名前はまだない(幼少期の思い出編②)

前回は幼稚園児の頃の思い出を書いた(「幼少期の思い出編①」)。
今回は小学生ごろのことを書くが、前回と同様に「心の傷をひとつずつすくっていく」ために結構細かく書く。
相変わらずの虐待の話も、今回は痴漢や誘拐未遂などの性犯罪も少しあるので苦手な方は読まないでほしい。

カウンセリングで「小学生の頃から鬱だったんじゃないかな。」と言われたことがある。振り返ってみると、本当にそうだと思う。

小さい頃から出掛けるとろくなことがなかった。本屋で知らない男に付け回され、逃げても逃げても何度もスカートの中に手を入れられて太ももや尻を撫でまわされた。
おもちゃ売り場では知らない男に「お父さんの知り合いだよ」と声をかけられ誘拐されそうになったし(うちの父親はサービス業でお客さんとしての顔見知りが多い)、家族でタクシーに乗れば全員寝静まった時に運転手が私の手を握ってきた。助手席には母が座っており、私はその上に乗っていたので動いたり暴れれば母は起きるはずだった。でも怖くて気持ち悪くて動けなかった。
母より力が強い大人の男が怒ったらどうなるか、怖かった。

外に出ても地獄だが家庭内も地獄だった。
小学校からは中学受験も加わって殴られる回数が増えた。環境を変えたくて自分で選択したのだが、勉強は嫌いだった。
今思えば鬱の影響だろうが、集中力もなかったし休日は大の字になってひたすら天井を眺めていた。
真面目に勉強しない私に怒り狂った母は怒鳴りながら算数の問題集をびりびりに破いた。しかし私は「あーこれで勉強しなくて良い理由ができたなあ。」とちょっとほっとした。
「勉強したいなら自分で戻しなさい。」と言われたが、「お母さんが破いたものをわたしが直す意味が分からない。」と答えてまた殴られた。その日はリビングに問題集だった破片を残したまま他の教科の宿題は済ませ、帰宅後驚いた兄や父に「これなに?」と聞かれる度に「お母さんが破いた問題集。」と答えた。
母は私と二人だけの時を狙って暴れていた。父は働いていたし兄も学校や部活や塾に忙しかったので、わざとなのか偶然だったのか、真相は藪のなかだ。
そして翌朝、納得いかない顔の母に「これに懲りたらちゃんと勉強しなさい。」とセロハンテープだらけの問題集を差し出された時にはひどくがっかりした。
心のなかで(これに懲りたら怒りに任せて問題集を破くのはやめなさい。)と思いながら仕方なく受け取った。

また、何が原因だったか覚えていないがご飯の時間に私だけ椅子が無かったこともある。何故だかこれはものすごく堪えた。立ったまま食べようとすると、兄が半分椅子を譲ってくれた。兄も兄で何かあれば殴られていたし、顔にお箸を投げられて失明しかけたこともあるので断ったが、「こんな状況では俺が食べられない。」と言ってくれた。もちろん母は怒り、「わたしが悪いみたいじゃない。」と兄に矛先を向けたが、兄は私より体も大きく口も立ち頭の回転も良かったため母はすぐ負けた。
隠していた椅子を持ってきた母は鬼の形相だったので座っていいか悩んだが、兄が勧めてくれたお陰で座って食事ができた。「自分の席が奪われる」というのは結構なトラウマになると知った。

そんな環境と性格だったので、小学校も下を向いて泣きながら重い足を引きずって登校し、受験シーズンの6年生の頃には保健室で寝ていた時間も多かった。
両親を全く信用せず、本心を話さず、それでも反抗はする、そんな私はとても育てにくい子どもだっただろう。
病んでいた最近は牙を抜かれて、反抗する私が悪いかったから怒られるのだと思っていたが、元気になった今は誰のせいでそうなったのかと憤りも覚えている。子供の信頼を失うような真似をし続けたのは向こうだ。

決定的に関係を断絶させる出来事が起きたのも小学生の頃だった。
勉強中呼ばれ向かったダイニングには両親揃って座っていて嫌な予感がした。
母は机の上のパンフレットをこちらに差し出して言った。

「お父さんとお母さんではもうあまねを育てられない。言うことを聞いてこの家にいられないなら、ここで暮らしなさい。」

よく覚えていないがお寺ような写真だった気がする。悪い子供が行くところで、怖い大人たちに監視されながら厳しい毎日を送り、遊ぶ自由もないと説明された。
もちろん傷つき怖い気持ちになった。ただ疲れきっていた私は家を出られることへの希望も少し感じた。母と暮らすことはそれほどまでに苦痛を与えるものであった。
反応をうかがうようだったが、向こうの言い方は「あまねはどう思う?」ではなく「ここで暮らしなさい。」だったので
「そう決めたんならそうしたら。わたしが嫌だって言ったらやめるの。」と答えた。我ながら可愛いげがない。
その後どうやりとりしたのか覚えていないが、鮮明に覚えているのは「自分で決めたのなら自分で電話をかけなさい。」と子機を渡された時の恐怖だ。子機を握りしめて考えた。

(私は今まさに捨てられようとしている。
悪い子が集まる、娯楽もない見知らぬお寺へやられる。今より強い力で毎日殴られるかもしれない。しかもそれを自分の手で選択せねばならぬという。何故なのか?)

普通の子どもならここで泣いて謝るのだろうが、私は母に子機を差し出した。

「決めたのは私じゃないでしょ。」

さきほどの、何故なのか?という問いの答えは「母が言い出したから」である。
お気付きかもしれないが父は形骸化していた。稼ぎは優秀だが家庭では黙って座っているだけだった。そんな父は、「確かに。」と一言だけ言って母に子機を渡した。本当に気持ち悪い男である。

結局、母は番号を押せなかった。

捨てるような真似をして脅して言うことを聞かせようとし、結局何も起こさず、自分が被害者のような面をする母。今でも憤りを覚えるし、父も父でとても気持ち悪い。彼は母と私どっちの味方でもなかった。あくまで私と母との問題で、自分は関係ないとでも言いたげだった。

多分母は母で悩んでいたのだろう。
しかし辛いと泣く我が子を枠にはめ、枠から出ればヒステリックに叫び、殴り、懲罰しか与えなかった彼女を私は一生許さないと思う。


そんな小学6年生の頃、「母を殺したい。」と同級生に漏らしたことがある。私は幸い前科は付いていないが、それはこの同級生のお陰と言っても過言ではない。
彼は私の言葉に心底同意してくれ、自身の父も母や姉や自分を殴ることも打ち明けてくれた上で、

「でもさ、そんな最低な奴のせいで自分の人生を棒に振るのめちゃくちゃ勿体なくない?」と言った。「もう少し大人になったら殴り返せるようになるし、もっと大人になれば家を出れば良い。今だけ、少しだけの辛抱だよ。でも刑務所は一生ものだ。」と。


小学校6年生、12歳。彼は本当に大人だった。今振り返るとそんな言葉を彼に吐かせてしまう環境に悲しくなるが、当時のわたしは心の底から納得してしまい、彼のお陰で憎悪を抱えながらも人を殺めずに済んだ。

今どこで何をしているか知らないけれど、竹田くんその節は本当にありがとう。
(相変わらず締めかたが分からない)

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