客観の難しさ 10
こんにちは。前回は客観的証明を形にすることの難しさについて述べました。今回は客観的証明の「客観」に関する困難についてお話ししたいと思います。
自分が思いついたアイデアのうち、ある実験的検証の結果その仮説が支持される結果が得られることがあります。
大変喜んで、それではと前に進むのですが、ここで検証して得られた結果が本当に自分の考えている仮説を絶対的に支持するものなのかと問いかけることはとても重要です。
抽象的ではありますが、実例を挙げてみたいと思います。
目の前に短い棒があります。その棒の色は赤色のように思えます。 実際見ると赤色なのでこれは自分の仮説が正しかったと普通は考えます。
ただ実はこの棒は反対側から見ると緑だったと言うようなことは頻繁に起こってきます。また棒が立体だとすると上面から見るとまた違った色をしているということもありえます。
大抵仮説と言うのは、この棒は何色ですかと全体に関して述べる必要があります。自分の確認した方法では赤色にしか見えなかったので、この棒は赤だというふうに思います。しかし話した通りこれは正確な棒の色を表しているわけではない可能性が十分ありえます。
この点を強調する理由は、科学論文は客観的証明である、からです。
自分の中のアイディアの段階では、目の前に見えている色だけを見て判断しても良いのですが、論文にするなら世界中の誰が見ても赤だと証明する必要があります。そのためには実に精巧に様々な角度から赤で間違いないことを確認していく必要があるのです。
これは論文の作成が進行していけばいくほど、あるいは最後に実際にこの論文は学術雑誌に投稿する段階になってきて、自分が見てきた棒の色に矛盾がなかったかということが著者に非常に大きくのしかかってくることになります。
学術論文の完成は実験の段階から数年かけて行うことが普通です。綻びが生じればそれらが全て無駄になってしまうのです。
科学論文の不正に関して国内でも大きな話題になることがそういえばありました。私はその人の科学者としての良心を信じるなら、少なくとも自分が棒の色が赤だったということを見出したこと自体は、嘘ではなかったのでは無いかと思っています。
しかしそれが一面的な検討に過ぎず、全体から見たときには十分でなかった。こういうことは実際非常にたくさん起こってきます。ちょっとした気づきの場合ほとんどがそうだと言っていいくらいです。
実際に出版されてしまっている論文の中にもそういったものが多数含まれていると考えていいかもしれません。これは不正をする、しないにかかわらず、です。
論文を不正する気があってもなくても 本当に信頼がおける結果として残っていく論文はごくわずかです。10年20年と言うスパンで考えて仮説がそのまま残っていくような物は本当にごく1部なのです。
芸術やポップカルチャーと同じように、です。
結局論文は自分が行った実験をもとに考えられる仮説の可能性について論じることがその内容になっています。
私の大学院時代の指導教官はこんなことを言っていました。 論文の中で結局正しいのは実験結果のみなのだ、と。
少なくとも科学者が良心を持って研究を行っていた場合でも、信頼できるのはその実験データそのものでしかないのです。
そのデータをいかに解釈するかという点については往々にして間違えてしまう。それは心理学的にも自明なことで、つまり自分が見たいように世界を見てしまうという人間の性質から避けることができず起こってしまうことなのです。
だから私の研究生活で学んだ、成果の作成の哲学はこうです。実験科学者ができる事は、誠実に公正にデータを取得し、それを示すことしかないのだと。
しかし世間で科学研究の成果を取り上げる場合、どんな技術的応用が可能かとか、どんな日常的な解釈が可能かということにフォーカスして報じられることが殆どです。
私は以上に話した内容のように、それらは全くナンセンスだと思っています。
研究の分野の外の人にとっての関心がそこになるのは仕方ないことだと受け止めたとしても、こうしたニュースは、「そういった可能性を示した」ということを強調して受け止める必要があるだろうと考えます。
科学研究の営みはこういう「あったらいいな」の可能性を提示しているに過ぎません。しかし時にこのあったらいいなが、科学研究の進展の結果実現していくということもまた事実なのですが。
どんとこいサイエンスアンドテクノロジー。自分の目に映るものは全体の本当の1部に過ぎない。そう心に留めて世界を見なければいけない。 今回はそういうお話でした。
研究シリーズ終了です。