恋愛ゲーム

小学校中学年から中学卒業までの間、私の学校生活には、あるルールがあった。
そのルールとは、「自分と同じクラスの男子の中から1人選んで、"仮の"好きな人に設定する」というものである。
(仮ではなく本当に好きな人でも良いのだが、"自分と同じクラス"という条件が必須なので、好きな男の子が他クラスにいる場合は、同じクラスに"仮の"好きな人を置く。私の本当に好きな人は大抵他クラスだった。)
これは、私が楽しく学校生活を送るためのルールである。

私の学校生活はゲームだった。
「どれだけ“仮の好きな人"を落とすことができるか」というゲーム。ポイント加算方式。

よし、今私みんなの前ですごい発表したぞ!好きな人(仮)が見ている!よし、1ポイント。
お、今私めっちゃ思わせぶりな行動したぞ?1ポイント。

今これを読んでくれている人の大体は、私のことを「やばい女だ…」と思っているかもしれない。でも否定できない。実際にこれをやっていたのだから。私はやばい女なのかもしれない。

このルールは、「作ろう!」と思って作ったわけではない。このゲームを「やろう!」と思ってやっていたわけではない。ただ、本当に自動的に、無意識的にやっていたのである。

男好き、というわけではない。

私は、「この人が私を見ている!」という感覚が無ければ、何も頑張れなかった。
何のために、どういった振る舞いで、"そこ"に存在していればいいかわからなかった。

そして、「この人」の位置に私が置いたのが、同じクラスの男子だった。というだけである。
これが、私のゲームになった。


中学1年生の頃、私が「仮の好きな人」として置いたのは、休み時間にちょくちょく雑談をする男子だった。仮と言っても、やはりクラスの中で一番いいなと思う人とか、仲の良い人を選ぶ。

その"仮の好きな人"を、Nとする。
Nは、私の隣の席の男子と仲が良かった。休み時間になると、決まってその男子の席へ来て、話をしていた。
私は私で、休み時間になると、私の席に友達が集まった。そこで、私のいわゆるいつメン、と、Nとその友達、が一緒に会話するようになって、次第に仲良くなっていった。

ただ、正直、私はNにどんな言動・行動をしてポイントを稼いでいったのかあまり覚えていない。
授業中にNを見つめて、目があったら微笑むとか、話をしている流れで近づいてみたりとかはした気がする。あとは、基本的に、「可愛い返答」をしていた。イメージとしては、"明るくて活発で、少しわがままだけど、甘えたがりな妹"という感じだろうか。

よく覚えているのは、「Nが明らかに私に好意をもっている」と私が感じだしてからのことである。
Nは私に、好きな人は誰なのか、としつこく聞いた。
私は絶対に名前を言わなかった。
代わりに、ヒントとして、「サッカー部に所属している」と言ったことがある。
Nはサッカー部だった。
そして、他クラスにいる、私の本当に好きな人も、サッカー部だった。
私はあえて、「私の好きな人がNだという可能性もある」ヒントを出し続けた。つまり、Nと私の好きな人の共通項、だけをヒントとして挙げていったのである。

そして最後には、「私の好きな人はNだって言ったら、どうする?」と微笑んだ。


1年間ずっとこんなことを繰り返していた。
私のことを好きな人がいる、ということは嬉しくて
思わせぶりな言動や行動をすることが、楽しくて仕方なかった。

私の価値が上がるのが、目に見えてわかる。

告白されたいわけではない。
されたら、断らなければならない。つまり、このゲームが終わってしまう。
そうなれば、私は、いったい何のために学校生活を送ればいいのか。私は、誰に、私の価値を上げてもらえばいいのか。
告白されること、は、"終わり"である。
いつも、告白されるギリギリ、を攻めていた。

Nは、本当に私のことが好きだった。
放課後、私が部室の窓から校庭で試合をしているサッカー部(厳密に言うと、私の本当に好きな人)を見ていると、Nが私に手を振ってきた。
彼氏か?というほどしつこくLINEをしてきた。
「義理で良いから、バレンタインチョコ頂戴」とも言ってきた。

ある日、私はついにNに告白された。
私は正直、「告白されてしまった」と、焦った。
私はどこまでも、出来るところまで、思わせぶりを続けたかった。
私を求め続けてほしかった。
そして、「考えさせて。少し待って」と返事をしたのだ。

その後、私は、Nを振った。

しかし、少し経ってから、私はそれを後悔する。

「仮の好きな人をどれだけ落とせるか」のゲーム。告白されるまでいったのだから、完全に落とせている。言うことなしの満点だ。

しかし、Nが、私への興味がなくなったとき
私のことを求めてくれる人がいなくなったとき
私の中は空っぽだった。

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私は、学校の先生に対しても、しばしば同じようなゲームをした。
流石に、思わせぶりをするとか、そういう恋愛的なものではないが、
どれだけ良い生徒になれるか、のゲームをしていた。

先生から評価されることが嬉しくて仕方なかった。
いや、嬉しいとかいうレベルではなく。
そこに生き甲斐を見出していた、みたいな。


私は小学4年生から中学3年生までずっと学級委員をやっていた。
人気者だったわけではない。リーダーに向いていたわけでもない。
ただ、先生に、良い生徒だと思われたかった。

大人から評価される、というのは特に嬉しいことだった。
大人しくて、クラスのノリになんとなく合わせられない私は、同級生からの評価を得ることは難しかった。

それでも、私は、私が正しいと信じていた。
今は陰でひっそり生きているけれど、社会に出てから評価されるのは、私のような人間だ、と。
みんな馬鹿だなあ、とか、同級生たちを見下していた。

先生たちは、私を評価してくれた。
だから私は、「やっぱり私は評価されるべき人間なんだ」と信じ続けていられた。

集団生活は苦手だ。
でも、学校には、私を正しく評価してくれる大人がいた。
私にとって学校は、なくてはならない場所だった。

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私は、自分の価値は他人が決めるものだと思っている。
そして、価値がないと生きていてはいけない、と思っている。

そんなわけない、と頭ではわかっている。
でも、この感覚が抜けない。
いつからこの感覚で生きているのかわからない。
何故この感覚で生きているのかもわからない。
それでも、とにかく、私の世界では絶対的にそうなのだ。
わかっていても、変えたくても、変えられないのだ。

他人からの評価が全てだ。
他人からの評価で、私という人間の価値が決まる。

だから、他人に優しくする。
気を遣う。
でもそれは、本当にその人のことを想ってやっているわけではなくて
自分の価値をあげたいからやっているだけなのだ。

小・中学生の頃にやっていたゲームもそうである。
私は、単なる恋愛ゲーム、成績上げゲームをしていたのではない。私の価値を上げるゲームをしていたのだ。
それをしなければ、私は学校生活を、もっと言えば人生を、どう生きれば良いのかわからなかった。

私のことを良いと思われること
求められていること
それが嬉しかった。
安心した。
私には価値があるんだ
存在して良いんだ
と思えた。

しかし私は、他人と関わることが、本当に嫌いだ。

改札を間違えて入ってしまっても、駅員さんに助けを求めることは絶対にしたくない。そこから乗れる適当な電車に乗って、遠回りをして帰ろうとする。

大学で、同じ教室に友達が居ることに気がついた時。その友達が、私がいるということに絶対に気づかないように、私はずっと下を向いている。

変なタイミングで出して店員さんの機嫌が悪くなったら怖いな、とか思って、ポイントカードを持っているのに出せなかったりする。

寝ている人を起こすことが怖い。
寝ているということは、その寝ている人が絶対にわたしを傷つけてくることはないし、わたしもその人を絶対に傷つけない状態であるということだ。
だから、起こすということは、寝ていた人がわたしを傷つけうる存在、またはわたしがその人を傷つけうる存在になる、そういう存在にする、ということだ。

他人と話すことを極力避けたい。
怖い。傷つけられたくない。傷つかれたくない。
怖い。

毎日、自分を守ることで精一杯だ。
外に出たくない。
友達と話したくない。
傷つきたくない。

それでも、他人と関わらなければ、私は自分に価値を見出すことができない。

苦しい。

苦しい。

何故私は私として生きる必要があるのだろう。

自分で自分に価値があると思えるようになれればいいのだろう。だけど、それは、本当に、できるようになる気がしない。
機能が備わっていない。
できる人間ではない。

だからやっぱり、
他人に求められること
評価されること
大切にされること
これらを得るための行動をしてしまう。

そうしてでしか自分を満たせない。


私に価値はあるのだろうか。

私は生きていていいのだろうか。

私にはわからない。

その決定権を握っているのは、他人だから。



2021/09/28


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