるのはやめとけ。もう少しマシな例えがあるはずだ。」
「この汚さはそこらへんのものじゃ例えられないな。あ、一つだけあるぞ。うちの灰皿を丸ごと海に入れたら、流石の海でもこんな色になりそうだ。」
「たしかにな。お前の家の汚さはなかなかのものだ。」
彼はこの春から一人暮らしを始めていた。実家から歩いて15分ほどの、大学の目の前にある小さな学生マンションに。大学もそれほど遠くないのになぜ一人暮らしなんてするのかと聞いたら
「大学帰りに女の子を連れ込む以外に理由なんているか?」
といっていた。相変わらずだな、と僕は思った。
今でも汚い海を見ると彼のことを思い出す。なんていったって故郷の海が、あの時の神戸の海のように汚くなっているのが嫌というほど彼のことを思い出させた。
帰り道の記憶なんてほとんどんない。
帰り際に見つけた銭湯で僕と彼は3時間近く眠ってしまったこと。
なぜか行きより元気な彼が、コンビニでへこたれていた僕にアイスを奢ってくれたこと。
行き道とは打って変わって、やけに晴れていたこと。 そして僕は、真っ赤な目と焼けた肌でアルバイトに直行したこと。僕が睡魔と戦いながらアルバイトをしているとき、彼は呑気に5時間も昼寝をしていた。
その日からも彼とは変わらず会い続けた。煙草の吸える喫茶店を探しに一日中歩き続けたり、海沿いでくだらない話をしながら、煙草を吸ったり。ほとんどは女の話だった。彼も僕も友人は少なく、友人関係で話すことなんて大してなかった気もする。だからって女の話しかしてなかったのかと言われると、そんなこともなかった気がするが、なんせくだらない話しかしてこなかったのだ。そうして僕らは唯一無二の親友になった。
親友の死というものは、あくまでも必然のように思えた。当時の私は、彼を追いかけるまではなくとも人生で一番死について考えていた。当然、72もの季節を過ごせば記憶は薄れていくし、去年食べた西瓜に塩を振ったかどうかも覚えていない。記憶というのは所詮そういうものなのだ。しかし、死から残された私ができるのは、その死を忘れぬようにすることぐらいであった。どれだけ生き恥を晒しても、どれだけ雑に女の子を抱いても、彼の死だけは僕の頭から離れることはなかった。残された者というのはあまりにも無惨に記憶に傷を負うのだ。そのことをわかって彼は死んでいったのだろうか。頭の悪い奴ではなかったし、どちらかと言えばきれる方でもあった。死というものをどのような重みで、価値観で捉えるかはもちろん人それぞれである。残された側の身にもなってみろ、と墓参りに行くたびに一人で嘆いている。だが今更、後悔してもどうしようもないことだ。たとえば、朝起きて寝しょんべんをしている。昨日寝る前トイレに行っておけば、と後悔したとしても、自分の小便で濡れた布団は変わらない。起きてしまったことはすでに起きている。ようはそうゆうことなんだ。
2
やけに深い眠りだった。海辺を歩いて疲れ切っていた僕は、実家に帰ってすぐ眠りについてしまった。やっとのことでベッドから立ち上がる。喉が渇いていたのだろう。三杯ほどの水を一気に喉の流し込む。久しぶりの実家の布団は寝心地が良かった。窓を開けると、朝というには少し無理があるくらいに、太陽は昇っていて、時刻はもう11時だった。もう一度ベッドに戻り、煙草を咥える。窓を開けると生ぬるい風が入ってきた。空は明るく、街ゆく人は皆、下を向きながら歩いている。
夢を見ていた。昔の夢だ。それも、とびきり悪い。一人の女の子と、ひとりぼっちの僕。そんな感じの夢だった気がする。
「もし、違う出会い方をしていたら、私たちどうなっていたと思う?」
「そうだな。うん、付き合ってたんじゃないかな。」
夕焼けが綺麗だった記憶がある。バス停でバスを待つ彼女はそう呟いた。僕は片手で自転車を支えながら彼女に返事をした。耳の形がとても綺麗な女の子だった。
「あなたのそういう、なんていうか、何も考えずに返事をするところ、嫌いじゃないわ。」
「それは良かった。」
「そういうところは嫌いだけどね。」
彼女はそう言いながら、月の形のイヤリングを揺らして微笑んでいた。
「しょうがないじゃないか。出会い方に間違いなんてない。あの子の紹介がなかったら僕らはそもそも出会ってなかったかもしれないだろ。」
「それもそうね。要するにタイミングってことでしょ。そんなのいくら話したってしょうがないわ。もうこの話をするのはやめましょ。」
彼女は同じ大学に通う看護学生だった。僕の高校の頃からの友人を通して出会い、いつしかこんな関係になっていた。
趣味も合い、好みも合い、同じタイミングで同じように惹かれていった。しかし一線を越えることはなかった。彼女と、僕と、僕らの友人は三人で仲良くなってしまった。そう。三人で。僕らが付き合うということは、同時に友人との関係を捨てることになる。と、その当時僕と彼女は考えてしまった。大学生らしいといえば大学生らしいかもしれない。こんな感じで僕と彼女はこのままの関係を続けることにした。
この時に付き合っていれば、と何度も考えたが、今となってはこれが正解だったのかもしれない。
「唯希」
それが生涯忘れることのない彼女の名前だった。
夢を思い出しているうちに、時刻は昼過ぎになっていた。小腹が空いたので冷蔵庫を漁ってみても、中に入っていたのは卵が3個とキャベツが半玉、そしていつ開けたのかわからない牛乳。腹を満たすにはあまりにも不十分だった。仕方がないので外に出て適当に何かを食べることにした。とはいってもすっかり変わってしまった故郷は、何もかも僕の知らないものに変わっていた。道路は舗装され、商店街はほとんどの店でシャッターが閉まり、僕の行っていた小学校は廃校となっていた。結局のところ、僕の街には海しかないのだ。あの時に訪れた、神戸の海のように汚くなった海しか。街を抜け、坂をくだり、僕は海を目指した。途中で最近できたらしいパン屋でカスクートとベーコンエピを買った。これがなかなかの味だった。カスクートは僕の嫌いな野菜が一つも入ってなく(特にきゅうり、そしてピーマン。唯希にはよく野菜嫌いを怒られていた)ハムと玉ねぎだけといった具合だった。ベーコンエピはモチモチのパン生地の中に大きなベーコンが入っていた。
海に着く頃にはすっかりパンは無くなっていた。そして海は、いつもどおり僕を受け入れてくれた。心地いい風と潮の匂い。そして汚い海が奏でる、独特の波の音で。
音と匂いというのは、思い出したくもないものを最も効率的に思い出させてくれるツールの一つだと思う。ここの波の音と潮と風の匂いは、昨日と同じように容赦無く僕を19歳の頃に連れ戻した。人には誰だって戻りたくない頃があるように僕自身、二度とあの頃には戻りたくなかった。ある意味では素晴らしい一年だったとしても。
思い出を風にのせて無理やり忘れようとしているうちに僕は眠ってしまった。昔からどこでも、いつでも眠ることができる僕はこの30年近く睡眠不足で困ったことはない。もちろん眠れない夜なんてものはいくつもあったが、そのうち海のように深い眠りが僕を襲った。
眠りから覚めるとすっかり夕方だった。石垣の上で眠った僕の体はすっかり固くなっていて、起きるだけでも一苦労だった。曇り空の中に光る夕焼けは不自然な光り方をしていて、海はそれに返事するかのように不自然に靡いていた。不意にビールが飲みたくなった僕は、昔よく彼と通ったバーを探すことにした。
街にはすっかり人気が無くなっていて、歩いている人は皆、スーツに身を包んで疲れ切った顔をしていた。雲の中にある夕焼けは相変わらず綺麗と言えるものではなかった。
「1日の終わりは夕焼けであるべきだ。夜の静けさなんていらない。」
親友はよくそんなことを言っていた。
「梅酒をロックで。」
彼はどこに行っても梅酒のロックしか頼まないやつだった。要するにひねくれているのだ。それも一杯目から潰れるまで。
バーは変わらず営業していた。街の外れ。川から少し離れたところ。そこが僕と彼がよく通ったバーだった。カウンターに座ると店主が
「ハイネケンでいいのかい?」
と尋ねてきた。
「ええ。」
僕は短く返事をして煙草に火をつけた。
店主は僕の前にハイネケンビールとサラミの盛り合わせを出した。
「僕のこと、覚えているんですか。」
「覚えているとも。梅酒のロックしか頼まない彼のこともね。」
店主は相変わらず優しい人だった。変わらないものもあるもんだな。と僕は彼の髭を眺めながらそう思った。十何年たっても変わらない彼の髭の長さと、十何年も経てば流石に変わってしまった内装。
「一人とは珍しいな。彼はどうした。」
「自殺しました。それも随分前に。」
「そうか、それは残念だな。」
「本当に随分前の話です。まだ海が綺麗だった頃の話ですから。」
「随分前という基準が君と僕で同じならいいんだけどね。このへんも変わっただろ。人も減ったし家も減った。何より君たちのような、毎晩バケツいっぱいの酒を飲む学生がいない。増えていくのは誰も使わないコインパーキングだけさ。」
「悲しい話ですね。野良犬が増えるのとは訳が違う。この年になると減るものとか、無くなっていくものしにしか目がいかない。」
「そうだな。これだけ生きてしまうと、この年から人生になにか加わるといったことは滅多にないからな。」
僕はグラスに注いだハイネケンビールを飲みながら煙草をふかした。テレビでは野球中継がやっていて8−2でドラゴンズが負けていた。
「君には秘密にしてくれと頼まれていたんだけど、彼はよく女の子をここに連れてきていたんだ。」
「え、あいつが、女を?」
「そんなに驚かなくてもいいだろ。彼も男さ。連れてくる女の子の一人や二人はいるだろ。」
「あいつにがこんなとこに女の子を連れてくるとは思えません。聞いたこともないです。」
「実際、来ていたんだから落ち着いて話を聞け。」
店主はどこか遠くを見ていた。
「とりあえすビールを一杯お願いします。」
そういうと店主は黙ってビールを注いでくれた。
「よく連れてくる女の子の一人に、彼は死にたいと思ってる、みたいな話をよくしていたんだ。生きるのに疲れたとか、ここは生き地獄だ。とかいってね。その女の子は、その話を否定することもなく、うんうんといった風に相槌を打ちながら、私も死にたい。といっていた。もちろん僕は一店主だからね。その話に首を突っ込むことはなかったが、店にくるたびに話の真剣度は増していったんだよ。死ぬ方法はどうする、とか、遺書の書き方だとか。要するに、あの時ちゃんと止めていれば、なんて思うのは君だけじゃないってことさ。」
「そうですか。」
僕は呆気にとられながらビールを飲むことしかできなかった。
「ちなみにその女の子は今もたまにこの店にくるんだ。この辺に住んでいるんじゃないかな。昔のようにこの店に通っていたらいつか会えるさ。」
「そんなこと言ったって僕は会ったことも話したこともないんですよ。もし会ったとして、一言目からあいつがなんで死んだかなんて、聞けるもんじゃないですよ。僕だってまだあいつが死んだ傷が癒えてるわけじゃないのに。彼と過ごした夏を思い出すだけで、ビール1杯分の涙が出そうになるんです。」
「君が思っているより、この街も、君の周りも、もちろん君自身も時間というものは進んでいるんだ。」
「そうはいっても、」
僕は口をつぐんでしまった。すっかりぬるくなったビールを口に含むしかなかった。
「店にくる彼女はいっさい彼の話をしたがらないんだ。だがまるで、彼を追いかけるかのようにこの店を訪れる。女という生き物の表情は、いつだって本音を雄弁に語る。素敵な女の子だとは思うけどね。素敵な女の子と寝るという行為は、いつまで経ってもいいものだよ。きっとね。」
「やめてくださいよ。僕が彼女と寝ることになっても、それはまるでろくなセックスじゃない。」
「それは寝てみるまでわからないだろ。」
「寝てみてからじゃないとわからないセックスなんて、それはそれでろくなものじゃないでしょ。」
「それもそうだな。とにかく君がこの街に帰ってきたということは、いろんなことを思い出さなければならない歳がやってきたんだ。いつまでたっても彼と過ごした美しい季節を思い出して、煙草を吸ってる年齢じゃないだろ。君も僕と同じように歳を重ねてしまったということだよ。」
「そうですね。いつまでたっても逃げてばかりじゃ、あいつに笑われます。」
「きっと今も大笑いしているさ。自分のことで苦しんでいる君をみながらね。」
店主は少し鼻に触る笑い方しながら他の客のお酒を注いでいた。本当に笑っているのか。お前は。もし本当に笑っているなら、それはそれでいい気もする。いつだってお前のことで苦しんでいる僕なんて放っておいて、梅酒でも飲みながら、煙草を吸って、両腕にお世辞にも可愛いとは言えない女の子をおいて。
彼の死と向き合ってこなかったつけだろう。またこんな小さな街から僕の人生は再出発するのだろう。
「ビールを瓶のままもらえますか?海が見たい。」
「ああ、もちろんだ。間違っても飛び込むなよ。いくら君でもまだ泳ぐのに適した水温とは言えないからな。」
「わかりました。ありがとう。」
「サラミは奢りだ。久しく君に会えて嬉しかったよ。」
「また来ます。その女の子にも会わないといけないしね。」
「待ってるよ。」
僕はビール二杯と、持って帰る瓶ビールの会計だけして店を出た。いつの間にかドラゴンズは同点に追いついていた。
店を出るとすっかり夜の匂いがした。瓶のビールはキンキンに冷えていて、僕はまた海を目指して歩き出す。バーに入った時間とは変わって、人気はすっかりとなくなり、街の光も点々となっていた。風は心地よく肌を撫でる。静かな街が僕の心を躍らせる。住宅街を抜け坂を下ると海が見えてきた。だけど何故か、その坂を降りきって、海に行こうという気にはなれなかった。ビールはまだまだ残っているし、家で嗜むにしては持て余す量だった。それでも僕は海にいけなかった。何故かは分からないがこうなってしまっては家に帰るしかない。持て余したビールと、何故か海にいけなかったやりきれない気持ちを抱えながら、僕は帰路についた。
久しぶりに聞くベルの音で目が覚める。
実家のベルなんて聞くのは何年ぶりだうか。ベッドから立ち上がって、重い腰をあげた。本を読んでいる途中で眠ってしまったためか、体の至る所が痛かった。僕が必死な思いで玄関まで向かってる中でも、ベルはひっきりなしになり続けた。まったく、こんな時間に僕の家に来るやつなんて誰がいるというんだ。ぶつぶつ文句を言いながら玄関の扉を開けると、見たこともない女が立っていた。そうか。今日は女の見た目をした妖怪か、と寝ぼけながら突っ立ていると、女は剣幕な様子で
「いま何時だと思っているの。知らない家のベルを何度も押す私の気持ちにもなってくれないかしら。とにかく早く支度をしてちょうだい。それか私を家にあげて。暑くて倒れそうだわ。これじゃまるで夏みたい。」
今すぐ支度をするのは厳しかったので、とりあえず彼女を家にあげた。昨日の夜にシャワーも浴びていない僕は、この夏のような暑さのおかげで体が鬱陶しいほどベタついていた。
見ず知らずの女を家にあげるのはこれで二度目だった。
靴を脱ぐ彼女に僕は声をかける。
「とりあえず名乗ってくれないかな。のんびりシャワーも浴びれない。」
彼女の体は痩せてるまではいかなくとも、少しほっそりとしていた。
「女の名前なんて聞かなくてもシャワーくらい浴びれるでしょ。今まで寝た女の子にちゃんと名前を聞いていた?」
そうは言われても家のシャワーを浴びるのと、ホテルのシャワーを浴びるのとは訳が違う。と言い返そうとしたが、寝起きが悪く、ひどく生気がない僕はそんな元気もなかった。その上、今まで寝てきた女の子、全員に名前を聞いたかと言われたら、もちろんそんなことはなかった。よくよく考えてみると、名前を知らない女と寝ることはできるのに、シャワーを浴びにいけないというのはおかしな話だなと自分でも思った。
「そうだな。とりあえずシャワーを浴びてくるから、その辺で適当にくつろいでいてくれ。」
ひとつわかったことは、この女は男と寝る前には必ずシャワーを浴びる。それだけだった。名前もわからないのに。
「わかったわ。」
名前のわからない女はそういって僕より先に居間に上がっていった。ふくらはぎの形がとても綺麗だった。
結局、のんびりシャワーを浴びることはできず、足早に体と頭を洗って体をふいた。髭が少し伸びていた。剃るにはまだ早い、ちょうどそれくらいの長さだ。居間に戻ると女はどこからか引っ張ってきた本をパラパラとめくっていた。読んでいるというわけではなさそうな感じだった。
「シャワーも浴び終わったし、名前くらい教えてくれてもいいんじゃないか。名前くらい聞いておかないと、前にも後ろにも、もちろん横にだってすすめない。」
「じゃあ斜めには進めるのね。」
嫌な女だ。
「とにかく早く服を着てくれないかしら。なぜ男って生き物は体が濡れたままシャワーから出てこれるのかしら。いつまでたっても不思議だわ。」
僕は女に言われるがままに体をふいて、服を着る。
「これで満足かい。シャワーも浴びて体も拭いた。服まで着たらなにも言われることはないだろ。」
「及第点だわ。早く出ましょ。」
「こんな時間からどこに行くっていうんだよ。まだ真っ昼間にもなってやしない。」
「わかるでしょ。あのバーよ。」
そのセリフを聞いてようやく僕はこの女が誰かわかった気がした。とはいってもこの女の話を聞いてから、まだ丸一日も経ってはいない。僕みたいにのんびりとしか生きてこなかった人間からしたら話の展開があまりにも急すぎる。まるで生き急いでいる人みたいじゃないかと僕は思った。
「それにしてもどうやって僕の家までたどりついたと言うんだい。そんなストーカーみたくことをできる人間にはまるで見えないけど。」
「あなた私のことをどう思っているの。こんな小さな街で人一人の家を見つけるくらい、海で丸っこい石を見つけるより簡単だわ。警察犬の出番だってこの街ではまるっきりないでしょうね。」
「確かに警察犬の出番なんて全くないほど小さな街だけれど、それでも他人の家を見つけるのは海で丸っこい石を見つけるより難しいだろ。海には案外丸っこい石が落ちているからね。」
「ほんとに彼と似ているわね。あなた。」
その彼が誰なのかは僕にもすぐわかったが、今その話をするべきではないだろうと思った。
バーに着くと昼の割にはかなりの客がいた。僕と彼女は端っこのカウンター席に座り僕はビールを、彼女はウイスキーを頼んだ。昼からビールを飲む男もあまりまともとは言えないが、昼からウイスキーを飲む女も、まともとは言えない。それもダブルで。
席に着くなり彼女は店主に
「ありがとう。この男、シャワーも浴びずに寝ていたわ。おかげで何度ベルを鳴らしたことか。」
彼女の声は周りの客にかき消されることもなくしっかりと店主に届いていた。
「そんなに悪く言わないでやってくれ。寝起きが悪いのは昔からのことだ。そうだろ?」
店主は笑いながら煙草に火をつけて僕に尋ねてきた。
「まったく。僕の家を彼女に話したのはあなたなんですね。おかげで最悪の目覚ましを食らいましたよ。家のベルで目覚めるなんて二度とごめんだ。」
僕と店主が話している間に彼女のダブルのウイスキーは半分近くなくなっていた。これはとんでもない一日になるかもしれない。ウイスキーを飲んで落ち着いたのか、僕の家に来たときのような剣幕さはなくなっていた。
「なにから話すべきなのかしら。私の話からするべきなのか。それともあなたの話を先に聞くべきなのか。」
「どちらでも構わないさ。どのみち全てを話すことになるだろ。」
「そうね。とにかく私の話からさせてもらうわ。」
そういって彼女は煙草に火をつけた。
「ちょっと待ってくれ。そのジッポライターは誰のものだ。」
彼女の使っているジッポライターは間違いなく僕の親友がかつて使っているものだった。
「そのことも含めて私の話をするから聞いてちょうだい。あなたの話を先に聞くとなると、私は店主にマッチをもらう羽目になっていたから」
そういって彼女は語り始めた。僕の親友との全てを。
「そうね、なにから話せばいいのかしら。彼と始めて会ったのは大学一年生の夏休みが終わった頃だったわ。今日みたいな暑さの日だった。彼は髪の毛を何故か銀色に染めていて、教室ではかなり浮いていた。そんな中で私に喋りかけてきたのよ。最初は本当に怖かったわ。詳しくはあまり覚えてないけど、大学の課題のことで質問してきたはずよ。そこから授業が被ったりして、だんだんと仲良くなったわ。最初は日常会話を普通にしていたくらいだったけど、しばらくしてから彼が自殺したいと思っていることを知ったの。最初はもちろん驚いたわ。少し変わっている人だとは思ったけど、まさか自殺なんて単語が出てくるなんて。だけど私は普通の人よりかは驚くことはなかったわ。高校生の頃、自殺未遂をしているもの。色々あって私は死ぬことはなかったけれど、彼はその時にはすでに覚悟を決めていた気がしたわ。ちょうど彼が沖縄に旅行に行っている頃だったと思うわ。あなたも一緒にいっていたんじゃないの。
」
「ああ。いっていたさ。」
僕はなにも言えなかった。突っ込むところがないと言えばそこまでだが、僕の口から何か挟むと言うことはできなかった。彼女は二杯目のウイスキーを一口飲んで話を続けた。
「その旅行の時に彼は急に私に電話をかけてきたのよ。今が幸せだから、今のうちに死にたいって。私からしたら急な話ではなかったけど、それなりに驚いたわ。覚悟を決めていた彼のことだからいつか言い出すとは思っていたけれど、まさか沖縄の旅行中に決意するとは思わなかったわ。そんなに楽しかったの?その旅行は。」
僕は彼女に言われて久しぶりに沖縄に旅行に行ったことを思い出した。
「そうだな。10月の半ばに行ったにしては、あまりにも夏を感じることのできる旅だった。高校の頃の部活の先輩が向こうの離島でライフサーバーをしていてね。こっちはまだ夏だぜ。そんな風に僕らを誘ってくれたんだ。夏休みにアルバイトしかしていなかった僕らは、すぐに行くことにしたよ。大学は暑さを言い訳にほとんど行っていなかったし、いつでも飛行機に乗り込むことができたんだけど、流石に三人は寂しいような気がして、まだ高校に通っていた後輩と、地元に残っていたひとつ上の先輩を誘ったんだ。彼らは学校も仕事もあったけれど、二つ返事でオッケーしてくれたさ。そこからはすぐだった。安い飛行機を探して、旅の準備をして、行くことが決まった一週間後には、透き通るような海で魚と一緒に泳いでいたよ。本当に素晴らしい旅だった。海で泳いでは、バーベキューをして、夜通し酒を浴びるように飲んで、天気の良い日は朝日を見に行った。寝ることが何よりも好きな僕でも、睡眠なんて二の次で遊び続けた。」
彼女はどうやら真剣に話を聞いているようだった。
「二日目の夜中だったかな。相変わらず酒を飲んで、僕と親友以外は潰れてしまったから、少し外に散歩にでたんだ。歩けばすぐそこは海だったからね。そこだけは少し、このあたりに似ていたかな。海の綺麗さは流石に向こうのほうが上だったけどね。なんとなく海まで歩いて、上を見ていると、空一面に数え切れないほどの星が浮かんでいたんだ。本当に綺麗だった。満点の星空とはまさにこのことなんだとわかったよ。この辺から見える星なんて、あの星空からしたらおまけみたいなものだよ。そして僕らはなにも言わずに、ずっと星を眺めていたんだ。明け方の星空が一番綺麗らしいぜ、なんて彼が言うものだから。だけど明け方なんてすぐにきてしまった。綺麗な星空というものはまったく飽きないんだ。一言か二言、彼と言葉を交わしたけど、これっぽちも覚えていない。太陽が昇ってきたら僕らは黙ってコテージまで戻って、泥のように眠ったよ。起きてからもまた同じように遊んで、三日か四日ほどでうちに帰ったよ。そんな旅だった。」
彼女は話を聞いているのか、聞いていないのか、どちらとも言えない顔で、三杯目のウイスキーを頼んでいた。僕は話疲れて、煙草を一気に三口ほど吸った。
「そう、良い旅に行っていたのね。彼が私に電話をかけてきたのは、多分星を見に行った次の日の夜よ。やけに元気な声で。最高の旅行だって言ってね。そしてまるで息をするように、自殺をすることにしたって私に言ってきたわ。とにかく帰ってきたら話を聞くと言って、その時は電話を切ったわ。帰ってきて久しぶりに会う彼の顔は本当にスッキリしていたわ。その顔を見て私はすぐわかった。死ぬことを決めた人間の顔をしていたもの。もう止めることはできないって。もちろん彼が死ぬことを受け入れたわけではないけれど、もうなにもできないところまでいってしまっていたのよ。彼は。そこから一ヶ月後くらいにあなたたちにもこの話をしたっていっていたわ。あなたは今ここにいるけど、彼の話に出てきた他のお友達さんはどこにいるの。」
「僕もしばらく連絡をとっていないんだ。葬式で会ったのが最後じゃないかな。僕は彼が死んでから遠くに行ってしまったし、彼らは東京の大学に通っていたからね。向こうで就職でもしたんじゃないかな。あの時の僕らは紛れもない親友だったよ。高校の頃からなにがあっても四人で一緒にいたし、彼が死ぬことを伝えてきたのも僕ら四人、一緒にだった。電話ではあったけどね。とにかく彼らが今どこでなにをしているかは僕もまったく知らないんだ。すまないけど。」
「なんとかして連絡を取ってちょうだい。彼らに絶対渡さないといけないものがあるのよ。本当はお葬式が終わってすぐ渡そうと思っていたんだけど、あなたはすぐどこかに行ってしまったし、もちろん東京のお友達の連絡先なんて知らないし。とにかくこれを渡しておくわ。」
そう言って彼女がカバンから取り出したのは小さな茶封筒に入った手紙だった。封を開けて字体を見るとすぐに誰が書いたものかわかった。だけど手紙を読む前に彼女に聞いておくべきことがあった。
「君がなぜこれを持っているんだ。遺書にしたって、ジッポライターにしたって。あいつが全てを君に託した理由をちゃんと聞いてからじゃないと、この手紙は読めない。」
「そんなに深い理由はないのよ。本当に。ただ彼と同じ苦しみを私が持っていただけのことよ。あなたを含めた彼の友達たちは、彼の本当の苦しみを理解していた?もちろん私だって完全に理解していたわけではなかったけれど、少なくともあなたたちよりは、彼が生きにくく感じているこの世界というものが分かったわ。別にあなたたちを責めているわけじゃないのよ。」
彼女のいうことは全くもってその通りだった。死んだ彼が普通じゃなかったとは思わないが、僕らは彼の考えも聞かずにただひたすらに、彼が死に向かうことを止めようとしていただけだった。彼女はまた話を続けた。
「彼とは本当にいろんな話をしたわ。もちろん普通の話も含めてね。彼と一緒に死んでしまおうかと思ったこともあったかもね。でも私は育ててもらった両親に迷惑だけはかけたくなかったから、それが歯止めになったの。でも最後まで彼は、なぜ自殺を決意したのかは教えてくれなかったわ。何故、生きにくいと感じるようになってしまったのか。どうして死ななければならなかったのか。一つ心当たりがあるとすれば、一度だけ家族の話を聞いてみたことがあったの。すると彼は嫌そうに「家族の話はしたくないんだ。」と言っていたわ。だから家族の問題は大きかったのかもね。だからこれといって大きな理由があって彼は私に全てを預けたわけじゃないのよ。あなたたちより少しだけ、ほんの少し、彼と考え方が似ていて、死ぬことについて受け入れていただけだったの。」
そう話す彼女はとても落ち着いていた。まるで水平線を眺めるような目つきをしながら。
「ちなみに彼が死ぬ前、最後に会おうとしていた人間は私だったのよ。結果的にはあなたになってしまったようだけど。」
「そうなのか。」
2月21日。天気は晴れ。
彼のあの時の顔は忘れもしない。たしか渡しそびれていた誕生日プレゼントを届けに行ったのだ。いつも汚い彼の部屋は心ばかりか綺麗になっていて、彼の表情はみたこともないほど落ち着いていた。ベランダの灰皿だけは相変わらす煙草の山ができていたが、それ以外はどこかいつもと違った。しかし彼はいつも通りを装っていた。
「なにか飲むか。」
「なにかあるのか。」
「つまらん飲み物ならいくらでもあるぞ。あ、良いものがある。この前もらったゆずの酒だ。」
「いいね。一杯だけもらおう。なんせバイクできているからな。」
沈黙。
この日死ぬことを決めていたからか、彼はあまり喋らなかった。
「そうだ。俺はこれを渡しにきたんだ。」
そう言って僕は財布から青春18きっぷを出した。
「死に損ねたらこれで旅にでも出ろよ。」
彼がまだ少しは生きてくれると思っていた僕は呑気にそんなセリフを吐いた。
「そうするよ。」
彼は静かにそう言った。
「煙草でも吸おう。」
「そうだな。」
ベランダに出て僕らは煙草を吸った。
「冬に吸う煙草はやっぱり美味しいな。」
彼はいつにも増して笑顔でそう言った。
「お前、いつの季節もそんなことを言ってるぞ。」
「そうだっけな。じゃあそういうことだ。」
この日の冬空はとても澄んでいた。吐く息をこれでもかと白くして、冬の寒さを露骨にアピールしていた。
煙草を吸い終わると僕はそのまま家を出た。玄関を出るとき、台所にロープがあった気がする。そして珍しく、彼は僕を玄関先まで見送りに来た。それが僕と彼の最後だった。そして玄関先から覗く顔を僕は一生忘れることはできない。
そういう人生なんだ、とそう思う。
「ねえ、彼、死ぬのが正解だったと思う?」
また難しい話が始まってしまった。そう思ってため息をつこうとしている僕を置いて彼女は話を続ける。
「自殺をする多くの人が考えているのと同じように、彼にとって死は”救い”だったのよ。もちろんそれで周りの人間。私やあなたのようなね。その人たちが救われるわけじゃないのくらい彼は分かっていたと思うわ。彼、別に頭が悪かったわけではなかったでしょ。たまに空気が読めないことはあったかもしれないけど。どちらにせよ、彼が死ぬことで救われる人間なんて彼しかいない。それでも、彼が死ぬのが正解だったと思う?」
気がつけば店は静かになっていて、店主は暇そうにテレビを見ていた。ドラゴンズは相変わらず負けていた。
「あまり頭を使いたくないんだ。起きてからしたことといえば、シャワーを浴びて服を着て、ここにきた。それだけなんだ。どうだい。これで今の僕に投げかけるべき質問じゃないことは分かっただろ?」
「まったく。めんどくさい人ね。答えないといけないのは自分でも分かってるくせに。答えだって、もう何年も前に出ているはずよ。」
嫌な女だ。本当に。
「ああ。うんざりするほど考えたよ。だけど答えなんていつまで経っても出てきやしない。君はどうか知らないけど、僕自身かなりあの頃は傷ついていたし、僕の周りの彼を知っている人間だって、あっけらかんとしてる人は誰一人としていなかった。だからって彼が死んだことに関して、不正解だと考えたことはなかったし、そこに関して成否を求めるつもりはない。」
「そう。まああなたならそう答えると思っていたわ。物事に関して、正解不正解を決めつける人間ではないって。彼から聞いていたもの。」
「そこに関してはの話だけどね。彼との関わりの中で、やはりどこかで不正解な方を選んでしまったから、こうなったんじゃないかとは何度も考えたよ。店主、梅酒をください。ロックで。」
店主は僕の前に静かにグラスを置いた。どこか懐かしさを感じさせるグラスだった。
「たとえば、彼と最後に会った日。彼が静かに閉めるドアを無理やりにでも開けて止めていたら。見て見ぬ振りをしたロープに、少しでも触れて彼と話していたら。僕からしたら、そんな瞬間は何度だってある。だけどそんなことを考えたって、酷な言い方にはなるけど、所詮彼は死んでしまった人間だし、今更なにを言ってもしょうがない。彼が死んだところで、桜は散るし、花は枯れる。おまけに雪だって降るし、今日みたいなひどい暑さの日もある。起こってしまったことはすでに起こっている。そういうことなんだ。」
「じゃあ、私も一つ、酷な言い方をさせてもらうわ。あなた、いつまで経っても彼の死から逃げているでしょ。会って間もない私にも分かるわ。起こってしまったことはすでに起こっているって、そんなの誰しもそうだわ。彼の死に向き合うのが怖いんでしょ?」
僕は肩をすぼめる。それを見て彼女は「まったく、」と言った感じでこちらを見ている。少し酒が回っているのだろうか。あまり目が合わない。
「たしかに、僕はずっと彼の死から逃げているかもしれない。いや、逃げている。それは自分でも分かっているんだ。どこでなにをしたって彼を忘れることはできない。一人で生きていこうと決めったって結局はこの街に帰ってきてしまう。そういう人間なんだ。僕は。良くも悪くも周りの人間を受け入れ過ぎてしまうんだよ。今だって君があいつのことを彼なんて呼ぶから、その言い方が移っている。ところで君、それ何杯目?」
途中までは気にしていなかったが、彼女はかなりのペースで飲んでいる。
「彼女、何杯目ですか?」
僕は店主に尋ねた。
「ちょうど十杯目だよ。メーカーズマーク、ダブルのね。」
「まったく、」
この時の僕はさっきの彼女と同じような顔をしていただろう。
「ねえ、あなたって枕がいつもと違っても眠ることはできる?」
「眠ることはできるさ。寝相はいつもより悪くなるかもしれないけどね。」
・いざ文章を書こうと思ったら難しいので浮かんだことを書きます。
まず4年間ありがとう。楽しかった。ひたすらに楽しかった。最初はお前が怖かったし仲良くなれるかなんてわからなかったが一番話せて一番世話になった。本当に感謝している。高校の頃から一番ガキのようにはしゃいでいたお前だけど同期四人の中で一番大人でしっかり考えられるべきことを考えているにはお前だったんじゃないかな。けどやっぱり、というかお前は俺の次にメンタルが崩れやすいんじゃないかな。地元に一人にしてすまない。色々と迷惑をかける。春過ぎ、俺がどうしようもなかった時、本当に助かった。けど死ぬって決めてちゃんと幸せやって思えて死ぬ。後悔していることも特に思い当たらない。本当にいい人生だった。
これからお前の人生をむちゃくちゃにすると思う。めちゃくちゃにした奴が言うことじゃないけど、幸せに死んで欲しい。したいこともして、したくないこともそれなりにして、色々して「あー楽しかった」って思ってくれると嬉しい。
個人的な憧れについて少しだけ書こうと思う。同期三人の結婚式に出たいっていつか言っていたと思う。その中でもお前の結婚式に一番出たかった。お前がべた惚れした奥さんと一緒に並んで笑ってる顔見るのが夢やった。別に結婚なんてしてもしなくてもいいけど結婚したらまた教えにきてくれ。
最後に。今まで本当にありがとう。お前と出会えて最高に幸せやった。幸せに生きて、死んでいってくれ。大親友への願いです。
名前の知らない女はまだ眠ってる。少しの寝息を立てながら。本当に小さい、死んでしまってもわからないような寝息だ。
僕はそんな彼女の横で、2回、3回と彼の書いた遺書を読み直す。何回読んだって同じような量の涙が途切れることなく出続けた。最後に泣いた記憶なんて、脳みその奥底に眠っていて、泣き方すら忘れてしまっったんじゃないかと思うほど、泣いていなかったのに。
結局女はすっかり日が沈んだ頃に目を覚ました。
「私、どのくらい眠っていた?」
おそらく昼間のことはあまり覚えてないだろう。彼女は霞んだ目を擦りながら、遠くの方を向いて僕に尋ねた。
「そうだな。水を五杯ほど飲んで窓を開けて煙草を吸って、本棚を漁り適当な本を手に取ってもう一度煙草を吸った。そこから2時間だから、3時間ほどじゃないかな。すごく静かに眠るから少し心配はしたけどね。」
「私そんなに眠っていたの。そうね、帰り道はまだ明るかったのを覚えているもの。ねえ、お腹が空いたわ。」
「今日初めて会った人間の家の冷蔵庫を開けてまで、僕に何かを作れって言うのかい。」
とは言いながらも僕は冷蔵庫を探し始めていた。僕も何かと腹が減っていたのだ。
「それなりのものはあるはずよ。人二人がお腹を満たすぐらいのものはね。」
言われるがままに冷蔵庫を開けてみるとたしかにそれなりのものがあった。他人の家の冷蔵庫を覗くという行為はいささか違和感を覚えるがそんなこと気にならないくらいに食材は潤っていた。おまけになにに使うのかもわからない調味料が山ほどあった。
これだけのものがあると逆になにを作ればいいか分からなくなってしまう。手軽にパスタを作るべきなのかちょっと趣向を凝らせてアヒージョでも作るべきなのか。選択肢というものはいつも人間という生き物の人生をにぶれらせる。
「君は冷蔵庫になにが入っているか分かっているんだろ。なにを作ればいいか指示してくれ。僕は典型的な指示待ち人間なんだ。」
「なにを作ればいいか指示するのはもちろん構わないわ。ここは一応私の家だし。冷蔵庫の中身だって私のものだもの。でもあなた。今自分のことをかなり過小評価していることに気づいてる?」
女はそう言いながら一歩もベッドから立ち上がろうとしない。
「そんなことどうだっていいんだ。実際僕はそういう人間だし指示を待つことだって別に悪いことじゃない。それにどこにだって一定数そういう人間はいるだろ。」
「まあいいわ。あなたがどんな人間かなんて私には所詮、関係のないことだもの。そうそう。なにが食べたいか指示しないといけなかったのね。」
女は肘を突きながら顎に手を置いていかにも考える格好をし始めた。
「ナポリタンが食べたいわ。少しべたっとしていてソーセージやベーコンなんかがゴロゴロしている。これでいいかしら。指示待ち人間さん。」
「ああ、構わないよ。ナポリタンだね。少しだけ待っていてくれ。すぐに作るよ。」
僕はすっかり初めて入る女の家で料理を作ることに違和感を覚えなくなっていた。それでもやはり、いつもと違うキッチンでいつもと違う包丁を握ることには少し、なにかが違う気がした。僕は冷蔵庫から玉ねぎとソーセージを出した。野菜室を開けてみると手頃なピーマンがいくつかあったがパスタには入れないことにした。女に何か言われるかもしれないが作っているのは僕だし、文句は言われないはすだ。
まずは玉ねぎを細かく刻んでいく。玉ねぎは現存する野菜の中でも群を抜いて美味である。と個人的には思っている。刻み終わった玉ねぎを熱したフライパンに入れて塩をふる。玉ねぎはフライパンに入れてすぐに塩を振ると水分が出て美味しくなる、と祖母が言っていた。そして時々フライパンの中を確認しながら、少し厚めにソーセージ切っていく。このタイミングでパスタを茹で始めるとちょうどいいタイミングでパスタが茹で終わるのだ。大きな鍋に大量の水を入れ、塩を入れる。そしてパスタを入れる。
料理というのは芸術と少しだけ似ている。幾つもの工程を経てまれに同じような作業をしながら完成に近づけていく。同じ作品でも作る人によってまったく別のものに変化し、それぞれの良い点と悪い点を含めて完成形となる。しかし圧倒的に違うのは腹の足しになるかならないかというところだった。その一点はとても大きく料理と芸術というものを、わかりやすく違うものに区別している。だがしかし、僕の作るナポリタンはやはり芸術とは程遠い場所にあるような気がしてならなかった。
パスタを茹で終わると水を切って、具材と合わせる。少しだけ茹で汁を残して炒めていくとちょうどいい具合に水気がなくなっていく。そしてケチャップ、ウスターソースを絡めていくとナポリタンが完成する。食器棚から適当な皿を二枚出して盛り付ける。やはりピーマンがないことに文句を言われそうだが今更どうしようもないので諦めてそのままテーブルに持っていくことにした。皿がテーブルに到着すると女はようやくベッドから立ち上がりコップ一杯の水を飲んで椅子に座った。
「あなた、もしかして野菜の類があまり好きじゃなかったりする?」
「目の前にうまそうなナポリタンがあるっていうのにそんな一言目はないんじゃないか。確かに野菜はあまり好まないけど。」
「そうね、そのことについては謝るわ。でもナポリタンにピーマンを入れない人を初めて見たものだから咄嗟に質問してしまったの。」
そう言って女は目の前の綺麗に盛り付けられたナポリタンを綺麗とは言えない食べ方で口に含んだ。そして、味はバッチリよ、という感じでこちらを眺めた。
「ところでこの家にはフォークの類の食器がないのかい?探してみたが見当たらなかったんだ。箸なんて山ほどあったのに。おかげで僕は今かなり慣れないスパゲティの食べ方をすることになってる。」
「それもごめんなさい。昔からお箸を使うのがどうも苦手なの。持ち方に問題があったり、とびきり食べ方が汚くなるとかではないのだけど、お箸を使った食事がどうも苦手なのよ。それでこの家に一人で住むことになった時に母親がお箸とスプーンしか置いていってくれなかったのよ。もちろん外じゃちゃんとフォークを使って食事もするわ。要するに私はこの小さな家でずっとお箸の修行をしているの。」
「お箸の修行。」
僕はなぜかその言葉の響きが少しだけ気に入っていってしまった。
「そう、お箸の修行よ。いいでしょ。」
「良し悪しはわからないけど、君はあまり食べ方が綺麗じゃないよ。」
「嘘でしょ。お箸を使うのが苦手なんてことはずっと前から知っていたけど、食べ方が汚いなんて指摘されたのはあなたが初めてよ。」
そうは言いながらも彼女はお箸でナポリタンを食べ続けた。
自分で言うのもなんだが、かなりいい具合にできたナポリタンだ。味付けも悪くなく玉ねぎもいい具合にしなれていてよく火が通っている。それでも彼女はピーマンが入っていないことにかなり文句をつけていたが味に関しては概ね満足している様子だった。
彼女の決して綺麗とは言えない食べ方に慣れ始める頃には僕はナポリタンを食べ切ってしまっていた。そして彼女自身は汚いとは思っていないお箸の使い方は、どうやら彼女の食事のスピードをかなり遅くしている様子だった。
ナポリタンのこと以外にはなにも触れない、とても静かな食事だった。
よくわからないリズムで生活を送っているが、先程の食事は健康優良児が食べるにはもってこいの夕食のタイミングだった。食事が終わると僕らは黙って煙草を吸って、少しばかり空を眺めて、そして気がつくと僕は眠ってしまっていた。女はおそらく起きていただろう。昼間あれだけ眠ったのだ。夜になってまた寝るなんて、そんな大学生の夏休みのような生活を送る女性には少なくとも見えなかった。
最近よく夢を見る。そしてそれは決まって昔の夢だった。最近というのか、おそらくはこっちに帰ってきてからの数日のことだが、それでも何十年と生きてきてこれほど高い頻度で、これほど密度の濃い夢を見たことはなかった。そして夢には決まって彼女が出てきた。
「唯希。」
僕は彼女を呼ぶ。
「どうかした?」
彼女の髪が綺麗なオレンジに染まっている頃の夢だ。その綺麗な髪をなびかせながら彼女はこちらを見てそう言った。
「いや、なにもないよ。昼食はどうするのかなと思って。」
「んー。そうね。私、オムライスが食べたい。」
「唯希ってオムライスが好きすぎない。君との昼食でオムライス以外を食べた記憶がまるでないんだけど。」
「そんなはずはないわ。つい最近スパゲティだって食べたし、アイスコーヒーだって飲んだわ。煙草だって吸ったし、アイスだって食べたわ。私たちはなんだって食べてるし、どこにだって行っているわ。」
「そうだな。どこのオムライスを食べようか。」
「この前行ったとこにしない?ケチャップじゃなくて、タルタルソースがのっていて、ハヤシライスみたいなソースがかかっているところ。おまけにケチャップライスじゃなくてピラフのようなご飯のところ。流石にここまで言ったらわかるでしょ。」
「さすがに最初のケチャップの説明でわかっていたよ。確かにあそこのは絶品だな。だけど少し歩くけどいいのかい。今日はひどい暑さだよ。それに夕方になったら雨だって降りそうだ。」
僕は晴れすぎている夏前の空を見上げながらそう言った。
「そんなこと言っていたら人生の価値がグッと下がってしまうわ。それに食べたいものがあって、それが身短にあるときは大人しくそれを食べるべきなのよ。人間って生き物は。」
「わかったよ。行こう。暑さを言い訳にオムライスを避けようとした僕が悪かった。」
この時間帯からさらに暑さは増しそうだったし、雨の予報だって変わったわけではないけど、彼女に輝いた目でこちらを見られると僕はオムライス屋を目指さないわけにはいかなかった。
夏の青い空が綺麗な瞳に見事に反射して、まるで海のように輝いていた。そんな目でこっちを見られると僕は「こんな暑さなんだ。大人しく学食でなにかの定食でも食べよう。」なんてことは口が裂けても言えなかった。
僕らはひどい暑さの中、その店を目指した。あまりの暑さだったので、途中で本屋に立ち寄ったり、コンビニでアイスを食べたりした。僕は何度か諦めることも選択肢に入れようと提案したが彼女は聞く耳すら立てずに、かなりの量の汗をかいてまでオムライスを目指した。なにが彼女をここまで動かしているのか。僕には見当もつかなかったが、気がついたら店の前についていた。
そして店先には「お米がなくなったため本日は終了させていただきます。」と看板が立っていた。店主が書いたらしい可愛らしい字だった。
「ねえ、私かあなた。どっちが悪いと思う?」
看板を見て呆然としていた僕に彼女はそう言った。
「君の中には二人とも悪くない選択肢がないの?」
「じゃあ、あれだけ美味しいオムライスを作れる店主のせいにしろっていうの。私にその権限さえあれば国民栄誉賞だってあげてる人よ。そんな人のせいになんて私はできないわ。」
彼女は看板を本当に悲しそうに眺めていた。
「わかったよ。僕が悪い。途中で至る所に立ち寄る提案をしたのは僕だからね。コンビニや本屋なんかに立ち寄らなかったら僕らは今頃最高のオムライスを食べていたかもしれないしね。」
「ねえ、なにを勘違いしてるの。かも、じゃないわ。絶対よ。」
さすがの僕でもそこまで言われるとかなりへこんでしまう。
「そこまで言わなくたっていいだろ。」
すると彼女は無邪気に笑った。
「嘘よ。あなたって本当に露骨に表情に出るよね。そーゆーところ大好きよ。もちろんどっちが悪いかって聞いたのも嘘。きっと誰も悪くないわ。みんなお腹が空いたら美味しいものを食べたくなるし、私たちだってそうじゃない。それに途中でどこかに立ち寄らないと私たち二人ともどこかで干からびていたわ。だからありがと。」
僕はすっかり安心した。すると暑さに体力を奪われたせいか、体にどっと疲れがきた。
「さすがにどこかで休まないかい。僕も君も、体力が限界だし、それに腹だって空いてる。」
彼女の額にも、また汗が垂れ始めていた。
「そうね。うどんでも食べて、そうだ!かき氷を食べに行きましょ。本物のかき氷を。」
僕にはいまいち「本物のかき氷」というものがよくわからなかったが、とりあえず返事だけはしておくことにした。それに食べてみると「本物のかき氷」とは何かがわかるかもしれない。
結局、僕らは近くの喫茶店になにも考えずに入ってしまった。
「私たちっていつもこうよね。」
彼女はため息をつきながら言った。グラスの中で氷が溶けて心地よく「カラン」と音が鳴った。
「いいじゃないか。そのおかげで僕らはその辺の学生より幾らかはいい喫茶店を知っているし、こんな機会じゃないとこの辺の喫茶店なんて立ち寄らないだろ。」
「それもそうね。」
彼女はメニューに夢中になっていて僕の話をなにも聞いていていないようだった。それでも、ワクワクした顔でメニューを眺める彼女をみると許さないわけにはいかなかった。
「ねえ、やっぱり初めてきた喫茶店ではナポリタンを食べてみるべき?それともさっき食べれなかったオムライスを食べるべき?ねえ、どうしよう。」
少し下から、悩んだ顔をして、僕を見つめる目が、たまらなく、愛おしかった。
「なんだって好きなのを頼みな。余ったら僕が食べればいいわけだし、その二つを半分こしたっていい。それに来ようと思えばいつだって来れるさ。地球の裏側にあるわけじゃないんだし。」
「そうよね。うん。わかったわ。」
そう言って彼女は手を挙げてマスターを呼び、ナポリタンとオムライスを頼んでいた。
「ナポリタンにピーマンなんかの野菜が入っていても文句言っちゃダメよ?」
「わかったよ。文句なんて言わないさ。でもトイレがピーマンのせいで詰まっていても、僕のせいにだけはしないでほしい。悪いのはナポリタンにピーマンを入れたマスターだからね。彼は自分で自分の店のトイレを詰まらせたんだよ。論理的にはね。」
「最低。あなたって本当に最低。」
そうは言いながらも彼女は綺麗な、とても綺麗な笑い方をしていた。
そしてテーブルについたナポリタンには見事にピーマンが入っていた。ピーマンは青々しく輝いていて、これでもかと食欲を削がれたが、僕はどうやら食べるしかなさそうだった。彼女がオムライスをあまりにも美味しそうに食べていたから。
「ピーマン、残しちゃダメよ。」
目が覚めると彼女はベッドの淵に座り込みながらタバコを吸っていた。窓は空いていて、夏の終わりのような風が狭い部屋をとても涼しくしてくれていた。
「随分眠っていたわね。もう夜中の10時よ。」
「夢を見ていたんだ。吸い殻でできた山に登っていたよ。」
「そんな夢であんな気持ち良さそうに眠れるのね。尊敬するわ。私夢だってあまり見ないし、最近は眠ることすら難しいのに。」
「生きてたら眠ることが難しい時期だってあるよ。」
「それもそうね。」
きっと彼女はなにも考えていないんだろう。そんな感じの返事だった。
「時間も遅いしもう帰るよ。眠ってしまってすまない。」
「そうね、帰るのにはいい時間だわ。でもあなた、あんなに眠ったのに、家に帰って眠れるの?」
「それは家に帰って自分のベッドについてみないとわからないだろ。君のベッドよりかはいくらか寝心地がいいからね。」
「あら、あんなすやすや眠っていたのに帰り際にそんなセリフがはけるなんて大したものじゃない。あなたがおうちのベッドで深い眠りにつけることを誰よりも願っておくわ。」
「ありがとう。じゃあまた。」
「ええ、明後日もあのバーに来れる?」
「うん。行けると思う。」
「じゃあ待ってるわ。まだ話すべきことがいくついかあるから。おやすみなさい。」
彼女の家を出た僕は、もちろん眠れるわけでもなく、またなんとなく海に向かった。だからって何かあるわけじゃないが、海を見ないとどうにかなってしまいそうなそんな日が僕の人生には幾らかある。
「あなた、いつまで経っても彼の死から逃げているでしょ。」
あの女のセリフが不意に頭をよぎる。僕をどこかに連れて行く。行きたくもない場所に。
確かに僕は逃げている。それは僕が一番わかっているはずだった。彼が生きているうちも、死んでからも、彼が死ぬことを最後の最後に止めなかった時も。いろんなものから目を逸らしてきた生き方のつけが回ってきたのか、とその時は思っていたがその程度のものじゃなかった。僕はあれから、脱獄犯のような気分で生きている。自分を悲観するのはあまり好まないがこればっかりは仕方がない。生きていれば背負うべき罪もある。たとえどんなに清く正しく生きたとしても。
僕の人生にはあまり登場人物がいないが、ここにきて強烈なのがきたな、とあの女を思い出しながら思った。
そしてもうひとり、出だしから強烈な奴がいた。
「苗字で呼んでくれ。増井だ。」
こいつは自分の苗字が好きなのか。それとも自分の名前が嫌いなのか。どちらにせよ変なやつということは初めて会った時にわかった。
「わかった。俺のことはなんて読んでくれても構わない。」
これが僕と、死んだ彼の最初の会話だった。
少しだけ僕の人生について思い返してみようと思う。あくまでも僕の主観による僕の人生。少しの矛盾点と、客観視があまり含まれていないことは許してほしい。 まず友達は少ない。作らなかったとかではなく、できなかった。多分、人間関係を構築するのがあまり上手くないのだ。そして何故か女の子にはモテた。もしかするとこれが同性の友人ができない一番の理由かもしれないが僕からしてみれば知ったこっちゃない。だけど恋人はそう多くはできなかった。多分これは人間関係を構築するのがあまり上手くないことに起因しているんだろう。
小学生になる前から水泳をしていて、球技なんてなにもできないくせに気づけばそれが水球に変わった。カレーがドライカレーになるような感じだ。作り方はそれなりに違うのに何故か味だけは似ている。。だがそれのおかげで本当に親しい友人が何人かできた。死んだ彼もその中の一人だった。そして彼らと同じ高校に進み3年間を水球に捧げた。夏は温泉のようなプールで真っ黒になり、冬は凍る一歩手前のプールでウエットスーツを着ながら練習に励んだ。今考えるとなにをしたかったのかさっぱりわからない。いや、当時もさっぱりわからなかった。だがそれでもあのプールはかけがえのない青春を僕たちにくれたし、これでもかというほど水球を嫌いにさせてくれた。
普通の高校生とは少し違った青春かもしれなかったが本当にいいものだった。
それから僕らは別々の道に進んだ。僕と死んだ彼は地元に残り、後の二人の同期は関東の大学に進んでいった。四人が二人になるのは寂しかったが半年に一回は会えるというのでまあいいかと思っていた。この時までは。
そう、2人が4人になるというということは半分がいなくなる、もしくは片割れがなくなるという言い方をすべきだろうか。とにかく大部分を失うことに変わりはないのだが、当時の僕たちはそのことをあまりにも軽く見ていた。死んだ彼は4人でいるからこそ救われていて、その時間を誰よりも愛していたのだ。当然、地元に残った僕は必要もなく、誰よりも彼と会うことになるのだが、僕だけでは彼を救えなかった。そして冒頭のあの部分に繋がる。そして彼と地元に2人っきりになってからちょうど一年が経とうとしていた頃に彼は死んだ。
一年。日本にいるなら四つの季節を過ごせる。
シンガポールとかなら、もしかしたら二つくらいで済んでいたかもしれない。
彼の葬式にはもちろん友人の2人も足を運んだが、僕からは何を話せばいいのか全くわからなかった。やっとのことで口から出た言葉は謝罪であり、そして目から出たものは紛れもなく涙だった。
「僕のせいで死んだ。すまない。」
僕は彼らにそう言った。
彼らも言葉に詰まっていたが、
「そんなことはない。」
と言いながら僕を抱きしめてくれるだけだった。
葬式を取り仕切ってくれた彼の母にはこの上ない感謝と、これでもかというほどの謝罪をされた。そして、四隅がほつれたハンカチを一枚もらった。
高校の担任や水球部の部員も来ていたが、皆僕の顔を申し訳なさそうに眺めているだけだった。
何を喋ったかなんてほとんど覚えていない。
そんな風にして葬式は終わった。
友人たちは向こうでの生活があるので葬式が終わるとすぐに帰っていって僕はまた一人になった。独りを選んだのは僕だ。そう思うほかに普通でいる方法はなかった。
彼の葬式が終わって次の週、僕は唯希を呼び出した。一人になることを選んだはずなのに、彼女だけはなぜか手放すことができなかった。
「どうしたの。」
「結局、止めれなかった。」
彼女はその一言で全てを察してくれた。
この時期、僕はかなり唯希に頼っていた。もちろん自殺願望のあるやつの近くでしばらく過ごしているとそれなりに頭もおかしくなってくるし、メンタルだって崩れていく。そのせいか、唯希も僕のことをかなり気にかけてくれていたし僕自身も心配をかけている自覚はあった。
「あなたのせいじゃいわ。」
彼女は小さく、そして優しい声でそう言った。
「みんなそう言うんだ。本当にみんな。彼のお母さんにまで言われたよ。だけど僕は自分のせいだってどうしても思ってしまう。そしてそう思わないわけにもいかないんだ。結局のところ、最後の最後で彼を見殺しにしてしまったのは僕だし、止めることも、何か言葉を伝えることもできなかった。せめてありがとう、とか馬鹿野郎、とか僕が思ったことを素直に言っていれば何かは違ったかもしれない。」
そこまで言って僕は口をつぐんでしまった。
「みんななにかしらそういったことを考えなら生きているわ。あの時、あんな風に言っていれば、あの時、こうしていれば、とかね。だけど、全ては過ぎてしまったことだし、どう足掻いたって多分だけどなにも変わらないわ。今のあなたには少しひどい言い方になるかもしれないけれど、答えが出たことに、もしも、はないのよ。彼は永遠に19歳の冬の中で生きていくけど、私たちはこれからも歳を重ねて毎年毎年、寒い冬を凍えながら過ごさなくちゃいけないの。今年もきっとこれからもっと寒くなるし、夏だってとても暑くなるわ。ほら、ここの夏ってとても暑いじゃない。きっとそんなふうに歳を重ねることがとても怖くなったのよ、彼は。この前の夏がとても楽しかったってあなたも話してくれたでしょ。きっと彼もそうよ。これ以上楽しい一年なんて来てたまるかって。そう思ったんじゃいかな。少しだけその気持ちもわかるもの。」
海からは少し離れているのに、潮の匂いのする風が僕と彼女の間を通り過ぎて行った。彼女の言うことも少しだけわかるような気もしたが、だからと言って僕は自分を責めることをやめられなかった。
「煙草を吸っていいかな。」
「いいけど、あなたメンソールなんて吸う人だっけ。」
「たまにはいいかなって。」
「そっか、」
「うん。」
この時の僕はどんな顔をしていたのだろう。おそらくひどい顔だった。唯希の表情はこれ以上なく困ったものになっていたし、僕もそんな唯希の顔を見るのがとても辛かった。僕はなんとか明るい話をしようとした。
「ねえ、最近学校は行ってる?よくサボっていただろ。」
「なにを言っているの。今は春休みよ。」
そう言って彼女は僕を優しく抱きしめてくれた。
この時、僕は増井が死んでから初めて泣いた。
国道沿いのブランコとシーソーしかない、小さな公園だった。誰のランニングコースにも含まれない、それくらい小さな。
どれくらい泣いていたのだろう。僕を抱きしめていた唯希は少し眠そうにしていた。
「あなた、泣いてなかったでしょ。」
「本当は泣くつもりだったんだ。」
自分の目が腫れているのが自分でもわかった。
「泣くつもりというか、泣くものだと思っていた。悲しかったのは紛れもない事実だしね。だけど涙はこれっぽっちも出なかったんだ。葬式でも、彼の死を聞いた時でも、僕は彼の死を実感することができなかった。逃げていただけかもしれないけれど、どこか遠くで自分自身を見ていた気がするんだ。なんていうか、自分を俯瞰しているような。そして彼が眠る棺の前についた時、もう一人の僕が僕に言ったんだ。お前は泣いていいのかって。全部気のせいなのはわかってる。でも、泣けなかったんだ。泣くべきじゃない気がした。僕のせいで死んだかもしれない彼の母親が棺に縋り付くようにして泣いていたんだ。そんなものを見てしまうと余計にね。」
「泣くべきじゃい人間なんていないわ。泣きたい時に泣けるのが人間の特権でしょ。飛びたくても飛べない鳥だっているのよ。」
「そうだね。でも今日は泣きすぎた気がするよ。家まで送るから帰ろう。こんな時間に呼び出してすまない。」
「いいのよ。いつでも呼んで。」
「ねえ、あなたまで死んじゃだめよ。」
別れ際に彼女はそう言った。
「頑張ってみるよ」
その三日後、唯希から連絡が来た。短いメッセージだった。
「ごめんなさい。もうあなたとは会えない。」
僕はすぐに返事を送った。
「なにか気に触ることをしたなら謝るよ。今君を失っってしまうと僕はどうやって生きていけばいいのかわからない。」
しばらく待ってみたが返事がくる気配はなく、僕はただ曇り空をぼんやりと眺めることしかできなかった。
返事は次の日の朝に来た。
「ごめんなさい。」
「一度でいいから、会ってくれないか」
彼女から返事は来なかった。
そうしてなにもわからないうちに僕は独りになっていた。
僕は少し、彼女を頼りすぎていたのかもしれない。
それから一ヶ月ほど経って彼の家族から、お墓の場所を教えてもらった。僕は適当な花とハイライトメンソールを買って墓参りをし、その足で大学に退学届を提出しに行った。本当に短い学生期間だったが、その時の僕はそうでもしないと生きることができなかったのだ。
なぜ建築学を専攻したのかは今でもわからない。
「今からでもやり直せる。」
退学届を提出する時、大学の講師は僕にそう言った。本当にそうだろうか。十数年経ったって何もやり直せてない人生なのに。あの講師は今の僕を見ても同じことが言えるだろうか。
親に反対されながらも大学を辞めたため、家の中で僕の居場所はなく、自然とアルバイトばかりの生活になっていた。そしてお金が貯まる度にあてもなく旅に出た。1人でいることに苦を感じるタイプではなかったし、なんなら1人の方が気が楽だった。僕は祖父にもらったフィルムカメラと大きな鞄だけを背負って日本中を回った。
いつかの秋だったと思う。僕は気がついたらどこかの港町についていた。本当に当てもなくバスや電車に乗っていたせいで、ついたときはどこにいるのかわからなかった。人と猫が同じ数ほどしかいない、本当に小さな港町だった。
ついたときにはすでに夜中だったため街の光はほとんど消えていて、海の音だけが静かに響いていた。僕はいつも通り海沿いを歩き、故郷のことを考えながら煙草に火をつけた。旅に出るようになってから煙草は間違いなく増えていた。が、そんなこと靴下にあいた小さな穴くらいにしか気にならなかったし、そもそも気にもしてなかったのかもしれない。
どこの店もやってなかったが壁一面に古本が並んでいる洒落たバーがあったので僕は入ることにした。
壁の古本は実にいろんな種類のものがあった。フィクションもあればノンフィクションもあり、小説もあれば評論もあった。中でも作者の記載がない世界中の景色を写した写真集に僕は強く惹かれた。
「どれでも好きなものを手に取って読んでいいんだよ。」
店主は30そこそこの左腕に鯉のタトゥーの入った男性だった。寡黙ではあったがどことなく人当たりの良さそうな男性で、僕に優しい口調でそう話しかけてきた。
「飲みながら本を見てもいいですか?」
「もちろん。」
店主はカウンターの中に戻ってグラスを用意し始めた。
「じゃあ、このクラフトビールをいただいていいですか。」
「IPAだけど構わないかい。」
「はい、もちろんです。」
彼は慣れた手つきでビールサーバーから冷えたグラスにビールを注いで僕の前に出してくれた。
「何か食べるかい。今なら特製の卵焼きを作ってあげるよ。」
「じゃあ、それを一つ。」
「少し待ってな。」
「わかりました。」
僕らは短い会話をしてお互いの世界に戻るように視線を逸らした。彼はフライパンに。僕は写真集に。
写真集にはさまざま国の景色や人々が映っていた。
日本じゃ到底みることのできない景色ばかりで僕はとても感動した。今まで日本の景色しか見てこなかった僕からすれば、どのページのどの景色も衝撃的なものばかりで久しぶりに心が踊ったのを今でも鮮明に覚えている。
出汁の入った卵の匂い、そして何故か餡子の匂いがした。
「いい顔をしているね。なにを作ってるかわからないだろ。」
「まさか卵焼きにあんこを入れるっていうんですか。」
「そうだよ。まあ食べてみな。口に合わなかったらお代は貰わないから。ほら。」
僕は言われるがままにあんこの入った卵焼きを口にした。出汁の効いた卵と熱の入った温かいあんこがしかっりと絡み合っていた。だけど今まで食べたことがなかったジャンルの味のせいなのか、上手く感想が出てこなかった。
「あまり美味しくなかったかな。」
「いえ、そんなことはないんですよ。味だってとても美味しいし、何より食べたことない味でしたから、あまり上手に感想が出てこなくて。」
「そうか、それはよかった。あてにはならないかもしれないけれど自信作なんだ。」
彼は誇らしげな顔でこちらを見ながらそう言った。
「それよりこの写真集みたいなものは誰のものなんですか。」
僕は手元にあるものをみながらそう言った。
「ああ、それは僕が撮ったものだよ。わざわざ出版社に持って行くほどのものでもなかったからね。自分で気に入ったものだけをまとめてしまったんだ。なかなかいい出来だろ?」
「はい。どの写真もとても綺麗です。世界を旅されていたんですか。」
「ああ、おそらくだけど君と同じように当てもなく旅をしていたんだ。そのうち世界に興味が出てきてね。しばらく働いて、お金を貯めて、少しだけいいカメラを買って飛行機に乗ったんだ。あの時ほどワクワクした時はなかったね。」
確かに僕も当てもなく旅をしているがこの人ほどではなかった。日本から出たことはなかったし飛行機だってあまり乗っていない。決して飛行機が苦手とかそういうわけではない。
僕がグラスを持つと彼は話を続けた。
「特になんの目的も持たずに世界に出たけど、旅をしていくうちにいろんなものに触れることになる。一歩歩くと言語の形から目ん玉の色まで違うんだからね。そしていろんな景色に出会う。その景色の中で一生を終える人もいる。これが世界なんだって深く思い知ったよ。もちろんだけどその場所にはその場所の住人がいるだろ。人が違えば文化が違う。文化が違えば食事が違う。当たり前だ。旅にでてすぐの僕は「いろんな文化を知りたい」なんて言っていたが、そうはいかないことに5年ほどかけてようやく気づくことができた。人の数だけ文化がある。だけどこれはあくまでも僕の感想だ。もし君がこの話を聞いて世界に旅にでたいというなら、もちろん応援するしアドバイスだってする。君も今、旅に出ているんだろ。店に入ってきた時からわかったよ。どうだい、今の旅は。」
彼は長い話を終えて疲れたのか、水を勢いよく口に含んだ。
「いい旅か悪い旅かと聞かれるとどちらでもないとしか答えられません。旅にでている。その事実しか残らないような、そんな旅です。」
「そうか。そんな旅もいいな。君みたいな旅人には聞くべきじゃないかもしれないが、なぜ旅にでている?みたところまだ21、22といったところだろ。答えたくなかったら濁してくれて構わないよ。」
しばらく旅にでているが話してもいいと思ったのは初めてのことだった。いつもなら適当な嘘で誤魔化しているが今回だけは何か違った。
「親友が自殺したんです。僕のせいで。もちろん周りは僕のせいじゃないって言うし、直接的な死因に僕が関わっているかと聞かれたら、事実としては違うと思います。だけど最後に彼を止めることができたのは僕しかいないし、そんなことを考え出すと、なんていうかキリがなくて。そして彼が死んだ少し後に、好きだった女の子に縁を切られました。それで全て嫌になって大学を辞めて気づいたら旅にでていました。旅に出る理由なんて大抵の人がこんな感じだと思ってたんですけど、違うんですかね。」
「どうなんだろうね。少なくとも僕は違うし、それこそ人それぞれじゃないかな。だけどみんな、失ったものを取り戻そうとしてるのは一緒だろうね。」
僕は旅に出ている理由を自分で思っているより話してしまったことを少し後悔した。
「そうですよね。でも僕は失ったものを取り戻せるとは思えないんです。財布を無くしたのとは訳が違うし、決して戻ってくるわけでもない。僕はなぜこんな旅に出ているんでしょうか。」
「それを見つけるのが君の旅だろ。おじさんにはわからないけどね。」
そう言って店主は笑いながらいつの間にか自分のために作ったハイボールを飲んでいた。
それを見つけるのが僕の旅か。そうは言ってもこの時の僕には本当になにも残っていなかった。
「今夜、泊まるとこは決まってるのかい。」
「いえ、なにも決まってません。」
「うちの2階に泊まらないかい。ちょうど空き部屋があってね。話し相手になってくれるならタダで泊めてあげるよ。」
「話し相手が僕なんかでいいんすか。泊めていただけるのは大変ありがたいんですけど。」
「ああ、久しぶりに君みたいな旅人に出会ったからね。ここは海が綺麗だから結構旅人が来るんだけど、どうにも年寄りばかりでね。どうだい。悪い話じゃないと思うんだけど。」
「僕としてはすごくありがたいです。」
「じゃあ決まりだ。部屋は後で案内するよ。」
「ありがとうございます。」
僕は再び写真集に目を戻してそれをパラパラとめくった。どの写真もとても綺麗だったが、一枚とても惹かれるものがあった。ヨーロッパあたりだろうか。綺麗な色に染まった山の中に一本の道が真っ直ぐに伸びていた。
「店主、ここはどこですか。」
「ああ、そこはどこだったかな。グリーンランドかどこかだったと思うよ。ひたすらにそんな道が続いているんだ。どこまでもね。」
「そうですか。」
「別に世界中を回る必要はないんだ。旅というのは。綺麗な景色のある国だけを回るのもありだし、そうじゃない国だけを回るのだってもちろん素晴らしいものだ。この国ももちろんそうだけど、いいものもあれば悪いものもある。そうゆうことはどこだって同じなんじゃないかな。」
そう。いいものもあれば悪いものもある。そんなのはどこだって同じだし、この国に限った話じゃない。この時期、僕はいろんな場所に行っていたせいなのか海外に強い憧れを持つことは全くと言っていいほどなかった。どこに行ったって同じような人間がいて同じような話をして同じような方法で女の子を抱いている。人間なんてそんなものだ、そこまで考えていたかもしれない。
「行きたくないならそれでもいい。もちろん無理に海外に行かそうなんてまったく考えてないし、無理に行ってほしくもない。だけどね、言い方は少し悪くなるかもしれないけれど、君のような人間はいずれか海外だったり、どこか遠くに行く機会が必ず訪れる。誰かが君をその場所で待っていたり、君に行かなければならない理由ができたり。なぜ行くことになるかまでは僕はわからないけれど、そんな時がいつか必ず訪れる。必ずね。」
「そんなことを言ったってどこか遠くで僕を待つ人なんていないし、今の僕には行く理由だってありませんよ。」
「いつかの話だよ。」
そんな風にして僕と店主の会話は終わった。僕は2階の客間に案内してもらって、シャワーも浴びずに泥のように眠ってしまった。
この日のことをなぜこんなにも覚えているのかはわからない。
朝日が綺麗な差し込み方をする部屋だった。空は全てを許せそうなほど青くて、とても嫌な気分になったのを今でも覚えている。僕は昨日浴びれなかったシャワーを浴びて、店主にあんこの入っただし巻きとホットコーヒーをいただいてそのまま店を出た。
「いつかきっと、君をどこかで待ってくれている人に出会えるよ。」
「そんな人に出会えることを僕も願ってます。泊めていただきありがとうございました。」
「ああ、またどこかで。」
僕はその後も日本中を旅して回った。東北だったり、四国だったり、九州だったり。関東だけは人が多そうでなかなか足が伸びなかったが、千葉県だけは訪れた記憶がある。だけど、どこに行ったって日本の鬱陶しくて、焦ったい四季は僕を離してくれることはなく、僕はその度に、独りじゃなかった頃の自分を思い出した。そして「結局どこに行っても同じなんだ。」と思った。
僕はどこでなにをしたって、あの頃には戻れないし、失ったものはなにも戻ってはこない。
彼女の期待に反して僕はかなりの時間眠ってしまっていたようだった。
この街というのは本当に僕にいろんなものを思い出してくれる。良くも悪くも僕はこの街に戻ってくるべきだったのかもしれないし、それは僕だってわかっていたはずだった。
「明後日かあ、それまでに仕事を片付けよう。」
僕がフラフラとしながらも生活を続けられたのはそれなりにちゃんと仕事をしていたからだった。もちろん仕事をしないと生きられないわけじゃないが、なにもない生活の中で「仕事」という一つの目標があるのは少しばかりいいことでもあった。
仕事というのは写真関係のものだった。旅をしていたバーの店主のようになんとなく自分の撮った写真をまとめてSNSに投稿すると、とある出版社の目に留まりそこの契約カメラマンとして働くことになった。
写真を撮っている時だけはなぜか穏やかな気持ちになれた。ファインダーを通してみる景色は僕の目には映ってくれない、素晴らしい輝き方をしていてその瞬間を形取ることが僕はとても好きになっていた。
そうして僕は日本中を旅しながら様々な写真を撮っていつしかフリーのカメラマンになっていた。
そして僕はなぜか人の写真を撮ることがとても苦手だった。
僕は二日間かけて溜まっていた写真のデータ整理とレタッチを必死に終わらせた。この二日間で摂取したのは数えきれない数のコーヒーとサンドイッチとナポリタンだけだった。それほどまでに仕事が溜まっていたのだ。
玄関から音が鳴った。その音は僕を相変わらず嫌な気持ちにさせて無理やり僕をベットから引きずり出した。天気はあいにくにも晴れていて、あの嫌な女のことを思い出させた。
重い体を起こし玄関に行くと彼女が前のように暑そうに立っていた。
「いつまで寝てるの。もうかなり日が上がっているわよ。」
彼女の額には綺麗な汗が滴っていた。
「今日、君と会うために昨日かなり仕事を頑張ったんだ。いいだろ少しくらいゆっくり寝させてくれたって。僕だってたまには二度寝だってするし、寝坊だってするよ。しかもバーに行くには早すぎないかいこの時間は。」
「あなたみたいな人間が昼から飲むことにいちゃもんなんてつけちゃダメよ。大人しく着いてきなさい。まだ話すべきことがたくさんあるのよ。ほら、早く服を着て出る支度を済ませてくれない。」
「すまないが髭だけ剃らせてくれ。伸ばしっぱなしなんだ。」
「それはそれで似合ってるわよ。だから早く行きましょ。また暑さで倒れそうなの。」
「わかったよ。少し待ってくれ。」
僕は部屋に戻り、適当なTシャツを選び家を出た。やはり髭が少し気になったが、彼女がいいというのでそれはそれで構わないのかもしれないと思い気にしないことにした。
彼女の言うとおり外はひどい暑さで、僕が仕事で家にこもっていた二日の間に季節は完全に夏の気配を帯びていた。僕と彼女はバーに向かうまでに間、一言も話さなかったし、彼女は話したくもなさそうだったので僕から喋りかけるなんて野暮なことはもちろんできなかった。
そして僕が家にこもっていた二日の間にセミは完全に羽化していてそこら中で鳴いていた。
バーでは相変わらず髭伸びた店主が静かにお酒を作っていた。テレビはやっていたがまだ昼前だからなのか野球中継はやってなく、退屈そうなニュースキャスターがカンペをすらすらと読み上げていた。
「仲良くなれたのかい。よかったじゃないか。」
店主はカウンターに座る僕らの前にやってきてそう言った。
「やめてください。この子に起こされるとろくな1日にならないんですよ。この前だってそうだった。」
「本当ひどいのねあなたって。そんな言い方しなくっていいじゃない。確かに寝てしまった私が悪いけどあなただって私の家で気持ちよさそうに眠っていたじゃない。」
「まあ二人ともとりあえず飲みな。ここは喧嘩をする場所じゃないだろ。」
そう言って店主は僕らの前にグラスを置いた。彼女にはウイスキー。僕にはビールを。
時間の進み方がやけに緩やかだった。周りの物音はなにも聞こえず彼女の喉にウイスキーが流れ込む音だけが僕の耳の中に響いていた。
「今日あなたを呼んだのは他でもないわ。あなたに彼が残した手紙の残り二つを渡しておこうと思って。こんなものいつまでも私が持ってたってしょうがないでしょ。」
「それはそうかもしれないけれど僕だって彼らがそこにいるのかなんて全く知らないんだ。確かに僕たちは友達だったけど今はそうじゃない。彼らにも彼らの生活があるかもしれないし、家族だっているかもしれない。もしかしたら、僕のことも死んだあいつのことも忘れて普通の生活をしている可能性だってある。それの邪魔は僕にはできない。」
「じゃあこの手紙はどうするつもりなの。焼き芋の材料にでもするつもりなの。」
「そうは言ってないだろ。いつか渡さなければいけないものなのは僕もわかっているし、焼き芋の材料にする気だってもちろんないよ。」
「それなら話は早いわ。今すぐにでも二人のお友達に連絡をとってくれないかしら。」
彼女は煙草に火をつけながらそう言った。僕が窓の外を見ながら返事に困っていると店主がフライドポテトを持ってきて「とりあえず食べな。まだ昼だ。いろんなことを話すには早すぎる時間だし、テレビの野球中継だってやってない。そうゆうときはとりあえず飯を食うものだ。ここのポテトが美味いのは知ってるだろ。」
「ありがと。ちょうどお腹が空いていたのよ。」
彼女はそう言うと、煙草の火を消してポテトをつまみ出した。エアコンが効いているこの部屋とは打って変わって窓の外に見える景色はとてつもなく暑そうだった。まだ夏が来るには早すぎるがあの暑そうな空を形容する言葉を僕は「夏」しか知らなかった。
「尋ねるのを忘れていたんだけどあなたってなぜこの街に帰ってくることができたの。そりゃもちろん帰ってきてくれてありがたかったけど、正直ずっと帰ってこないと思っていたわ。あなたってほら、嫌なことから逃げ出す癖みたいなものがあるでしょ。」
彼女はなぜか誇らしげな顔をしながら僕の方を向いてそう言った。
「逃げ出す癖に関しては否定はできないけど、なぜ帰ってきたのかは僕にもわからないんだ。本当はずっと帰ってきたくなんてなかったし、帰らなくてもいいならそれに越したことはなかった。本当にその程度に思っていたんだ。母は生きてはいるけど、ここにはいないし、父は小学生の頃に離婚したからそもそも会っていない。会いたい友達だってこんな小さな街にはもちろんいない。それこそ僕の友達と呼べる人間は東京にしかいないしね。この街なんて僕にとってはその程度の場所なんだ。生まれただけであって帰ってくる場所ではない。君にもそんな場所が少なからず一つくらいあるだろ。」
僕は一息ついてビールを飲み、話を続けた。
「君が聞きたいのはこの街に帰ってきた理由だったね。まあ、さっきも言ったけど特に大きな理由なんてないんだ。一つ何かあるとするなら、少しだけ会いたい女の子がいたんだけどね。もちろん手がかりもなにもないから会えそうにもないよ。」
「そうなのね。あなたにも会いたい女の子っていう存在がいるのね。少し安心したわ。あなたがなかなかこの街に帰ってこないもんだから私すっかりこの街のことが好きになってしまったわ。」
「それはよかったじゃないか。」
僕は今でもこの街が嫌いだ。あるいは昔は好きだったのかもしれない。もし好きだったとしても随分昔の話になる。
「外は暑そうね。」
「ああ、そうだね。」
僕は短く返事をした。最近この時間に酒を飲みすぎているせいか、ビールがあまり喉を通らない。
「とりあえずこれを渡しておくわ。」
そう言って彼女は小さな紙を僕に渡してきた。綺麗な字で誰かの電話番号が書いてあった。
「なんだい、これは。もしかして君の番号かい。」
「まさか、どうしてあなたにそんなものを渡さなくちゃならないの。あなたの高校の部活の先生の番号よ。」
「前にも同じようなことがあったような気がするんだけど、どうして君がこんなものを持っているんだ。」
「そんなことはどうだっていいでしょ。これでお友達の連絡先が少しはわかるんじゃないかしら。」
僕はなにも納得できないまま、黙ってその番号を受け取った。彼女は一体なぜここまで僕の死んだ親友とその周りの出来事にここまで首を突っ込み、そして献身的なのか。最初から最後まで僕にはなにも理解できなかったが僕はどうやら前に進むしかなかった。
「とりあえず受け取っておくよ。うん。ありがとう。」
「じゃあ今日の話は終わりね。マスター、私の分だけお会計をちょうだい。」
店主はそれを聞き小さな紙を彼女に差し出した。
「もう帰るのかい。」
「ええ、だって私の話したいことはもう終わったし、あなただって私に話したいことなんて特にないでしょ。」
「それはそうかもしれないな。僕はしばらく一人で飲んでるよ。」
「そんなとこだろうと思ったわ。じゃあまあ、お友達と連絡が取れたらまたここに来て。平日の昼間なら大抵ここにいるわ。」
「わかったよ。じゃあまた。」
僕がそう言うと彼女は小さく頷きながら店の扉を開けて、真夏のような暑さが身体中を包む店の外に足を踏み出していった。
「いい女じゃないか。」
この能天気な店主はまたなにも考えずにそんなことを言っている。
「どこがですか。今にきっととんでもない本性を表しますよ。」
「それはどうだろうね。それこそ話してみないとわからないだろ。君は昔からどこか一歩引いてしまう癖があるからね。どうにかならないのかいその変なくせ。」
そんなことを言われたって僕にはどうすることもできないし、それこそ今更のような気がした。そして僕は自分のことを考えるのが嫌になって黙り込んでしまった。
僕は黙って三杯ほどビールを飲んで、何本かの煙草を吸った。煙草の味がいつもより煙ったく感じて僕は帰ることにした。
「今日はもう帰ることにします。なんだか気分があまり良くない。」
「そうか。また待ってるよ。」
店主は少し残念そうにしながらもお会計の紙を持ってきてくれた。
「はい。また来ます。」
僕はそう言ってなぜか悪い気分のまま店を出ることになった。僕がこんな風になってしまったのはきっと僕自身に問題があるのであって誰も悪くないし、僕以外に誰もこんな風に気分を害さないでいてほしい。僕はいつも自分の気分が悪くなったときはこんな考え方をしてしまう。これがいいか悪いかは置いといて、僕の一つの癖みたいなものだった。
外は相変わらず夏のように暑くて海に行くのも億劫になるほどだった。歩けば歩く歩数の分だけ汗が額から滲み出てきて僕の嫌な気分をさらに嫌にさせてくれた。
僕は本当になにをしているんだろうか。なにをしにこの地に帰ってきて、誰に会いにきたのだろうか。あわよくば唯希に会えれば、なんてこと思っていたかもしれないがそんな願いが叶うなんてハナからそんなに考えてもなかったから別に構わない。その代わりによくわからない女に会って、思い出したくもないことを思い出す羽目になって、しまいには高校時代の同級生と連絡を取れなんてぬかしてくる。
三つほどため息をついて僕は前に進むしかないことを理解した。
喉につっかえてる魚の骨を取る作業を僕は18年ぶりに始めることにしたのだ。
まずは高校の頃の顧問の先生に連絡を取るのが一番早そうだったので彼女の紙を見ながら電話をかけた。僕は思い立った日に行動しないとどうしても先延ばしにしてしまう癖がある。だから今しかなかったのだ。
「もしもし、高橋です。」
久しぶりの電話で僕の声はかなり緊張していたのではないだろうか。
「おう、どうした。」
顧問は相変わらずの声で特に驚くこともなく返事をしてくれた。そして僕はどのようにして会話を切り拓けばいいのか全くわからなくなってしまって言葉に詰まってしまった。
「お前生きていたのか。大学を辞めてのはどこからか聞いていたがその後のことが全くわからなかったから少し心配していたんだ。あんなことがあった後だから大学やめることに関してはそう驚きはしなかったが少しは連絡くらいしろ。」
言葉に詰まっていた僕に反して顧問はすらすらと喋り出した。
「すみませんでした。なんというか誰とも話す気になれなくて。
「そうか。まあしょうがないのかもな。流石にあいつの一周忌にも来なかったのは驚いたけどな。とりあえず一度プールに足を運べ。俺はまだ顧問をしているからな。今から来れるか?俺も少し話したいことがあるんだ。」
「わかりました。行かせてもらいます。」
「ああ。待っているよ。」
「はい。失礼します。」
電話を切って僕はやっと一息つくことができた。
いくつになっても顧問に電話というものは緊張がつきものだ。当時キャプテンをしていた僕は当然、他の部員よりも顧問に電話をする機会が多かったのだがいつからか電話をかけるのが嫌になってしまい、他の部員に押し付けていた。
それにしてもあの人は物事を決めるのが早すぎる。今日電話して今日会いに行くことになるとは。なにはともあれ事がとんとん拍子に進むのはいいことでもあったので僕は家に帰って車を出し、母校に向かった。
母校は地元から小さな山を越えた先にある。車で行けば十分やそこらだが高校の頃はこの山を自転車で超えて登下校していたため片道30分もかかっていた。しんどい練習を終えた後、自転車で山を超えるなんて修行僧でもやらんだろとかなんとか、文句をこぼしながら必死で自転車を漕いでいた。
学校に着くと正門のすぐ左に変わらずプールはあった。五十メートル×8レーンの大きなプールだ。公立高校のためもちろん屋外プールだ。プールの入り口にある小さな階段を登り靴を脱ぎ来賓用のスリッパに履き替える。一歩足を踏み込むとプールからは練習している高校生の元気な声と塩素の匂いが僕の聴覚と嗅覚を独占して一瞬にして僕を高校生に戻してくれたが、プールサイドを歩くと高校生が僕に向かって大きな声で「こんにちは!」なんて言うせいでまた僕はなにも持っていない四十手前のおじさんに戻ってしまった。 僕も挨拶をされる側のなったのか。歳を重ねることなんてやはりいいものではない。
顧問は変わらずプールサイドのテントの下で生徒に何かを言っていた。
「こんにちは。プールにおられるかなと思って連絡しませんでした。」
「そうか。まあ座れ。」
現役の頃は座ることが許されなかったテントの下の椅子に僕は腰を下ろした。
「ちょっと待ってくれ。練習メニューだけ伝えなくちゃならん。」
「あ、全然大丈夫です。」
先生は椅子から立ち上がり何人かの生徒に短く言葉を伝えて戻ってきた。
「お前も何か話したいことがあってこんな時に電話をかけてくれたのだろうが俺もお前に話したい事がいくつかある。まずはそれを聞いてくれないか。」
「はい。」
先生は僕が現役の頃よりかなり優しい話し方をするようになっていた。僕が大人になったと言うのもあるかのしれないが、先生自身の歳のせいでもあるのだろう。先生はプールで泳いでいる生徒の方を見ながら話し始めた。
「俺もこうなってしまうと何から話せばいいのかわからなくなってしまうんだ。まずはそうだな。あいつらと連絡をとってないらしいな。」
あいつら、と言うのは東京に行った親友達のことだろう。
「そうですね。この辺を離れてからずっと一人で生きてきたので、っていうのは言い訳にしかならないかもしれないですけど。なんとなく避けてしまってたんですよ。僕にかけがえのない時間を与えてくれたあいつらを。僕らの親友を僕があいつらから奪ってしまったのもあって僕からはどうしても連絡を取る気にはなれなかったし、あいつらからの連絡を取る気にもなれなかったんです。何か言っていましたか。」
「まあな、俺は一応お前達の先生でもあるから、今でもたまに飲みに行ったりするんだぞ。あいつらもお前のことをかなり心配していたよ。でもいつだったかな。お前の写真を雑誌か何かで見つけて安心していたよ。それにしたってお前、写真家としての活動名をわざわざあいつの名前でやらなくたっていいだろ。」
「それもそうですね。でも、忘れないためです。」
「そうか。それも大事だな。」
「それに先生が言ったんですよ。「いつかは忘れてしまうからな」って葬儀の時に。」
「俺はそんなことを言ったのか。覚えてないなあ。」
先生は年寄りの笑い方をしていて僕は少しだけ悲しくなった。忘れたことなんて一度もないですけどね。と言おうとしたが辞めておいた。
「元気にしてますかあいつらは。」
「ああ、もちろんだ。颯真は東京の商社で働くエリートになって友斗はここから少し離れたところで市役所員をしているよ。家族を持ちながらな。」
「へえ、友斗が家族を持ったんですか。あいつが。」
僕はたまらず笑ってしまった。
「いい結婚式だったぞ。笑いだってあったし、涙だってあった。もちろん増井の話も出たしお前の話だってでた。あいつならきっとどこかで生きてます。なんて言ってな。奥さんもとても美人だったよ。」
少しだけ行きたかった。いや、かなり行きたかったかもしれない。きっと本当に素敵な結婚式だったのだろう。でも僕がいないところでみんなが幸せになっているのならこれが正解だったのかもしれない。