新しい職場に送るメール
谷舞佳です。
先日はお世話になりました。
下記、わたしの気持ちです。
面談とか、直接話す場面では、きっとわたしはこんなに本心を言うことはできないので、文章にしました。
できない理由も、書いたつもりです。
何もかも、すべてのわたしを素直に書きました。
受け入れてほしい、というわたしのエゴでしかないかもしれません。
でも、どうしても伝えたくて、届いてほしくて、書きました。
長文にはなりますが、どうぞ読んで頂けると嬉しいです。
宜しくお願い致します。
わたしは優しい。
「優しい」は、わたしを表す上で、必要不可欠な言葉だ。
わたしは優しい。わたしは穏やか。わたしはいい子。
でも、わたしは、そんなわたしが、好きではない。
優しくて穏やかなわたしが、好きではない。
わたしの優しさは他人を救うものではない。
他人を守るものでもない。
わたしは、わたしが傷つかないように、ひとに優しくしている。
態度というものは、言葉というものは、返ってくる。
言葉は魔法だ。
優しくすれば、人はそれだけの優しさをくれるし、冷たくすれば、人はそれだけわたしに冷たく接し、わたしを傷つけてくるだろう。
だからわたしは、ひとに優しくする。
傷つけられないように。
しようとしてやっているのではない。ほぼ自動的なレベルで、無意識的なレベルで、ひとに優しくしてしまう。
ひとに冷たく接して、冷たい返答をされることが怖いから。優しくない対応をされるのが怖いから。傷つけられるのが怖いから。
わたしの口からは、優しい言葉しか出てこない。
しかも、「普通」じゃダメなんだ。
「普通以上の優しさ」を見せてもらわないと、だめなんだ。
怖い。
わたしの優しさは、本当の優しさではない。
他人を想う優しさとか、そんなんじゃない。
他の誰でもない、わたしのための、わたしのためだけの、優しさだ。
本当の優しさなんて、もっていない。
本当は、わたしは穏やかなんかじゃない。
心の中でいつもひとを判断している。
この人はわたしを傷つけてくる敵か。わたしに優しくしてくれる仲間か。
でも、ひとがわたしを傷つけようが、わたしに優しくしようが、そんなの関係なく
どんな態度を取られても、どんな表情を見せられても、どんな言葉を投げられても、わたしは優しい。
優しくすることしかできない。
仕返しなんか、できない。
したくてもしたくても、できない。
そういう人間だから。そうすることでしか、生きられない人間だから。
優しくされなければ、心の中で「ふざけんな」と呟く。
優しいわたしなんてやめたい。
嫌いだと思ったら嫌いと、いなくなれと思ったらいなくなれと、ひとに言える強さがほしい。
そうでないと、都合よく消費されるのが、優しさというものだから。
優しさなんかいらない。
精一杯の演技をしている。
優しくて、真面目な、演技をしている。
「あなたのことを恐れていませんよ」「あなたのことを信じています」というふうに。
だから、対人恐怖があると言っても、理解されないことが多い。
大抵、「え?対人恐怖があるとか言っているけど、全然普通に喋れるじゃん」と思われたり、言われたりする。
でも、普通に喋れる演技をしないと、傷つけられるかもしれないから。
その一心で、わたしはわたしを演じている。
「演技なんかせずに素で挑もう」「思ったことは素直に言おう」。そう何度思っても、実際にひとを前にすると、できない。
「絶対に傷つけられる」。そう感じる。
「谷舞佳と円滑なコミュニケーションができている」
相手がそう思った時点で、それはもう、相手はわたしの演技に魅せられているのだ。
全ては、傷つけられないため。
そんなただでさえ敏感な、わたしの「傷つきセンサー」を、より敏感に察知するようにするものが、電話だ。
わたしは、電話をすることができない。
苦手とかいうレベルではない。
電話をしなきゃいけないくらいなら、死んだ方がマシだと、本気で思っている。
自殺する。全然自殺できる。
電話はわたしを傷つける。
声だけで、喋り方だけで、優しさを伝えてくれる人なんてそうそういない。
そこまで気を回してくれる人なんて、いない。
わたしは、相手の態度や言葉が、優しくなければ、傷つく。いくら「普通」であったとしても、傷つく。
「とても優しい」くらいで、やっと、わたしの中の「普通」の基準をクリアする。
電話は特に、声だけだから、相手がどのくらいの優しさをもってわたしと話しているのか、どんな気分でわたしと話しているのか、わからなくて、怖い。
顔が見えないから、怖い。
傷つけられる可能性が高いから、怖い。
声だけで相手の機嫌を判断しなきゃいけないから、怖い。
「機嫌を判断」なんてしなきゃいい。そう思われるだろう。
しかしわたしは、相手の機嫌が悪ければ、自分のせいだと思い込む。
わたしのせいで相手の機嫌が悪い、どうにかしなきゃいけない、どうにかするのがわたしの責任だ、と思い込む。
そういう環境でわたしは生きてきた。
母の機嫌が悪ければ、わたしのせいだと、必死に謝った。
母が不安定な気持ちになっていれば、わたしも不安になった。
母は、わたしのすべてだった。
母は、わたしの心、だった。
その環境もあってか、どうやら、わたしには、ひとの気持ちを感じ取る力があるらしい。
人生で初めて、レジのアルバイトをした時なんかは、次から次へと、色んな人の感情がわたしの中に入ってきて、苦しくて仕方がなかった。
ひとが悲しんでいるのを見ると、わたしも悲しい。
ひとが傷ついているのを感じると、わたしも傷ついてしまう。
それを回避するためにも、わたしの優しさは存在する。
誰も傷つかないために。
誰か傷ついて、その傷つきをわたしに伝染させないように。
すべては、わたしのため。
電話をしない、ということ、もっと大きく言うと、ひとと関わらないこと。これはわたしにとっての武器であり、盾である。
誰の感情もわたしの中に入ってこない、誰もわたしを傷つけない。完全に安全な状態。
わたしはそんなユートピアを、誰にも壊させるわけにはいかない。
電話をしないということは、人と関わらないということは、わたしを危険から守ることなのだ。
「電話 苦手」で検索すると、社交不安障害だとか、HSPだとか、そんな言葉の羅列だ。
わたしが社交不安障害だろうと、HSPだろうと、そんなのどうでもいい。
ただ、「電話ができる」ということの何がすごいのだろうか。
「電話ができない」ということの、何がいけないのだろうか。
わたしはわたしを守りたい。
その一心で生きてきた。
そうしないと生きられなかったから。
その一心で得た術のひとつが、電話をしないということだった。
自分を守りたいのは、誰だって同じだろう。
ただわたしは、その気持ちが人より強すぎた。
そして、人より、脆すぎた。
わたしの「電話できない」は、色んなトラウマとか、色んな経験、言ってしまえばわたしの今までの人生の結果だ。大袈裟ではない。
だから、「電話できるようになれ」は、過去を変えろと言われてるようなもので、わたしの頑張りがどうとか関係なく、当たり前に、不可能なことなのだ。
それをわかってもらうのが難しいということは、よくわかっている。
「普通」はできる、できるのが「普通」だから。
でも、電話ができないということを、治そうとか、練習しようとか言われると、わたしの生きてきた人生を否定されてるみたいで、悲しい。
わたしは普通じゃないかもしれない。
でも、わたしは、治さなきゃいけないもの なんか、背負って生きていない。
一生懸命生きてきたわたしのこと、わたしは恥ずかしくなんかない。
自分のこと絶対守ろうって決めて、そうしてきたわたしを、わたしが信じなくて、守り切らなくて、どうすればいい。
誰も守ってくれないくせに
みんな平気で傷つけてくるくせに
これからもわたしは、わたしを救うために、わたしを守りながら生きる。
決して曲げるつもりはない。
それを曲げるということは、わたしを生きることをやめるということだ。
わたしは、こんなわたしだけど、絶対に、わたしを、わたしの手で幸せにし続ける。
誰も認めてくれないなら、誰も受け入れてくれないなら、わたしが、わたしを抱きしめる。
誰も導いてくれないなら、わたしが、わたしを進ませる。
わたしは、わたしを生きることを、絶対にやめない。
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