この世界で最も大きく、偉大なものについて
このコラムで私は、「無限の可能性の無限集合」という表現を切り口に、この世界で「最も大きく、最も偉大なもの」について、(少年時代に原点回帰する気持ちで・・・)自分なりに追究してみようと思う。
○「無限の可能性の無限集合」
あなたには燃え上がるような情熱があり、たゆまぬ努力と創意工夫をしていることだろう。あなたは、どこまでも果てしなく学び、思考し、想像し、創造し、あらゆるアウトプットをしているはずだ。それでも、極限まで悩み、悩み抜く。失敗することも、挫折することも、絶望することもあるだろう。それでもまた立ち上がり、さらなる努力と工夫を重ねていく。その歩みの中で、周囲の人々に、心からの感謝を伝えることもあるはずだ。あなたの人生は、大きな喜びと深い悲しみに満ちている。今この瞬間のあなたのパラダイム(世界観)と選択が、あなたの世界を創り上げる。そして人生とは、そのような世界創造の連続である。あなたの人生においては、あなたこそが主人公であり、あなたは常に、「無限の可能性」をもっている。
今、「あなたは常に、『無限の可能性』をもっている」と述べたが、実のところ、これは誇張でも何でもない。私たちは理論上、「何を(どのように)(どれほど)するか」について無限の選択が可能である。あなたの人生は、無限の選択肢からの決断の連続なのだ。今この瞬間も「無限の可能性」をもっているし、次の瞬間も「無限の可能性」をもっている。(論理的には、「今この瞬間」も無限に区切ることができる。)そう考えれば、あなたの人生は、「無限の可能性の無限集合」そのものではないか。
少し考えを進めて、「無限の可能性の無限集合」が人間だけに該当するのかについて、考察してみよう。
例えば、動植物が私たちに与えるリラクゼーション効果1つでも、そこには無限のバリエーションがあるし、その程度も無限である。私たち人間の視点から見ただけでも、動植物は無限の影響力をもつ。ありとあらゆるいかなる生命体も、無限の影響力の連続体であることを考えれば、「無限の可能性の無限集合」であることに変わりはない。
こう考えれば、「無限の可能性の無限集合」とは、(少なくとも)1つ1つの生命体そのもののことであると言えよう。
○「無限の可能性の無限集合」にもレベルがある~無限集合における「濃度」
「無限」「∞」という概念は、それ以上成長・発展の余地がないように思われる。私たちのような1つ1つの生命体それぞれが「無限の可能性の無限集合」であることを先に示したが、例えば、チームやコミュニティ、都市、国家といったものにおける「無限の可能性の無限集合」についても、(「無限の可能性」の数が超爆発的に増大しているイメージはできるものの)「無限の可能性の無限集合」としか表現できない。しかし、数学的に考えてみれば、ここからさらに話を発展させることが可能になる。そのために必要なのが、無限集合における「濃度」という概念だ。
例えば、0~1の間に存在する値の数も0~2の間に存在する値の数も∞個だが、明らかに後者の方が値の数は多い。この場合、後者の無限集合は前者の無限集合に対して、「濃度が大きい」と表現される。つまり、「無限の可能性の無限集合」においても、その無限集合の濃度が大きくなれば、その「無限の可能性の無限集合」はさらに大きく、さらに偉大であると言えるのだ。
○さらに大きく、さらに偉大な「無限の可能性の無限集合」とは~「地球」から「場」へ
前章で、「無限の可能性の無限集合」にもレベルがあり、無限集合の濃度が大きくなれば大きくなるほど、その「無限の可能性の無限集合」はさらに大きく、さらに偉大になることについて説明した。例として、「国家」における「無限の可能性の無限集合」を話題にしたが、それ以上の規模のものについても、思いを馳せてみよう。
思いを馳せる対象は、まず「地球」である。1つ1つの生命体が存在することができ、「無限の可能性の無限集合」であり続けられるのは、当然地球のおかげである。地球が私たちの「ステージ」であることに疑いの余地はない。
しかしながら、すでに科学が解き明かしているように、地球がこの世界の中心というわけではない。地球は「太陽系」の一員であり、その中心は太陽である。私たちの地球は、太陽を中心に周回していた微惑星同士の衝突によって形成されたと言われる。太陽がなければ、私たちの地球は存在し得なかったのだ。私たち生命体が誕生できたのは、(生命の土壌となる自然が奇跡的に形成されたという意味でも)疑いなく太陽のおかげであり、太陽系というさらに大きな次元のステージのおかげである。
またさらに大きな次元へと話を進めよう。太陽系は「銀河」に属している(地球は「天の川銀河」に属する。)が、実は太陽のような恒星は、銀河に数千億個も存在するという。銀河は、それほどまでに大きく、偉大なステージなのだ。ただ、その銀河すら、「銀河団(銀河群)」と呼ばれる(場合によって1000個もの銀河が集まった)銀河の集合の1つであり、そのような銀河団も、「超銀河団」と呼ばれる、より大きな構造(1000億光年のものもある。)の一部である。
では、そのような超銀河団が存在する「キャンバス」とは何なのか。それこそが、「宇宙(ユニバース)」である。注目すべきは、その広大さだ。「私たちに観測可能な宇宙」をエネルギー密度で見た場合、星や銀河・銀河団・超銀河団は、全体のエネルギーの0.4%でしかない。「地球の表面が全て砂粒で覆われていたとしても、観測可能な星の数はそれより遥かに大量だ。」「星の中には、太陽の2000倍以上の大きさのものもある。」と言われるのに・・・である。しかしこれは、残り99.6%が宇宙空間の全てであることを意味しているわけではない。
その理由は、宇宙が膨張し続けているからだ。さらに驚くことに、その膨張速度は光速を凌駕するという。物体は光速を越えて移動することはできないが、空間はそのルールに縛られないのである。
この光速を越えての膨張が、さらに驚愕の事実を生む。先ほど「私たちに観測可能な宇宙」という表現を用いたが、それはつまり、「私たちに観測不可能な宇宙」領域が存在することを意味する。空間が光速を越えて移動するならば、私たちまで決して届かない光が存在することになるからだ。(そのような光の始点自体が光速を越えて遠ざかっているため、「私たちに観測可能な宇宙」の全貌は、半径460〜470億光年になると予想されている。)では、「私たちに観測不可能な宇宙」までを含めた、「現在私たちが存在する宇宙」は、どれほど広大なのだろうか。
信じられないことに、その答えは「無限」であるようだ。「『現在私たちが存在する宇宙』は無限の大きさをもち、『私たちに観測可能な宇宙』を無限個内包する」と結論づける研究も多くある。その無限個の中には、あなた自身どころか、あなたのいる地球、その地球が存在する銀河・銀河団・超銀河団も無限に存在する。果ては、「私たちに観測可能な宇宙」そのもののドッペルゲンガーすらも、10の10118乗~10の10124乗個に1つの割合で、無数に点在しているという。奇跡が無限に重なったようなことも、「無限」では無限に見られる。「無限」を侮ってはならない。(これ以降、「宇宙」という言葉を、無限の大きさをもつ空間を指すものとして扱う。)
話はこれで終わりではない。実は現代科学において、「『現在私たちが存在する宇宙』とは別に、違う『宇宙』がある」という可能性が示唆されている(しかもその可能性はかなり濃厚である。)のだ。宇宙論における、「多元宇宙(マルチバース)」理論である。
「現在私たちが存在する宇宙」の開闢は、真空中で相転移が生じ、「インフレーション」を経て、「ビッグバン」が起きたことによると考えられている。インフレーションとは、10-36秒の間に、原子核程度の大きさの領域が、半径138億光年の大きさになるほどの指数関数的膨張のことを指し、その膨張スピードは、光速の3×1022倍であったと試算されている。「ビッグバン=宇宙誕生の大爆発」と思われることが多いが、「インフレーションが起きた空間の一部分が、ビックバンによって『現在私たちが存在する宇宙』となった」と考える方が分かりやすい。
ここで重要になるのは、「インフレーションで誕生するのは、『現在私たちが存在する宇宙』だけではない」という考え方が、非常に現実的であるということだ。この説によると、インフレーションは時空において終わることなく続くもの(「永久インフレ―ション」)であり、宇宙創成は時空のありとあらゆる無数の点で起きるものだという。つまり、「永久インフレーション」を起こしている時空においては、ありとあらゆるバリエーションの「宇宙」というキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、泡のように無限に誕生し続ける・・・というのである。
「多元宇宙」理論は、正直あまりにも突飛なアイディアに思える。しかしながら、広く知られているように、「現在私たちが存在する宇宙」は、あまりにも奇跡的な偶然を重ねて、生命を誕生させている。生命体も言ってしまえば、単なる原子の組み合わせである。それなのに、現在のような世界が形成されているのだ。多くのブロックを無造作に床に投げて、何らかの形が自然に生まれることはほとんどないだろう。だが、現実には「宇宙規模」でそれが起こっている。この世界は、あまりにも生命体にとって都合が良いように、ありとあらゆる値が微調整されているように思える。「現在私たちが存在する宇宙」自体、「無限の奇跡」で成り立っているのだ。
そうであれば、奇跡が起こっていない他の空間(無限に広がっているが、「現在私たちが存在する宇宙」に見られるような物質など存在しない宇宙)が無数にあった方が、むしろ自然に思える。見方を変えてみると、感覚的に「多元宇宙」理論が支持されて然るべきではなかろうか。(「現在私たちが存在する宇宙」が無限であるなら、時空の中で複数の宇宙は共存しないように思える。しかし、外部から見たら有限の空間も、内部から見たら無限になり得る。この点については理解が困難であるが、無限の空間が無限に存在できることは確かなようだ。)
話を戻そう。「永久インフレーション」が起き、「宇宙」という名のありとあらゆるキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、無限に誕生し続けている「背景」とは何なのか。現段階の科学で背景(最大の次元)だと示唆されているのは、「場」と呼ばれる時空(宇宙創成に関する話題の場合、「場」=「インフラトン場」であることが多い。)だ。この「場」で生じた「(存在の)ゆらぎ」によって、「永久インフレーション」が起き、「現在私たちが存在する宇宙」や、その他ありとあらゆる無限の宇宙が誕生したと考えられているのである。この「場」は、(「本当」に)無限に続いていると推測されている。
「場」にまで話題を広げれば、その次元は私たちの世界観を、遥かに超越しているように思われる。ただ、事実として言ってしまえば、「私たちは『場』の一部」なのだ。
○最も大きく、最も偉大な「無限の可能性の無限集合」とは~「多世界解釈」から「オムニバース」へ
では、「場」の「無限の可能性の無限集合」が、最も大きく、最も偉大な「無限の可能性の無限集合」なのだろうか。すでに「無限の可能性の無限集合」の濃度は、超・指数関数的に大きくなっているわけだが、ここからさらに話は発展する。
先に、宇宙論における「多元宇宙」を扱ったが、また別の観点から、「宇宙」(さらに言えば「多元宇宙」の全体自体)が無限に存在する可能性を指摘する研究も多くある。それこそ、量子力学における「多世界解釈」だ。「ありとあらゆる可能性の分だけ、無数の世界が『重ね合わせ』で存在する」という考え方である。起こり得る可能性が全て重ね合わされた状態で、この世界は形成されている・・・というのだ。つまり、私たちの現実世界の歩みは、無限の世界線から切り取られた、たった1つのラインの表出でしかなく、他にも潜在的に無限の世界線(「ヒルベルト空間」)が存在しているというのである。
これは一見、馬鹿馬鹿しいアイディアのように思える。しかし、ミクロの世界を探究した上で考えてみれば、このアイディアは、決して笑い飛ばせるようなものではなくなる。
この世界の物質の最小単位は、「素粒子」である。そして、この素粒子のような極小の物質は、「量子」という言葉で表現される。ここで重要なのは、この量子が、「粒の性質」と「波の性質」を併せもっていることである。簡単に言うと、量子は、「同時に様々な場所に確率的に存在する」というのだ。この状況は、多くの分野で「状態の重ね合わせ」と表現され、理論上も観測上も間違いないものだと結論づけられている。
ミクロの世界においてこのように振る舞う量子こそが、この世界の実像を創り上げる最小単位であるのは事実である。そのような量子が無数に組み合わさり、私たちの身体やこの世界が形成されているのも事実だ。そうであれば、この波の性質を「ありとあらゆる可能性の分だけ、無数の世界が『重ね合わせ』で存在する」と捉えることは、少なくとも完全には否定できないだろう。
「場」という背景自体の「多世界解釈」について、考察してみよう。それは、無限の過去から無限の未来永劫における、「場」の可能性の全てが表出し、集合している状態を意味する。その可能性の中には、遥か太古、遥か未来の、ありとあらゆる全ての生命体・物質の誕生が含まれる。そして各種生命体・物質の1つ1つが、どのようなプロセス(生涯)を経るか、どのようなものを創造するかについても、想定され得るパターンは全て含まれているのだ。例えば、私たち人間のような生命体は、あらゆるパラダイムによって、ありとあらゆる世界を想像・創造している。その中には、個や集団による無数の妄想・空想だけではなく、神話世界や宗教世界などのように、広く共有されている世界観も無数にある。つまり、私たちのような生命体の、ありとあらゆる無数の(無限にクリエイティブな)世界・宇宙観の想像・創造も、「場」の可能性の一部であるということだ。
「『場』×『多世界解釈』」は、「無限の可能性の無限集合」について追究した際に、最も大きく、最も偉大なそれとなる。言うなれば、「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」であろう。
この「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」は、別の言葉で表現することができる。それこそ、「全ての宇宙(世界)の集合」を意味する言葉として広く用いられている、「オムニバース(Omniverse)」である。
○「オムニバース」の先を追究する~「無」
科学的に検証した結果、これまで広く用いられてきた「オムニバース」とは、「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」であることを確認した。「オムニバース」の意味を理解したならば、それ以上を追究する余地などないように思える。しかし、私たち人間の想像力・創造力は、遥か果てしなく、そして遥か限りなく偉大である。ここで、人類が積み重ねてきた想像力・創造力をフル活用してみよう。
例えば、「複数のオムニバースがある」や、「オムニバースが無数に集まる」といったケースは、果たしてどう解釈されるのだろうか。
もちろん、「オムニバース」は「全ての宇宙(世界)の集合」であるから、無数どころか複数にもなるはずがない。しかし、私たち人間の想像力・創造力にかかれば、それらの複数化・無数化が、(少なくとも)想像はできてしまう。この想像に関しては、ありとあらゆるいかなる存在にも、断じて否定されることはない。
では、「オムニバース」が単数から複数、無数になるために必要な背景とは、果たして何だろうか。
ここで重要なのは、物事が成立するためには、対立要素が不可欠だということである。例えば、「右」という概念が成立するためには、「左」という概念が必要になる。1方向しか向きがなければ、わざわざそれを「右」という概念で位置づける意味がないからだ。「上下」「前後」「明暗」「善悪」「生死」「天地」「今昔」などの概念についても全く同様である。
話を戻して、オムニバースの対立要素は何かについて考えよう。まず前提として、最も重要かつ核心になるのが、「オムニバース」が、「『有』の全集合」だということである。
そうであれば、「オムニバース」の複数化・無数化について思考・判断・表現するために必要な背景は、ありとあらゆる「有」全ての対となるものしかない。つまり、「無」である。私たち人間に想像・創造され得る無数の(無限にクリエイティブな)世界観・宇宙観の中でも、究極的に異質のそれである。
この「無」は、本当に、「『オムニバース』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」そのものである。前述の論理に従えば、もし仮に、「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」である「オムニバース」が無数に集まる集合がさらに無数に集合し、その集合がさらに無数に集合し、その集合がさらに無数に集合し、・・・と、無限に繰り返されるとしても、よもや仮に、「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」があるとしても、「無」はその対として、常にその(無限の)外側を表現できる。
重要なのは、この場合の「無」が、その性質上論理的に、決して複数化・無数化の対象にならないということだ。(「無限」と違って)「無」には、「濃度」など全くもって関係ないのである。
今、私たち人間の想像力・創造力をもって、「オムニバース」のその先に関する追究を進め、「無」という答えを導き出すことができた。
○「オムニバース」の先を追究する~「無」の先はあるのか?
さて、最後の追究に入ろう。「『無』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」が、果たして表現できるのだろうか。
しかしながら、この問いに直面した今、私たち人間は、ある事実に背中を押されることになる。「『無』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」とアウトプットした時点で、その何かが、「『どのような』何か」であるかについては、「言葉」で表現できているということだ。言葉を駆使すれば、他にも、「『無』以上の何か」「『無』より遥かに偉大な何か」「『無』を無限に超越する何か」などと、それをいくらでも、いかようにでも表現することができる。
ここでは、そのような多種多様なアウトプットの中において、最もその偉大さを的確かつ印象的に伝える言葉について、追究していきたい。では、私の(別の)文章を参照しながら、さらに追究していこう。
【この世界の大原則・根本原理について】
この世界の大原則・根本原理のことを、私は「PRINCIPLE G.O.A.T.(Greatest Of All Time)」と呼んでいる。まずはその定義について、しっかりと共通理解しておこう。
「誰もいない森で木が倒れたら、音はするのか?」という有名な問いがある。この答えは、「音はしない」だ。木が倒れたことによる音波が生じるとしても、それを「音」として「認識」する存在(何らかの認識可能体)がいなければ、音がしていないのと同じである。これは、世界そのものへの「認識」についても同様だ。どのような世界だとしても、それが何らかの感覚によって「認識」されなければ、それらの世界は存在しないも同然である。
私が「PRINCIPLE G.O.A.T.」と呼ぶのは、このような「認識」による世界形成において、(人間のみならず、全生命体、ありとあらゆる存在において一貫して)大原則・根本原理となるもののことだ。
共通理解ができたところで、最初に結論を示しておこう。この「PRINCIPLE G.O.A.T.」とは、「比較」のことであると思われる。これは人間のみならず、ありとあらゆる生命体においても全く同様だ。まずは、人間における物事の認識システムから考えてみよう。
例えば、「自分の個性」を考える際に、この世に自分1人しか存在しないと仮定してみよう。世界に自分しか存在せず、ずっと1人で生きていたとすれば、個性をどのように考えるべきなのだろうか。結論から言えば、この状況で個性を見出すことは不可能だ。なぜなら、個性というのは、「比較」の上に成立するものだからである。「明るい」が個性である人がいたとして、なぜその人の個性が「明るい」だと言えるのか。それは、周囲に比べてその人が明るいからである。手先が器用な人は、器用ではない人がいるからこそ、器用なことを個性として認識できる。
「比較」がなければ、差異を認識する(そもそも差異があるかどうかを認識する)ことができず、差異自体が発生しない。したがって、いかなる個性も決して捉えることはできないし、個性に対応する概念(観念)も言葉も、生まれようがない。
このことは個性だけでなく、「美しい」「大きい」「高い」「強い」などの特徴や、「好き」「大好き」「愛」などの感情、「幸福感」「恍惚感」「多幸感」といった感覚においても言えることだ。「我思う、ゆえに我あり」や、「梵我一如」「カオス(渾沌)」「道(タオ)」「空」などの哲学的思考・真理においても、「比較」が大前提となるのは当然である。もし、対象が全く「未知」の何かであったとしても、それが「未知である」という判断は、「比較」によって差異を認識した結果そのものであろう。究極的には「比較」が、ありとあらゆる「有」のみならず、「無」をも成立させるためのプリンシプルにもならざるを得ない。
人間にとってのあらゆる「実存」も、あらゆる「概念(観念)」も、「比較」を通すことによって成立し、表現される。つまり、「比較」して差異を認識(発展的には、「差異を用いて新たな差異を認識する」ことの無限の積み重ね。)することでのみ、この世界に当該実存や当該概念(観念)が(「言葉」という形で)表現されるのである。それは世界自体や、世界観・宇宙観においても同様に言えることであろう。
実は、比較が「PRINCIPLE G.O.A.T.」となるのは、人間以外のありとあらゆる生命体についても同様だ。例えば、動物の行動の変容は、視覚・聴覚を使って平時と有事を「比較」し、差異を認識した結果である。植物や菌類・微生物のそれは、触覚を通して平時と有事を「比較」し、差異を認識した結果であろう。各種生命体による創造物においても、それは全くもって同様である。AIが対象を認識する際に、システムとして「比較」を用いていることは想像に難くない。
このように考えれば、「何か」が「何か」を認識する場合において、「比較」を前提としないことは絶対にあり得ないと考えられる。つまり、この世界は、「比較」という「PRINCIPLE G.O.A.T.」によって創造されているのではなかろうか。
参照した文章の中で、「究極的には『比較』が、ありとあらゆる『有』のみならず、『無』をも成立させるためのプリンシプルにもならざるを得ない。」と述べていた。つまり、「無」を想像・創造するために必要な「PRINCIPLE G.O.A.T.」が、「比較」であるということだ。「有」がなければ、「無」も成立しない。もっと前提的な話として、「比較」がなければ「有」も「無」も成立しない。「比較」があってこそ、「有」の全集合すらも無限に包み込むほどに大きく、そして偉大な「無」が、想像・創造され、アウトプットされるのである。
この点を踏まえて、私の文章の続きを確認してほしい。
【ある表現(言葉)について】
【この世界の大原則・根本原理について】の項で、「比較」が大原則・根本原理、「PRINCIPLE G.O.A.T.」であることを論理的に証明した。これは、私たち人間が宇宙全体に誇る能力「言葉」についても、全くもって同様である。例えば、「比較」によって成立する表現として、次のようなものを挙げることができる。
■「数字」を用いたありとあらゆる全ての表現
■「とても」という表現
■「かなり」という表現
■「非常に」という表現
■「本当に」という表現
■「遥かに」という表現
■「最強」という表現
■「最高」という表現
■「最高中の最高(Best of best)」という表現
■「究極」という表現
実は、次に挙げる表現も比較によって成立している。
■「超~」という表現
■「極~」という表現
■「極超~」という表現
さらに実は、次に挙げる表現も比較によって成立している。
■「レベルが違う~」という表現
■「格が違う~」という表現
■「形容できないほど~」という表現
■「言葉にできないほど~」という表現
■「千言万語を費やしても表現し得ないほど~」という表現
■「世界が違う~」という表現
■「次元が違う~」という表現
■「超越」という表現
殊さらに言えば実のところ、次に挙げる表現も比較により成立する。
■「極まりない~」という表現
■「果てしない~」という表現
■「限りない~」という表現
■「無限の~」という表現
ありとあらゆる表現は全て、他と「比較する」ことによって成立する。つまり、「PRINCIPLE G.O.A.T.」に基づくものである。このことは論理的に、以下の表現についても同様だと認めざるを得ない。
■「無限の可能性」という表現
■「無限の可能性の無限集合」という表現
■「無限の可能性の無限集合(濃度∞)」という表現
■「オムニバース」という表現
■「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」という表現
■「無」という表現
しかしながら、このことを念頭に置いた上で、ぜひ注目してほしい表現がある。
■「比較にならない~」という表現
この表現だけは、私の論理を全否定し、「PRINCIPLE G.O.A.T.」を破壊する。この表現は果たして。
「PRINCIPLE G.O.A.T.」に従って、「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」の(無限の)外側となる「無」を導き出した以上、それよりもさらに大きく、さらに偉大な「何か」を明らかにし、想像・創造することは、人間には無理である。もっと言えば(私の文章において述べたように)それは、ありとあらゆる全生命体(及びその想像物・創造物)において、絶対に無理なことであると考えられる。究極的極論としては、「『オムニバース』の無限集合(濃度∞)」そのものが「無」を想像・創造する場合でさえ、「PRINCIPLE G.O.A.T.」が必要不可欠なのだ。
しかしながら前述の通り、私たち人間がもつ、無限に偉大な「言葉」の力を借りて、その「何か」が、「『どのような』何か」であるかの最適解を思考・判断し、表現することは可能である。「比較にならない~」というアウトプットがそれだ。
「『無』よりも、さらに大きく、さらに偉大な何か」が、「『どのような』何か」であるかを表現するとすれば、それは、「『無』とも『比・較・に・な・ら・な・い・』ほどの何か」となるのではないだろうか。
○おわりに
ここまで長らく追究を続けてきた。難解な論理を追ってくれたことに、心から感謝したい。そして、この追究を可能にした数学、物理学、量子力学、哲学、言語学などの学問分野における先人たちのアウトプットの積み重ねにも、最大級の敬意と感謝を表したい。
「オムニバース」から見れば、「私」という「無限の可能性の無限集合」など・・・と誰もが思っただろう。しかし、ここで超重要となるのは、「自分自身の人生が大きく広がり、素晴らしいものになるほど、自分が存在する世界そのものも大きく広がり、偉大なものに感じられる」ということだ。「『オムニバース』からの視点で見たら、自分の人生は限りなく取るに足らない。それでも、これだけのことができるんだ!」というパラダイムは、そのような自分を包み込む「オムニバース」や、果ては「無」そのものを、さらに偉大なものだと認識することにつながる。自分と同様に努力と創意工夫を重ねる他者を、さらに尊重することにもつながるだろう。自分を成長させ、他者を尊重し、幸福を追求し続けることで、今あなたが存在している世界そのものが、もっと広く、もっと大きく、もっともっと偉大になっていく。
だからこそ、努力しよう。工夫しよう。挑戦しよう。そして、学び続けよう。心から愛と感謝を伝え合い、みんなで成長しよう。このような気持ちをもつ人々が増えれば、私たちが生きるこの世界線は、他のありとあらゆる無限の世界線とも、「比較にならない」ほど、素晴らしいものになるはずだ。