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自然が私たちに教えてくれる(まめな滞在記 二)

前回のやつ


2022年7月31日
今日も、昨日から続いてすごくすらすらとかける日。
ってことでそのまま書こうと思います。

昨日書いていたメモ。流れるように書ける字はいいものだ。

昨日から、一つ決めたことがある。
綺麗に書くことを意識するのではなく、毎日書き続けること。
書くときは、書きたいことをそのまま、ありのまま書く。
見栄を張らず、きれいに書こうとせず、そのまま流れるように書くということ。これを自分自身持てるようになってから、すごく楽になった。
今の自分に大切なことは、事務。
内容とかそういうものはもちろん大切だけど、それだけを意識し続けるのではなく、やったこと、繰り返したことそれそもそもを受け止めてあげること。
評価されるために、考えたり、書いたり、実際自分なりにしてみたり。そういうことではない。

「すぐに評価されるものではなく、分からないものを生み出し続ける。」


自分自身、昨日読んでいたnoteがすごくよかった。

「生きるとは、好きなことを継続すること」


自分自身、継続ができない人だ。でもそれって評価されること、苦しいことを継続しようとすることが多い。
それは頑張らないといけないことだから。
これはしないといけないから。
と。

でもそれでは、続かない。
そう、流れていない。流れ続けていない。

好きなことであれば継続できる。
そして、分からないものを生み出し続けていい。(その生み出しているものを自分自身が信じているのであればね。)

そんな学びを僕にくれた坂口さんに感謝したい。


感謝の語源についても調べてみた。
まめなも感謝経済と言っているから、感謝って何か気になってしまって。

「感謝」の語源

謝の漢字の成り立ちを調べてみると、謝は「言」と「射」でできています。「射」は矢を放つことであり、その結果、弓の緊張が解けることを意味するのですね。言葉に出すことにより、心の緊張が解けること。ということは、「感謝」とは、物事に接して、深く心が動いたことに対して、言葉を射る=発するということです。

なんかよくわからんサイトに載ってたけど、いいなと思って載せました。


物事に接して、深く心が動いたことに対して、言葉を射る=発する。
ということは、この言葉より大切な姿勢があるだろうと思う。それを忘れてしまっては、感謝の土台にはたどりつけない気がする。

「物事に接して、深く心が動いたこと」
と記されているということは、物事に接して、深く心が動く。その土台が必要であるのではないか。

それは、感じる力だと思う。
自分自身が感覚を意識して、生活していくことができないと感謝をするという土台にたどりつくことができないのではないか。

そう思ったときに、自分自身も感覚を磨くことを大切にしたいと思った。
そして、自分自身は小さなころから「まねだね。」と言われることが多かったことを思い出した。

そして、自分自身は、人を見ていると
「こんなこと思っているんだろうなー」
「なんか、悩んでいるのかな?」
「誰々と関係性あんまりよくないのか」

など、一つ一つの言動、行動、におい、声、目の動き、から感じることが多い。だから、自分自身大人数の会に行くのは苦手だし、二人でゆっくりお風呂に入りながら話すのが好きだったりする。

自分自身、今まで、「感じすぎる」ことに対しては、短所だと思っていたし。疲れるからやだなーと思っていたけど。
その自分自身の持つ「感覚」は、うまく使えば「まめな人」として、いい意味で相手のために力になれることがあるのかと思った。


僕の感覚の豊かさが、大切な人の力になる。


それであれば、自分はもっとそれを使っていきたい。
目の前にいる、自分自身に心を開いてくれた人のために、
全力で向き合っていきたい。
そう思った。

あいだす。にはかわいい生き物がいます。いつもみんなを見守っているんだね。ありがとう。



おっと、本題に入るまでにゆっくりしすぎましたね。(笑)
今日は、梶岡さんの畑に行ったときの学びを記そうと思う。

梶岡さんの紹介はこちらから。


梶岡さんは一般社団法人まめなの代表理事の一人。
関わる中で、梶岡さんは自然を感じることができる人だと思った。
今、梶岡さんは柑橘栽培をしている。それも自然農法で。

毎日暮らしの中で、自然と対話しながら、生活をしているんだろう。
ある日、僕は梶岡さんの畑に連れていってもらった。

僕はその時の話、一緒に見た光景を忘れることができない。
自分の心の中にストン。と落ちたんだろう。
梶岡さんの話が、土に落ち、時間と共に、自分のたい肥となって、自分の中に取り込めてきている感じがする。

自分も自然も同じ。
方法を間違わなければ、じっくりと自分の中に溶け込んできてくれる。


「自然」の語源

自然の語源・由来 自然の「自」は「おのずから」「みずから」の意味、「然」は「そのとおり」「そうである」の意味で、自然は本来のままであることを意味する。 そこから、海・山・川・雨・風・水・土・石・木・草などの外界や環境、そのものに本来備わっている性質、わざとらしくないさまなどを意味するようになった。

これもいい感じの文章を引っ張ってきました。


自ら感じ、自ら考えたことは、そのとおりである。
自ら考えることができない、自ら感じることができない。ということは非常な欠陥である。と僕は解釈した。


自然に囲まれ、作業ができるということは幸せだ。虫多かったけど(笑)


本当に草がたくさん生えている。
でも、そんな中でも柑橘などの植物は力強く育っている。


「生きる力」


人間も植物も同じかもしれないとおもった。
農薬を使って、甘やかしたらそれが当たり前になって植物は自分で生きる力を失ってしまう。
人間も同じ、なんでもかんでも人にやってもらっていたら、日常を俯瞰して捉えず当たり前に感謝できないようになってしまったら、生きる力を失ってしまう。

「なんでもかんでもお膳立て、土を作りすぎない。」


信じる。
自分で考える、自分で一からつくる、ことを忘れないように、なんでもかんでもお膳立てしすぎない。ということを自分は大事にしたいと思った。

その感覚を持てていると、「コモンズ」は作りやすく、続きやすい。
そして、感謝の循環が生まれる。
そして、みんなでつくる、管理し続ける習慣が生まれる。
そして、みんなの一部。みんなのものになる。
そういう学びを梶岡さん、そして自然から学んだ。


今日はすらすら、書ける。
流れる日。

明日も明後日も。





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